「一本の木」ニンフォマニアック Vol.2 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
一本の木
トリアーの『アンチクライスト』は、パゾリーニ『奇跡の丘』(キリストの受難物語)を想起させたが、本作で中年女が性癖を語る所などはパゾリーニ『ソドムの市』を想起させる。(本作でセリグマンが、「デカメロン」「カンタベリー物語」「千一夜」とパゾリーニの作品名を挙げたのは偶然だろうか。)
『ソドムの市』(原典「ソドム百二十日」)の人々は、悪徳の限りを尽くし、善悪の彼岸を渡る。
それをなぞるように(いささか小粒であるが)、本作ジョーは性遍歴を重ねて行く。
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vol.1では、ジョーが性の快感を得られなくなった状態で終わる。
観ていて、「そりゃそうだろうよ」と思った。
そもそも、トリアーが性交を「気持ち良いもの」として描いた事があったか?
彼の映画の中で「性交」は常に、罪であり、罰であり、贖いの象徴ではなかったか?
今さら、ただ単に「気持ちイイ」ものとして描かれても、困る。
vol.2で快感が復活するのは、罪の果てのものだからだ。
罪の果て。
それが、トリアー流(ソドム流)に言えば、善悪の彼岸を渡る道筋なのか。
罪の果ての快感こそが、愛や道徳や宗教という既成概念からの解放であり、「救済」なのか。
本作の性遍歴は、既存の道徳・宗教とは真逆のベクトルに向かってはいるけれど、「救済」のための「祈り」のようなそんな側面も見せており、それはそれで一つの「信仰」であり修行のようにも見える。(それは『奇跡の海』などと同様である。)
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何もかにも犠牲にして、「祈り」のごとく修行のごとく,性交にいそしむジョー。
だが、しかし、ジョーがどんなにヤリまくっても、そこに「救済」は訪れない。
「祈り」は聞き入れなれない。
ヤリまくった先に発見できたのは、自分の孤独な魂である。
何人もの人と交わろうが、結局それは、「壮大な自慰」に過ぎなかった。
ジョーは、誰とも交わらない童貞男に、自分と同種の孤独を見て共感を寄せるが、それも、大きな勘違いに過ぎない。
童貞男は「オレにもやらせろ」=性交しろ=もっと「祈れ」と迫る訳だが、ジョーは拒絶する。「祈り」の拒絶、「信仰」からの解放。
本作で描かれるは、「祈り」を捨てた、天国でも地獄でも無い場所。そこに立っている一本の木の孤独である。
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ジョーの「祈り」にも似た性遍歴が、結局の所、「自慰」に過ぎなかったように、世の「祈り・信仰」も、己を気持ちよくするための「自慰」に過ぎないのではないか。より「気持ちよく」祈るためには、「罪の意識」というエッセンスが不可欠である。そんな既存宗教へのアイロニーも提示されているのではないかと思う。
(ジョーの行為が、滑稽で笑える一方で痛々しく切実なのは、宗教に入信したり離れたりしている監督自身の葛藤の投影なのかもしれない。)
トリアー作品の多くは、既存の宗教・道徳への痛烈なパロディであるが、本作は、そのトリアー作品自体のパロディにもなっている。
『奇跡の海』『イディオッツ』で描かれた愚者の恍惚、『メランコリア』での滅亡への陶酔。本作もそっち方向へ進むかと思わせて、なんちゃってと舌を出すトリアー。(『アンチクライスト』OPパロディも可笑しい。)
毎度毎度、お騒がせな感じの作風に辟易する部分もあるのだが、それを越えて、面白いなあと思わせる映画だった。