劇場公開日 2014年5月31日

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「不安の場としての静謐」闇のあとの光 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5不安の場としての静謐

2022年3月13日
iPhoneアプリから投稿

動物と共に野山を駆け回る少女。それを捉えるカメラはなぜか四隅のあたりが歪んでいる。何だこれはと思案を巡らせているうちにカットが切り替わり、今度は真っ暗な廊下。音もなく扉が開き、人知を超越した赤い発光体が侵入してくる。発光体は廊下や部屋を歩き回るだけなのだが、下手なホラー映画のバケモノ以上に本能的恐怖心を煽られる。この突然の闖入者により、映画全体が緊張のトーンに包まれることとなる。

その後は「ラグビーの試合」「自己開示セラピー」「材木の伐採」「庭先でチェス」「葦をかきわけるボート」「家族旅行」といった断片的な生活映像が無秩序に展開されていくが、そこにホームビデオのようなキュートさは皆無だ。何が映されようが先の赤い発光体の影が、つまり不安のイメージがまとわりついて離れない。

静謐を媒介とした現実と非現実の交錯といえばアピチャッポン・ウィーラセータクンの映画が真っ先に思い浮かぶが、本作はそれらとは似て非なる、というかまったく正反対のものだ。

アピチャッポン映画において静謐は安息をもたらす。そこにそっと身を横たえることで、我々は不可思議で神秘的な自然世界とシンクロを果たすことができる。彼の映画に「眠くなる」という感想が多いのは、観客が自然世界とシンクロできていたことの証左に他ならない。

一方本作を包み込む静謐は、底の見えない井戸穴のような不安の印象を我々に与える。少しでも気を抜けば吸い込まれてしまうのではないかという不安。それをさらに掻き立てるように現実を非現実が侵犯する。赤い発光体の登場はその最たる例だ。他にも、アポカリプティックな色彩に染め上げられた夕空、引き波が異様に強い浜辺、あるいは明るい部屋の窓から覗き込む夜闇なども非現実の表象といえる。「静謐」と「非現実の侵犯」。受け手はその二重の不安に苛まれることとなる。こいつはもう古典的なホラー映画だ。罷り間違っても途中で寝落ちとかできないッスよ…怖すぎて…

本作はアピチャッポン作品と同様に生々しい自然を背景としているものの、その物語的照準はあくまで人間に向けられている。先に述べたように、本作における自然は、人々の生に絡みつく不安のメタファーとしての側面が強い。この世の終わりみたいな空も、波の強い浜辺も、窓から覗き込む暗闇も、真っ赤な発光体も、すべてはほんの些細な日常の不和の誇張表現だ。

本作を敢えて形容するならば、ハーモニー・コリン『ガンモ』をマジックリアリズムと古典的ホラーの文脈に移植したような映画、といったところだろうか。他のカルロス・レイガダス監督作品にも興味が湧いた。どこで見られるんだろう?

因果