カップルズのレビュー・感想・評価
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90年代の沸騰する台湾と、青年たちの狂騒を描く
エドワード・ヤンの作品はどれも、キャラ同士が織りなすナチュラルな空気感と、パズルのピースをはめるような緻密な構成が面白い。特に90年代を舞台にした『カップルズ』は、60年代が舞台の『クーリンチェ』の青少年キャストの何人かが再起用されていることもあり、両者を見比べるとタイムスリップしているような感覚が身を貫く。物語としては別物だが、俯瞰した視座で時代を見つめ、若者の青春と焦燥を刻もうとする点は変わらない。加えて、急速に変わりゆく街、人、価値観を活写し、親世代の疲れた表情とそれに対する子世代の目線をも痛烈に浮き彫りにする。この群像劇の一端を担うのは台湾人だけではない。外国人までもが夜光虫のごとく引き寄せられ、経済的成功を掴もうとする。その狂騒と混乱の先にニュートラルな視点を持った新入りのルンルンは何を見るのか。本作は若者たちの試練と成長の物語だ。夜の賑やかな喧騒の中で花咲くラストが忘れがたい。
欲望のゲームと麻雀の類似性に注目すると、映画の面白さが増す
原題は「麻雀」だが、エドワード・ヤン監督はもちろん麻雀を題材に映画を作ったわけではない。1996年、活況に沸く台北。外資とともに一獲千金を狙う外国人も流れ込む喧噪の街で、他者を出し抜いてでも金を稼ぎ、成り上がって勝者になることを望む人々を、麻雀のプレイヤーに見立てるシニカルな視点がヤン監督にこの題を選ばせたのではないか。
言葉巧みに人を操ろうとするリーダー格のレッドフィッシュ(サッカーの久保建英選手にちょい似)、若きジゴロのホンコン、インチキ占い師のトゥースペイストに、新入りのルンルンを合わせた4人組。彼らはこの欲望のゲームにおける集合的プレイヤーとして、ある程度成功した他の登場人物らと駆け引きし、時には詐欺の手口で、また時には売春婦候補の女性の斡旋で、荒稼ぎしようともくろむ。美容院オーナーが駐車したベンツに当て逃げしておき、「車で災いが起きる」との予言が当たったと信じ込ませるのは、たとえるなら自分の欲しい牌を事前に山に仕込んでおき、配牌とツモ牌の“でっち上げた奇跡”で上がって高い点数をせしめる「積み込み」のイカサマだろうか。
卓を囲むプレイヤーたちで持ち点をやり取りする麻雀が、誰かが点数を得ると同じ点数を他者が失うゼロサムゲームであることも、ヤン監督の見立てに活かされている。若き4人組の“仕事”は、新たな価値を創り出す生産的な労働ではなく、持てる者からあの手この手で金を奪い取ろうとする不正なたくらみだ。欲望にまかせて他者から金を奪うだけのゼロサムゲームでは、誰かが勝てば必ずほかの誰かが負ける。このゲームで真の勝者になるためには、他者を蹴落として勝ち続けなければならない。勝ち抜くことを最優先するなら、その過程で大切なもの(家族、仲間、あるいは愛)を失うのも必然だろう。
この映画におけるカップルの多くは流動的だが、例外が2組だけある。1組目の男は欲望のゲームに虚しさを覚え、ゲームから降り、永遠の愛と安らぎを得た。ラストのもう1組のカップルも、ゲームから降りて愛を成就させたように見える。しかしシーンが暗転してエンドクレジットが始まっても、祝福するような明るい音楽は流れず、街の喧騒が残るのみ。2人が街にとどまるなら、やがて欲望の闇に取り込まれてしまうのでは。そんな不穏さを残し、映画は終わる。
「牯嶺街少年殺人事件」の少年たちが成長して再結集
約30年前に作られた映画とは思えないほど、本作で描かれる内容やテーマはより現代の社会性とリンクし、作品の鮮度が増しているのではないかと改めて驚かされます。
エドワード・ヤン監督は、欲望を追い求めることに夢中となった先に望んでいた成功や希望があるのか、喜劇と悲劇を表裏一体にし、社会への静かな怒りと共に挑発的に描きます。さらに、この物語の根底に据えられているのは、人々が心と魂を捨てなければ生きていけない街で、“愛は存在できるのか?”ということ。それは現代の都市社会においても普遍的なテーマではないでしょうか。
ヤン監督の傑作「牯嶺街少年殺人事件」(1991)で、主人公の少年たちを演じていたチャン・チェン、クー・ユールン、ワン・チーザンが成長し、青年ギャング団役で再結集していますので、同作を先に見ておくとより深く本作を味わえると思います。
ワンシーンワンカットで描く「心の弱さ」
居場所もなく希望もない若者たち。彼らのあまりに刹那的な生き方には全く共感できない。しかし、両親やパートナーと、うまく関係を築くことができない彼らの弱さが明らかになるにつれ、クソ坊主たちに感情移入していった。
そう思わせる展開と、心情を突き離すような「ワンシーンワンカット」を多用して描き切るエドワード・ヤンの手腕が、やはり素晴らしい。
ホンコンが「牯嶺街少年殺人事件」のあの男の子だったと、映画を見た後に知った。いい役者だ。しかも「
青春18×2」のプロデューサー。台湾映画界の大物になってたんだ。
圧倒的なストーリーの面白さがある映画じゃない。しかし、誰しもが抱える弱さに心揺さぶられ、ほんの少しの希望がいつまでも心に残る映画だ。
スクリーンに映ったカップルたち
何度も見た作品ではあるけれど、スクリーンで見るとやはり違う感覚がある。
若い頃に憧れを覚えたあの時代の台湾、今見るとやはり違う感慨があるけれど、無軌道な少年少女たちの青春に胸を打たれる。
『クーリンチェ』、『恐怖分子』の悲劇的な結末から、ある種の軽やかな救いを見出せる『恋愛時代』と本作、そして『ヤンヤン』へと。最初から完成した映画作家のように見えたエドワード・ヤンの変化が垣間見えて面白い。
エドワード・ヤンに酔う(多義的)
交差
90年代の台湾の空気感
都会に飲み込まれずに生きる難しさ
都会では破壊と再生のサイクルすべてが換金される。
より大きく歯車を動かすことができれば、大きな富を得ることができるが、
個人の肉体や精神はそれに追いつかず、飲み込まれ、バラバラになっていく。
本作の4人の青年も、同じ場所に住んで、一心同体の兄弟のようにふるまうが、
都会に飲み込まれないように、なんとか自分を保つために
一時的にゲーム(麻雀)のように疑似的な共同体を形成しているだけで、
結局はほとんどが押しつぶされ、離れていく運命にあるという皮肉か。
全体に引き気味のフレーム、移動の少ない画面構成、長めのカットから
冷静な観察者目線を感じた。
後半、苦しい辛い描写が多い中で、
周囲環境に違和感を感じて早々に抜け出した二人に希望を与えられるラストに救われた。
都会の住人の友人、家族、恋人、さまざな性別の人間関係における、
友情、愛情、欲望、絶望、希望など複雑に交錯する感情を描いた
すばらしい映画だと思った。
古きよきものをみて新しき価値観をおもう
リベンジ鑑賞
タイトルなし(ネタバレ)
台北の街でつるむ4人の少年。
いずれも二十歳前。
リーダー格レッドフィッシュ(タン・シャンシェン)、ナンパ係のホンコン(チャン・チェン)、偽占い師のトゥースペースト(ワン・チーザン)、それに新入り通訳のルンルン(クー・ユールン)。
フランス人少女のマルト(ヴィルジニ・ルドワイヤン)をはじめ、カモになりそうな女性が目の前にいる・・・
といったところからはじまる少年4人組の犯罪絡みの物語。
原題の「麻將(マージャン)」が示すように、4人のうち誰があがるかというゲームのような映画で、初期のガイ・リッチー作品に似ている。
冒頭の字幕で状況をさらりと説明して、レストランバーで東南西北の4人の少年と、彼らの配牌(マルトその他の人物)を紹介。
キャラが決まれば物語は自然と動き出す、という感じの脚本。
割と長めのショットで繋いで行く演出を採っているにもかかわらず、テンポがいい。
過多気味の台詞や登場人物の出し入れが上手いんだと思う。
そういう意味で『カップルズ』の邦題は、ロマンス映画っぽくって、ちょっとそぐわない。
まぁ、ラストは良牌ツモってカップル成立だけど(「ズ」じゃないし・・・)。
わたし的なタイトルは『台北、東南西北』だなぁ、『カップルズ』
青春の痛みとかそういうのはあまり感じなかったです。
メッキ
台北の空は晴れ渡るということがない
『ミレニアム・マンボ』然り『青春神話』然り 空は輪郭線を失っているか霧で霞んでいる
非行と性交とメイクマネーだけがそこから逃れるためのExit のような気がする 気がするだけで本当はどこにも行けない
インダストリアルな街並みをタクシーや原付に混じってグルグルと永遠に廻り続けているだけ
若者たちは亜熱帯の喧騒から完全に遮断されたブリティッシュカフェに辿り着く それは必然だ
"HardRockCafe"と刻印されたメッキ板を踏み抜いた瞬間に始まる恋は 永遠の横滑りの外側へと自分を連れ出してくれるような錯覚を青年に喚起する
ただそれがメッキであることを見落としてはならない
青春とは根拠のない全能感が崩壊を迎えるまでのプロセスである と断言できる
何でもできる という露悪だけが互いを繋ぐ紐帯であることを暴かれた若者たちの絆は 本物の悪を前に呆気なく千切れていく
嘘が上手い 親に金がある 顔立ちが優れている 英語が喋れる その程度では悪が蔓延る台北の夜を生き延びられない
青年が恋したフランス人の女はいつまでも異国情緒というフィクションに浸り続ける 彼女が想いを寄せるイギリス人実業家にしても 台湾のことをせいぜい投機にしか捉えていない 台湾の街並みを眼差す彼らの視線の先にはそれを包括し 支配する西洋の影が常にある
それでも最後にマルトはイギリス人実業家に見切りをつける
繁華街の真ん中で青年と落ち合い 二人は人目も憚らずに熱い接吻を交わす それは一見すると搾取国と非搾取国の間に平等がもたらされたことを象徴しているようにみえる
しかしもう一度言おう
この恋はメッキから始まったのだ
資本主義と人間の生き方(徳)
1996年。エドワード・ヤン監督。台湾で女性を騙したりインチキ占いをしたりして共同生活をしている若い男4人組。しかし、ロンドンから逃げた男を追ってきた若い女性(フランス人)をカモにしようとすると、うち新入りの1人が女性に一目ぼれして彼女を救おうと行動する(因果応報的な愛の物語)、という話を含めたもっと複雑な話たち。大げさに言えば、資本主義世界と人間の生き方(徳)についての寓話的な道徳劇。
まず、役者たちには素人集団的なぎこちなさがあるが、それは意図されたものである感じがする。リアルな現代社会の人間像ではなく、あくまでも寓話的にわかりやすいキャラ設定(言動)がなされている。だから、特に前半部分では、一般的な劇映画の水準からみると単に「下手くそ」に見えるが、中盤以降、そんなことはどうでもよくなっていく。
性的な魅力でまず女性を虜にする男はホンコンと呼ばれており、虜にした女性を仲間と「共同所有」したり、騙したりしている。女性からの愛情に心も動かされない冷徹なイケメンだが、後半では逆に年上の女性たちから性的搾取と言えるような扱いを受けて号泣する。因果応報的な性の物語。性をもてあそぶことへの戒め。
グループを仕切る男はレッドフィッシュと呼ばれており、悪徳実業家で借金を残して逃げた父をこじれた愛情で慕っている。父を追いかける借金取り(チンピラ)が仕出かした誘拐事件の結末を、やっと見つけた父親に突き付けようとするが、それができずに「偉大な悪」としての父親像が崩れて人生を壊していく。因果応報的な親子の物語。ひねくれたエディプスコンプレクスへの戒め。
ロンドンを見限って台湾で頭角を現してきた男は、追いかけて来た若い元恋人(フランス人)をつれなく追い払うが、台湾での恋人(出資者の娘)が少年たちのグループのホンコンの虜になってしまうと、事業関係のつながりではなく、真実の愛として元恋人を求めるようになる。ちなみに、男は体格がよく立派な身なりとしているが、どちらの女性にも「アイラブユー」と言うことできる、表面的で中身のない男にみえる。しかし、男が女に語るのは「資本主義の未来は台湾にある」という話だった。女は男の元を去る。因果応報的なお金の物語。金儲けしか考えないことへの戒め。
というような話が複雑に展開する。資本主義の世界、性的な世界、親子の世界が、搾取や憎悪がうずまくどろどろとした世界であるのに対して、そのなかで、思いやりと勇気で誠実に生きる若い男女が最後に結ばれるという奇蹟。やっと見れた。
台北 in 1996
公開時は未見。
リバイバル上映ということで、90年代半ばの台北と当時のおしゃれミニシアター系映画の雰囲気を味わいたくなり鑑賞。
チンピラ若者集団の群像劇ですが、喜劇と悲劇が混ざったような不思議な作風。
なんといっても主役はエネルギッシュな台北の街。
道路に車とバイクが入り乱れ、屋台の軒先がひしめきあう発展途上国風な風景がある一方で、ハードロックカフェやTGIフライデーズ、近代的な内装の美容院などの西洋文化とのコントラスト。
魑魅魍魎の街を漂いながら人間模様を覗き見しているような感覚で面白かったです。
暴力的な描写もありますが、マルトとルンルンが心を通わせる場面が救いでした。
(ルンルン役の青年、昔のジャニー○タレントにいそうな風貌)
エンドロールはまさに街に包まれているような…
屋台の謎の食べ物(平たい、粉物を焼いたようなもの)が美味しそうでしたが、2000年頃に訪れた台北の夜市でのB級グルメを思い出しました。
夜市ってまだあるのかな。
…と、色々な思い出が甦る映画体験でした。
キスは不吉ではないよ。
ついこの間、家族で台北を中心に台湾旅行をしてきた。ここは食事も街歩きも気軽に楽しめる本当に素晴らしい国だと思う。30年も前の映画だが「この国がいつか世界の中心になる」とイギリス人が言っていたが、まさに今の台湾は半導体産業が勃興しとにかく勢いがある。中国の横暴で台湾が香港のようににならないことをひたすら祈っています。
1990年、急速な発展をしてきた台北を舞台に4人の無軌道な若者の生態を描く物語。インチキ占いやら金持ち女への誘惑等で大人を騙し、捕まえた女性は共有するなどとんでもないガキどもに何の感情も湧くことはないが、社会が生み出すゴミのような存在は古今東西何処にでもいる。
そんなガキどもでも、悪徳実業家の父親がヤクザに追われ愛人と心中すればその息子のレッド・フィッシュは悲しみに暮れ父親のかつての仲間のおっちゃんを殺す。こんなゴミのような日々に疑問を持ったルンルンはフランス人のマルトに恋心を抱き、彼女を助け、ラストシーンでは抱きしめてキス(不吉なキスではない)をすることができた。
有名なエドワード・ヤン監督の作品を初めて観た。他の作品も観てみて研究してみたい、。
この映画の魅力は、そのとてつもないエネルギーに尽きる。
本作が、私のお気に入りの「エドワード・ヤンの恋愛時代」に続く「新台北3部作」の第2弾であることを知らずに見てしまった。迂闊なことである。しかも、同監督による「牯嶺街少年殺人事件」の続編であるという。こちらを予め観ていれば、感想は変わったのかもしれない。
舞台は、1996年の台北、バブル経済下の辺縁で、その恩恵にあずかろうとして、己の持っている能力と体力の全てを使って生き抜こうとしている4人の若者が共同生活している。内容的には、欺瞞と詐欺に満ちてはいるが。それでも、彼らの生活の根底には、いくつか特徴があった。
一つは儒教、特に4人のリーダー、レッド・フィッシュの父親と母親に寄せる思いに明らかだった。これは、もちろん脚本を書いたエドワード・ヤン監督の意向だろう。
台湾の人たちが、風水に弱いことも顕著だった。4人にうちの一人、トゥース・ペイスト(リトル・ブッダ)は、それにつけ込んで、ニセ占いで稼いでいる。
さらに目立つのは、すでに台湾の経済に惹かれて多くの外国人たちが入り込んできていたことだ。ロンドンで食いはぐれた室内デザイナーのマーカス、一人でマーカスを追ってきたフランス娘のマルト、一度は、マルトを仲間に引き込もうとしたアメリカ人女性のジンジャー。しかし、彼らは、所詮、台湾の上を通り過ぎるだけに過ぎない。それにしても、最後にマーカスが言う「100年後、世界の中心はここだ」と言うのは、正しそうだが。
前作が、どちらかと言えば、上流階級の子女による日本のトレンディードラマのような味付けで、ユーモアがあったのに比べ、こちらは、香港映画のようなバイオレンスがらみ。それは、設定がそうだからと言えば、身も蓋もないが、主人公のレッド・フィッシュがそれに苛立っていた。それもヤン監督の考えを反映しているのだろう。それがなぜかは、私にはわからなかった。ただ、レッド・フィッシュが帰るべきところは、明らかなように思われた。
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