闇のあとの光のレビュー・感想・評価
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昏睡映画ながら新奇な何かがあると思わせる
正直エンドロールが流れた時は心底ほっとした。
タイムカウンターを表示させないのでいつ終わるか分からず、ブラックアウトこれで終わりかと思ったらまだ続くという拷問的昏睡映画。
最初から普通のシナリオらしきものがない映画なのだなと勘付いたが、素朴なのか高度なのか全然判別がつかない。
断片的映像の継接ぎからどうにかこちらでストーリーを紡ぎ出そうと試みるも、一回視聴だけでは全体把握は私にはできなかった。
その気がある人は2倍速視聴を2回続ければより筋を把握しやすいかもしれない。
私に理解できたのは牧場農場のボス一家がバカンスに出かけたが途中で忘れ物に気づき引き返したところ使用人の泥棒一味に銃で撃たれ暫く療養するも死亡。
事件後逃亡していたが家族の元に帰ってきた犯人。元ボスの家に行き外で遊んでいる子供たちに父親の事を尋ねたら死んでしまったと言われ、自責の念に駆られ自殺。という部分のみ。
その自殺法にしてもいきなり首が吹っ飛ぶなど誇張表現なのかまるで分らない。
混浴サウナでのスワッピングもボスの奥さんがいたようないないような記憶はあいまい。
少年たちのラクビー試合場面も関連不明。
やはり2度以上は見るべきかもしれないが、私は降参ギブアップですね。笑
昏睡を避けようと立ち見。それでも倒れそうなのでエアロバー運動しながらの究極的忍耐が試される視聴となりましたが、視聴感は相対的には悪くないんですよね不思議に。(←ロケ地の豊富な自然と可愛い子供、動物たちの〝ナイスアシスト”のせいかも)
映研の人たちも安手ドラマを作るくらいなら鉄の信念で本作の様な新奇珍奇な衝撃作を手掛けるといいんじゃないかと思っちゃいましたね。
殆ど理解できなかったくせに作品の雰囲気に幻惑されて総評2.8の三ツ星
2008--
不安の場としての静謐
動物と共に野山を駆け回る少女。それを捉えるカメラはなぜか四隅のあたりが歪んでいる。何だこれはと思案を巡らせているうちにカットが切り替わり、今度は真っ暗な廊下。音もなく扉が開き、人知を超越した赤い発光体が侵入してくる。発光体は廊下や部屋を歩き回るだけなのだが、下手なホラー映画のバケモノ以上に本能的恐怖心を煽られる。この突然の闖入者により、映画全体が緊張のトーンに包まれることとなる。
その後は「ラグビーの試合」「自己開示セラピー」「材木の伐採」「庭先でチェス」「葦をかきわけるボート」「家族旅行」といった断片的な生活映像が無秩序に展開されていくが、そこにホームビデオのようなキュートさは皆無だ。何が映されようが先の赤い発光体の影が、つまり不安のイメージがまとわりついて離れない。
静謐を媒介とした現実と非現実の交錯といえばアピチャッポン・ウィーラセータクンの映画が真っ先に思い浮かぶが、本作はそれらとは似て非なる、というかまったく正反対のものだ。
アピチャッポン映画において静謐は安息をもたらす。そこにそっと身を横たえることで、我々は不可思議で神秘的な自然世界とシンクロを果たすことができる。彼の映画に「眠くなる」という感想が多いのは、観客が自然世界とシンクロできていたことの証左に他ならない。
一方本作を包み込む静謐は、底の見えない井戸穴のような不安の印象を我々に与える。少しでも気を抜けば吸い込まれてしまうのではないかという不安。それをさらに掻き立てるように現実を非現実が侵犯する。赤い発光体の登場はその最たる例だ。他にも、アポカリプティックな色彩に染め上げられた夕空、引き波が異様に強い浜辺、あるいは明るい部屋の窓から覗き込む夜闇なども非現実の表象といえる。「静謐」と「非現実の侵犯」。受け手はその二重の不安に苛まれることとなる。こいつはもう古典的なホラー映画だ。罷り間違っても途中で寝落ちとかできないッスよ…怖すぎて…
本作はアピチャッポン作品と同様に生々しい自然を背景としているものの、その物語的照準はあくまで人間に向けられている。先に述べたように、本作における自然は、人々の生に絡みつく不安のメタファーとしての側面が強い。この世の終わりみたいな空も、波の強い浜辺も、窓から覗き込む暗闇も、真っ赤な発光体も、すべてはほんの些細な日常の不和の誇張表現だ。
本作を敢えて形容するならば、ハーモニー・コリン『ガンモ』をマジックリアリズムと古典的ホラーの文脈に移植したような映画、といったところだろうか。他のカルロス・レイガダス監督作品にも興味が湧いた。どこで見られるんだろう?
余白を想像する映画
万人向けの作品でないことは確かだが、だからといって、“分からない”と拒むことは出来ない何とも言えない引力がある。
禍々しく赤く発光する身体を持った悪魔はあの道具箱の中に何を入れ、(それを、あるいはそれを使って)、どんな悪の種を蒔いたのか?どんなことを眠れる人の耳に囁いたのか?
アルコールやドラッグへの依存、暴力、強欲、肉欲、無邪気な子供の嘘。
人間が犯す罪は、映像の断片ではあるがゆえに、描かれなかった物語を観客に想像させる。
豊かな自然。閃めく稲光。
四角くエフェクトをかけられ中央にピントがあった画面は、観客に四角い箱に空けられた穴から人の営みを覗き見ているような恰も神になったかのような錯覚を起こさせる。
音の記憶
サウンドデザインが特徴的だった。
音楽は殆ど使われていない。
日常の音(雨の音、虫の音、車の音、話し声など)のみ。
所々、不自然なくらい音量のバランスを変えていて、普段は聞き流している日常音が強調され、騒がしく、存在感を持って迫ってくる。
臨場感というのともちょっと違う。実際の音のバランスとは明らかに異なるからだ(音の遠近がチグハグだ)。だが、何故か生々しい。
日常の音。昔から聞き慣れている音。どこか懐かしさのある音。
映画後半に、主人公が「音の記憶」を語るシーンがあって、なるほど、ストンと腑に落ちた。
映画全篇に流れる音は、主人公の記憶の中の音でもあったんだと、気付く。
—
映像も同様だ。
写っている出来事は、たわいない日常の断片だ。そして何かが強調され暈され歪んでいる。
誰かの記憶の断片。整理はされていないから、時系列も飛び飛びだ。そして時々、願望や贖罪といった感情の映像も混じってくる。
まるで誰かの頭の中をそのまま覗いているような感覚。
他人の記憶とシンクロしているような体験。
そういうところが,スリリングで面白いなあと思った。
(哲学的というよりもセンシュアスだなあと思った。)
—
記憶には、光景・音・時間・感情・歴史・生死が、秩序の無いまま一緒くたに混じりあう。
それらが一気に流れ出てきたような映画だった。
テスト
昨日見ました。
これはアートなんでしょうか。
ハポンの方が映画を感じました。
最初の雷のシーンと謎の赤い悪魔を見るだけで満足出来ました。
この監督は動物虐待にこだわりがあるのでしょうか。
修正無しの男性器描写があります。
昔見た確かアピチャッポン〜監督の映画ではクロースアップによる男性器が勃起する描写を見た記憶があるのですが、それはそれです。
前のザイドル監督のパラダイス3部作にも共通するものがあります。
こちらの方が登場人物はあっけなく死んでしまいますし、
これを見せられてどうすればいいの? という感じは強くありました。
映写室の外に掲示されているレビューにはブニュエル監督の映画はもっとエンターテイメント性があると書かれていました。
エイゼンシュテイン監督のメキシコの作品を私は見たのかあまり覚えていない。
一作目ハポンはいわゆる説話的な意味での一貫性があって見やすいし
納得性のある作りで
私などにはとうていわからないけれど
名作の一つに数えられかねないものがあると感じた。
しかしこの作品は全体的にはあまり面白くなかったです。
この監督の次回作が楽しみで仕方がないとは言えませんが公開されるなら一応見たいです。
哲学的なものを積極的に感じて行きたい人お薦め
メキシコで暮らす4人家族を中心に、ドキュメンタリタッチで英語やフランス語も飛び交う未来&現在のシーンを織り交ぜ交差させ、幻想的に表現されていました。
目が点になるようなサウナシーンや、森のポッキリシーンなどを含め、たぶん人間の原罪に始まる生について触れているのかなとも思えますが、様々な解釈を許容する懐の広さがある作品なのかもしれません。
哲学的うんちくに拘る人には、さらに魅力的作品なのではないでしょうか。
日常のバランス
画面のアスペクト比と多重エフェクト?が、美しい景色が映し出されていても不安を誘う。
喜びにも悲しみにもどちらにも振れさせない。それがこの世界の秩序であり、また人の生きる事なのだと言っているよう。
描かれるのは全てではなく一部分をフレーミングした世界と捉える。
カットアップされた時間と場所の再構築は部分ではなく総体を印象付ける。
バランスの上に成り立つ人、世界。
ふとした瞬間にバランスは崩れる。
また、人にはバランスを打ち壊したい衝動が潜んでいるし、平穏を望んでもいる。
郷愁。悲しみが広がります。
詩的な映画だった。最初、雷がなる山の中の平地で、3歳ぐらいのかわいい女の子が牛を追いかけて歩いている。犬も牛を追いかけている。周りはだんだん暗くなる。場面が変わってオレンジ色に光る悪魔のような者が部屋に忍び込んでくる。裸で、左手に工具箱のような物を持っている。それを少年が見ている。
脈略のないシーンが続くが、ベースとしては、倦怠期を迎えた夫婦と二人の子供の日常を取り上げている。
この映画は子供時代や故郷へのせつないほどの郷愁を詩的に描いたものだ。
イメージの積み重ねなので物語らしきものはあまり無いが、描かれる内容は鮮やかで哀愁を伴う。牛、犬、猫、山、木、雲、霧、宵闇、雨、海、悪魔。夫婦が二人で歌を歌うシーンがあるが、あれも昔を懐かしむ歌の様だった。
山の木が切り倒されるのを見て、男が自分で自分の首を取って死んでしまう。これは自然破壊と人間の死をイメージとして表したものだと思うが、これには驚いた。
夫は自分の死を予感していた。最後に子供が「パパは死んだ」という。本当かどうか明らかにされず映画は終わる。悲しさ、切なさがしみじみと広がる映画だった。
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