勝手にしやがれのレビュー・感想・評価
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ミシェルの「まったく最低だ」は「愛してる」と同義に解釈できるように...
ミシェルの「まったく最低だ」は「愛してる」と同義に解釈できるように思う。
「まったく最低だ」を最後に死んでしまうミシェル。フランス語がそこまで堪能じゃないアメリカ人のパトリシアにはうまく意味が飲み込めない。「なんて言ったの?」と刑事に問いかけるけれど、刑事は「あなたはまったく最低だと」と答える。
ミシェルとパトリシア、ふたりのあいだでのみ共有される可能性のあった言葉が、第三者を介して「正しい言葉」で「翻訳」された瞬間に、「愛してる」という意味を失う。
映画の最後は、パトリシアの「最低ってなんのこと?」という言葉とパトリシアによって再現されるミシェルの癖だった仕草。
パトリシアがミシェルの「最低」という言葉を理解できなかったのは、フランス語がわからなかったせいなのか、それとも、彼の感情も自分の感情もわからなかったせいなのか、また、それとも、別の何かなのか、
言葉による、ふたりの永遠のすれ違いが描かれる。しかし、死んだミシェルが、パトリシアによって、仕草として再現されることで、彼女の中に彼がまた現れる。失われると同時にまたなにかが生まれる、
ミシェルにとって、言葉や言葉の意味なんてどうでもよかったのかもしれないと思うことがある。美しいも醜いも、どちらも同じ。そこにあるのはパトリシアに向けた、君を抱きたい、愛してる、という真っ直ぐな感情だけ。もはや意味は、意味を、持たない。もちろん、まったく最低だ、も。
言葉メモ
「星占いって?」「未来のことさ」
「フランス人は5分を1秒と言うのね」
メモ
人殺しのミシェルと、ミシェルを密告して死に追いやるパトリシア。パトリシアのミシェルに対する複雑な感情はミシェルと同じ人殺しになる、という同一化願望のようなものもあるのかもしれない。ミシェルが死んだあと、パトリシアがミシェルの仕草を模倣するのも、同一化の象徴なのかもしれない。
やっぱり最高!
う〜ん。やっぱり超カッコイイ…
どうしても久々にスクリーンで観たくなって、キネマ旬報シアターまで遥々と電車を乗り継ぎ辿り着き、タップリ堪能してきた。
もう本当に最高。
オープニングの唐突なスピード感。
マーシャル・ソラールの粋な音楽。
あまりにもモノクロ映えのするフォトジェニックなジーン・セバーグ。
ボギーに憧れる若気の至りココに極まりなベルモンド。
ナボコフをイメージして、すっかり大物作家になりきってたジャン=ピエール・メルヴィル(人生最大の野心は?→不老不死になって死ぬこと!)
ラウル・クタールの本当にヌーヴェル・ヴァーグとしか言いようのない鮮烈軽快なカメラワーク。
そして、あのラストシーン!
最後に“FIN”の文字が出た瞬間、思わず久々に「おおお…」と唸ってしまった。
こんな映画、もう二度と誰にも作れないだろう。
1959年の製作で、こんなことをやってしまうなんて…
今さら言うまでもないが、これが無かったら、アメリカン・ニューシネマだってタランティーノだって、その他の数多の諸々の映画だって存在しなかったに違いない。
そして邦題『勝手にしやがれ』が兎にも角にもズバ抜けてる!冒頭のベルモンドの台詞なのだが、原題からの翻訳などでなく、この言葉をチョイスしたセンスが本当に素晴らしい。
もう本当に最高だ。
何度でも言う「本当に最高だ!」
睡眠導入剤
大むかしに大阪の某劇場で、オールナイトのゴダール特集を観たが、それはある種の拷問のような、あるいは修行のような体験であった。
そのときに上映された作品名も内容もまったく憶えていない。憶えているのは、ただただ眠かったこと。そして、退屈な作品の連続に、「早く終わってほしい、朝になってほしい」と思ったことだけだ。このときにもしかすると本作を観たのかもしれないが、何しろ作品のことはなんにも憶えていないのだからどうしようもない。
で、あれから幾多の歳月が流れ、何故かまたゴダールの映画を観にいってしまった。やっぱりつまらないし、眠かった。眠気とのたたかいであった(僕は映画鑑賞という行為を大切にしているので、どんなにつまらない映画や気に入らない作品でも眠ったりしないのだ)。
当時のパリの風物、ブレッソンやドアノーの写真を思わせるような映像、スタイリッシュなファッション、ジャズによる軽快なBGM……。それらのおかげでなんとか最後まで観ることができたが、映画じたいはほんとうに退屈だった。
ヌーヴェル・ヴァーグの傑作かなんか知らんけど、ゴダールの映画は、僕の頭でストップし、こころや魂には届かないのであった。
よっぽどインテリジェンス溢れる人でないと、こういう作品の価値はわからないのでしょうね。
寝つきが悪い方にはオススメです。
フィルム・ノワールの「分流」としてのヌーヴェル・ヴァーグ。その起点を成すゴダール流「ファム・ファタル」映画
ジャン・ポール・ベルモンドの『リオの男』で、ベルモンドがさんざん車を後ろから走って追っかけてったり、最初から最後まで無賃乗車を繰り返しながらパリからリオまで行ってまた帰ってきたりするのって、思い切り『勝手にしやがれ』のパロディだったんだな(笑)。
今回およそ30年ぶりに観て、初めて気づいたよ。
あまりに仕事が忙しすぎて、有楽町で観られず、横浜でも観られず。
ようやく柏のキネマ旬報シアターでのリヴァイヴァルで観ることができました。
大学生の時以来だから、筋から何からさっぱり忘れてた。
ゴダールといえばやはり「難解」という印象がどうしても強いが、長編第一作である本作は、必ずしもそれは当てはまらない。
たしかに、技術や演出技法において当時真に革新的だったことは確かだが、のちのゴダール映画とちがって、いちおうちゃんと筋はあるし、何が行なわれているかもだいたいわかる。
すなわち、ある程度は物語映画としての「体裁」を保っている。
むしろ、オーソドックスな「ノワール」+「恋愛映画」=「逃避行」の枠組みに、新たなるヴィヴィッドな感性と即興性、そして意識的な「作家主義」を注ぎ込んだ作品と位置付けるのが妥当ではないか。
それに、自然光の下でのロケーション主体の撮影や、手持ちカメラ、ノーメイク、即興演出、リアルなダイアローグ、ジャンプカットなどの諸々の「新手法」は、当時はそれこそ誰しもがぶっ飛ぶくらい斬新だったかもしれないが、いずれも、その後普遍化して“当たり前”になったやりくちばかりだ。つまり、われわれ今の視聴者にはむしろ「違和感がない」。
マーシャル・ソラールのジャズの小粋な使い方などは、60年代以降の気の利いたアクション映画やサスペンス映画の「お手本」みたいな感じで、ちっとも難解だったりとっつきにくかったりはしない。
全体に満ち溢れる、「動き」の気配と躍動感、切れの良い音楽、魅力的な俳優と女優のしぐさや立ち姿は、間違いなく観客を楽しませるものであり、バリバリに「エンタメ」している。
現代人からすれば、他の50年代、60年代の古臭い映画より、よっぽど「今に通ずる普通の感覚の延長で」楽しめる映画だといっていいかもしれない。
お話は比較的、単純だ。
無軌道な青年が、米国人ジャーナリストの女性に会いにいくために、いつものように車をパクってパリに向かうのだが、途中でスピード違反でポリ公に目を付けられ、職質されかかったので射殺する。
青年はパリで元カノの金をネコババして女に会いに行くが、新聞ではお尋ね者として指名手配されている。ふたりは再会し、デートするが、官憲の影は間近に迫っていた。
逃避行、一夜の情事。その末に女が下した決断は、「密告」だった……。
もともとはトリュフォーが自身のデビュー作として温めていた企画で、1952年に起きたほぼ同内容の実在の事件「ミシェル・ボルタイユ事件」を題材にとっている。トリュフォーは結局プロデューサーの同意が得られず、先に撮った『大人は判ってくれない』(59)でデビューを果たしていた。ゴダールはぜひこの企画を譲ってくれと懇願し、親友の許可を得た彼は、トリュフォーのシノプシスをもとにさっそく脚本を書き上げたのだった。
僕個人にとって、『勝手にしやがれ』が達成した最大の功績というのは、主演ふたりの魅力を最大限に引き出したことにあるのではないかという気がしている。
すなわち、従来の映画では、役がまずあって、それに合わせて俳優が演技をした。あるいはその逆で、まずスター俳優がいて、それに合った役があてがわれた。
ところが、『勝手にしやがれ』において、その「後先」は不分明だ。
本作における、ジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグは、あたかも最初からこのフィルムのなかにいたかのように自然にふるまっている。そのうえで、ちょっとしたしぐさや立ち姿、目線の動かし方や歩き方といった日常の何気ない所作から、途方もない魅力と吸引力を発している。
彼らはミシェルとパトリシアでしかないのだけれど、同時にベルモンドとセバーグでもある。
ここでのベルモンドとセバーグは、役を生きながら、同時に、本人そのものであるかのように生きているのだ。
なぜか。
それは、ゴダールが「役」に俳優を当てはめず、俳優そのものの資質や佇まいに、役を「引き寄せて」演出したからだ。その場で実際に会って感じたベルモンド個人の魅力、セバーグ個人の魅力を、貪欲に「役に取り込み、役の一部として同化させた」からこそ、本作の二人は「奇跡的なかっこよさ」を身にまとうことになったのだ。
ゴダールの用いた「即興演出」「自然光撮影」「手持ちカメラ」「ロケ」といった新手法は、「そのため」の手段として採用された技法だ。
役者独自の魅力を見逃さないこと。それをヴィヴィッドにフィルム上に切り取って見せること。フレキシブルに役者に合わせて役を改変すること。
その「対応性」を高めるための手段が、演出における即興性であり、リアリティを付与する撮影方法だった。
それから、もう一点。
われわれは、ゴダールの名前、あるいは『勝手にしやがれ』のタイトルを聞くと、つい反射的に「ヌーヴェル・ヴァーグ」と直接的に結び付けて想起しがちだ。
実際に『勝手にしやがれ』がヌーヴェル・ヴァーグ初期の輝ける結実であることは、もちろん論を俟たない。
だが、こうやって久方ぶりに観直してみると、『勝手にしやがれ』が、題材選択においても、キャラクター造形においても、撮影技法においても、「フィルム・ノワール」の延長上にある映画だということを改めて痛感させられる。
それも、フランスによって変容させられた50年代のフレンチ・ノワールではなく、その大本にあるアメリカン・ノワールからの直摸の部分が大きい(ここ数年、シネマヴェーラでフィルム・ノワールをお勉強がてら見まくって、だいぶ脳内比較ができるようになった)。
何よりまず、本作は「ファム・ファタル(運命の女)」に狂わされる男の転落人生を描いた、典型的なノワール・プロットを採る。
試みに、Wikiのフィルム・ノワールの稿を見ると、ノワールの典型的な特徴としてあげられているのは、以下の通りである。
舞台設定(現代の大都市)
視覚的スタイル(コントラストを強め陰影を強調した画面)
テーマ(犯罪、詐欺、離別、精神疾患など)
登場人物の性格(ハードボイルドな男性主人公、謎めいた女性)
物語手法(時系列を複雑に行き来する構成、説明省略の多用など)
全体的なムード(社会に対するシニシズムや憎悪、閉塞感)
いかがだろうか。まさに『勝手にしやがれ』を説明しているかのような文章ではないか。
(まあ、本作では上記「シニシズムや憎悪、閉塞感」を超えて、ある種の「ニヒリズム」の領域に達しているのが、真に「新しい」といえるのだろうが。)
自然光の採用や、ロケによる撮影といった技法も、もともとは40年代~50年代のアメリカン・フィルム・ノワールに端を発するものだ。
トリュフォーも、ゴダールも、もともとセリ・ノワール(フランスで出されていたアメリカやイギリスの犯罪小説中心の叢書)の熱烈な愛読者であり、幾度も映画の題材に採っている(とくにトリュフォーが繰りかえしアイリッシュ原作を採用していたのが印象深い)。クロード・シャブロルなんか、たぶん撮った映画の半分くらいはミステリー映画だったくらいの推理小説好きだ。要するに、ヌーヴェル・ヴァーグの担い手にとっては、大きな霊感源のひとつが、フィルム・ノワールであり、ノワール小説だったのだ。
そもそも、『勝手にしやがれ』は、冒頭の献辞において、アメリカの低予算映画専門スタジオだった、モノグラム・ピクチャーズに捧げられた映画だ。
作中で登場・引用される映画群も、ロバート・アルドリッチの『地獄への秒読み』(59)、リチャード・クワインの『殺人者はバッヂをつけていた』(54)、オットー・プレミンジャーの『疑惑の渦巻』(49)、同『歩道の終わる所』(50)、ジョン・ヒューストンの『マルタの鷹』(41)など、総じてアメリカのフィルム・ノワールのプチ映画史を形成している。
ジャン・ポール・ベルモンド演じるミシェルの葉巻を用いたキャラクター付け自体、ハンフリー・ボガードを祖型としたものだ。
すなわち、「ヌーヴェル・ヴァーグ」というのは、「フィルム・ノワール」の「分流」――あるいは、フレンチ・ノワールとは別の形での(より本質的で批評的な形での)受容から始まった「新運動」だったのではないか、というのが僕の問題提起である。
このテーマは、二週間後にもう一度柏まで行って観る予定の『気狂いピエロ』に直接的に引き継がれ、そこでは原作であるライオネル・ホワイトによる小説版との比較が、きわめて重要になってくるはずだ。
ー ー ー ー
にしても、この僕がよりによって、ゴダール特集上映なんかに足を運ぶなんてなあ、と思うと、ちょっと面はゆくなるし、なんだか気恥ずかしい。
大昔、まだ大学生だった僕にとって、ゴダールはある種の「仮想敵」だった。
より正確にいうと、「ゴダールを絶賛するような手合い」を、勝手に敵認定して猛烈にイラついていたのだった。
今から考えるとお恥ずかしいかぎりだが、当時の僕は、映画の本道は娯楽にあると信じ、客を楽しませることに腐心している映画こそ評価されるべきだと本気で考えていたから、藝大に入れなかった私立美大生あたりが「やっぱゴダールだよねぇ」みたいなことを言ってると勝手に妄想し、反吐が出るぜ、こいつら絶対いつか滅ぼしてやると過剰反応し、レオーネやペキンパーやデ・パルマを偏愛し、「秘宝」的な映画観に大きな影響を受ける一方で、オナニズムと承認欲求に毒されている(と僕が独断で決めつけた)難解な「ゲージュツ」映画を、ことごとく嫌悪していたわけだ。
振り返ってみると、あれも若さゆえの「潔癖主義」だったんだろうな、と。
なんか、柄谷やら蓮實やら浅田やらデリダやらラカンやらフーコーやら、「当世流行りの難解な言説&芸術批評」を、さもしたり顔で「わかってるか」のように語る一部のスノッブ連中が、とにかく憎くて憎くてたまらなかったのだ。その前提には「俺がまったく何言ってるのかわからないのに、なんだよそれ! わかるやつがいるなんて信じたくないよ!」というやっかみと羨望があっただろうし、恥ずかしげもなく「難しいことを読み解いてる自分」を誇示できるメンタルの強さが信じられないというのもあった。
でも、時を経て、そのうち思うようになった。
「ちょっと待て。ゴダールにせよ、ニューアカにせよ、世間でしっかりヒットしてブームになっている時点で、それはもう十分『エンタメ』としても成功してると言えるんじゃないか?」
「たとえ難解でも独善的でも意味不明でも、一定層のスノッブを刺激して集客して彼らを良い気持ちにさせているのだとすれば、それはそれで立派な『娯楽映画』であり、お金儲けの正しい『エクスプロイテーション』ではないのか?」
この視点に気づいた瞬間に、僕のなかで「ゴダール・コンプレックス」は雪解けを迎え、ゴダール映画もまた、豊穣なるエンタメ映画の海へと還っていたのだった。
逆に最近は思う。
自分が若かったときにあれだけ鼻に付き嫌悪した、「難解さへの憧憬」という若者独特の背伸びしたカルチャーが、いまや恐ろしいことに、日に日に廃れつつあるのではないか?
ネットやSNSの「わかりやすさ」にスポイルされ、「三行」「終了」「論破」といった脳停止ワードに精神を毒された連中には、歯ごたえがあって、ちょっとやそっとでは読み解けないような評論をもっと読ませたり、一見しただけでは意味すらつかめないような映画をもっと観させたりしたほうがいいんじゃないのか?
というわけで、最近の僕はゴダール容認派であるどころか、大いに推進派へと鞍替えした次第。
みんな、もっとゴダール観ようぜ!
ひさびさに拍手したくなったこのラスト W
ヌーベルバーグ=新しい波= と言うけれど、
男女の追いかけっこと すれ違いってもんは、時代を超えて国を超えて、いつもどこでもこんなものなのではないだろうか。
(それまで作られてきた)夢見心地のおとぎ話映画ではないから、せっかく金を払って映画を観にきた人間の神経を疲れさせてくれるのかもしれないが、この会話の諧謔性は、いつもの男と女を蒸留し濃縮して見せてくれるからこそ、だからツボにハマるのだよ。
いろいろと思い当たるからね。
ジャン・ポール・ベルモンドは、ふられる男の哀切を演じてはトップクラス。
東の渥美清、西のベルモンドか。
♥
仕事に遅れるのに、朝のベッドでしょ。
警察がやってくるというのにスケとの会話一択でしょ。
そして銃で撃たれてフランキーニに見せるあのふくれっ面。
「サイテーの女だよオメェ」。
で、臨終の儀式はセルフとか。
ものすごっく幸せそうなブランキーニの表情で FIN
うわー、
カッコよすぎて、おいらも眠っていた不良の血がたぎったよ
61歳。映画館を出て、何か嬉しくって、バイクをすっ飛ばして夜の街を家まで帰りました。
スケを幸せにできなくったって構わんのよ。追いかけること、そして逃げること、それが幸せ。
破戒も、幸せ。
「あなたの野望は?」
「不老不死を手に入れて死ぬ」。
これ、ヤラレタ。
助演者も、ちょい役出演のゴダールも 粋だわ
・・・・・・・・・・
東座の支配人さん、
いい映画をありがとう。
今夜の彼女は、白の小紋を散らした濃紺にほそい縦縞のワンピース。ペチコートも?フレアのワンピースのスカートが広がっていて素敵だった。
(マスクは同じ濃紺にベージュのレース)。
薄暗いロビーでよく見えなかったけれど、気合いの入った東座は切符を買う時から映画が始まっています。
ぜひ。
·
これも映画
アフリカンもアジアンもいないパリ。ところ構わず煙草ぷかぷか(当時は当たり前か)。
とてもじゃないが、感情移入なんかできっこないチンピラ(知らない女のスカート捲ったり、カネもクルマも盗み放題、ピストルぶっぱなして警官射殺)が主人公。でも好きな女には裏切られても恨みもしないんだ、この男は。
世間の常識から映画造りの常識まで既成概念をとび超えた映画。
「どぶねずみみたいに美しくなりたい」なんて思える非・常識な感覚。「今まで覚えた全部デタラメだったら面白い」なんて思える非・常識。そんなことを考えながら面白がって観てました。
原題 "A bout de souffle"「息も絶え絶え(もうダメだって感じ?)」だってさ。
同調圧力って嫌いだから、今日はマスクをポケットに入れて外出だね。
最初にこの映画を観たのは小学生の時。それ以来ショートカットの女の子がずーっと好きです。
初めて大画面でジーン・セバーグに会えたよ。
パリに恋する
モノクロ映像とパリのおしゃれな街並み、パリジェンヌのファッションに釘付けになる。
ジーン•セバーグが可愛すぎる。ボーダーのカットソーにスカート、シマシマのワンピースが素敵。ボーイッシュなショートカットをこんなにも女っぽく見せられるのは彼女しかいない!
ストーリーでいうと、殺人犯が数日間付き合った彼女に再度求愛する物語。「愛したいけど愛せない」というジレンマと恋のゲームを楽しむ二人に、観ているこっちは焦ったい気持ちにもなるが、パトリシアの気持ちも分からなくもない。
ヌーベルバーグの金字塔
4Kレストア版を劇場鑑賞。
本作は細かくストーリーを追うような映画ではなく、哲学と感性とエモーションで疾走感とオシャレと粋を表現したことで当時の批評家達にその革新性を評価され、即興的な演出やセリフ、手持ちカメラでのゲリラ的な街中のロケ撮影など当時としては斬新な撮影手法がその後の世界中の映画関係者へ多大な影響を与えている。
今回30数年ぶりに鑑賞し思ったことは、言い方は悪いかもしれないが、その時代では世に強烈なインパクトを残した最先端の映画ではあったが、決して時代を経ても色褪せない普及の名作の類ではないということ。
言い換えるとナマモノなので採れたては最高に美味しいが賞味期限がある、そんな映画ではなかろうか。
特にミシェルがホテルで一生懸命パトリシアを口説くシーンはさながら詩集や哲学書を読み合っているようなセリフの応酬が延々と続き退屈ささえ感じてしまう。
ただ、今見ると少し幼さを感じる拗ね顔のジャン=ポール・ベルモンドのさながらパリ中にあるもの全てが自分のものであるかのような自由気ままな振る舞いと愛に生きる姿は当時のパリジャン達の理想の格好良さであったのではないかと思うし、現代においてもそのファッションやクルマなどおしゃれで粋な雰囲気は永遠で憧れる。
おじさん世代にしかわからないと思うが、無様でカッコ悪いがどこかカッコ良さを感じるラストシーンは「太陽にほえろ」のマカロニ刑事が殉職するシーンとダブってしまうのだが、ショーケンもきっとミシェルの生き方に憧れてたんだろうななどと勝手に想像している。
見おろすのいいな
思ったよりストーリーもあって、ゴダールにしては普通に面白く見られるのでは。
みたことあるショットがたくさん。
ぐるぐる回るカメラに少し酔う。
自分にどこまで警察が迫っているのか、新聞で確認するというのが今の時代にはかえって新鮮。
スタンダードモノクロ
ゴダールは18歳で当時映画にハマッたというよりかは批評とか読み出した時にやけによく読む名前で気になって観た気しますが、こんな感じでしたっけ。昨年、女は女であるを目黒で観たときは、楽しんだのですが、今回の2作は楽しめなかった。もっと私が若いときに観れば楽しめたのかな。可愛い男の子としての自意識表現が観ていて苦しい。私はおじさんになりつつあるということかな。
アメリカ女に裏切られるフランス男をナルシスティックに描いた作品ということかな。中盤の部屋のシーンで退屈してしまった。あのラストはディアオ・イーナンも影響受けているのかな。それとも女性の裏切りなんてもっと昔からあるだろうから、こんなことまでゴダールの手柄にする必要ないのかな。
傑作だと言うのなら、僕の感性がまだまだと言う事。
初めて見る。傑作だと言うが、緊迫感はないし、笑いもなく、泣けることもない。メッセージも全く理解できず、困惑している。これが傑作だと言うのなら、僕の感性がまだまだと言うこと。タバコばかり咥えるのは多分演出だと思うが、なんかウザく感じる。この女性を、死ぬくらい愛してしまった理由が分からない。同様に女性がこの男を好きになった理由も分からない。殺人を犯したのに、パリの街中で平凡に一日を過ごす、その状態を不条理として描いたのだろうが、僕は全く共感出来ない。ジャン・ポール・ベルモンドはアクションの人ですから。
僕の感性が異常なのか?それとも、この作品が過大評価されているのか?
『ピエロ』も見てみようと思う。
邦題カッコいいな
フランス人の男性とアメリカ人女子大生のリゾートでのアバンチュールが、夏が終わって深い愛に発展するのかどうか…。
女子大生も、魅力的な男にパリまで会いに来られて悪い気はしない。
可能性は0ではなかった。
でも、男が警察に追われる犯罪者であることが分かり、ローマまで逃避行を共にと言われた時、女子大生の気持ちははっきりする。
せっかく記者になる夢のとっかかりがみえてきたところなのに、男の魅力に囚われて一緒に行ってしまえば、それでは自分は思い描いていた人生を生きられない。
結果…よかった、しっかりしてた!笑
しかもラストの、思い入れが強かったのは断然男のほうだったというオチがついてるのが、フランス映画っぽいなと思った。
やっぱり、ロマンチストなのは男性のほうかもしれない。笑
この映画でスターになった、ジャン・ポールベルモンド(当時27才)とジーン・セバーグ(同22才)がイキイキしていて良かった。
モノクロでオシャレ
ジャン:ポール、ベルモントさん追悼作品で鑑賞。
パリの街並みも絵になるし、ミシェルが次々と盗むクラシックカーも良き。それに乗る2人もバッチリ。
ミシェルは女友達からお金を盗んだり(少し貸してあげるっていうのを、わざわざ断って、ほぼ抜き取る)、小説や音楽を知っているとか、昔住んでた家とか嘘ばっかりのワルだけど、何故かパトリシアも嫌いになれずで。
ショートカットとワンピースのジーン、セバーグもとてもキュートで魅力的。彼女も縛られたくないーと、雑誌社の男にも気を許している。
ついに警察から追われても、2人は離れず、カンパーニュの隠れ家へ。この2階からの撮影アングルが好き◎
顔の体操みたいに、口を開けたり眉を寄せたり、おどけて死んでゆくミシェルもチャーミングでした◎
ゴダールの長編第一作
難解な映画の多いゴダール監督だが、これは第一作ということで比較的わかりやすい。
自動車泥棒(ジャン=ポール・ベルモンド)と、アメリカ娘の留学生(ジーン・セバーグ)が恋に落ちる。
この泥棒は警官殺しで手配されており、これを知ったアメリカ娘は・・・。
ジーン・セバーグの美しさに魅了される。
セリフが苦手
【あらすじ】
警察官を殺してしまったフランス人のミシェル。
捜査の手が迫る中、ミシェルはパリに住むアメリカ人、パトリシアを誘いローマに行こうとする。
パトリシアはミシェルの本心を掴めずに拒むが。。。
ヌーベルバーグの金字塔として映画史に輝く名作。
【感想】
20年ぶりに観ましたが、自分にはダメなんだよ。ゴダールは。
台詞を聞いてるだけで観る気を無くすんだよ。
ブログの方では、ネタバレありで個人感想の詳細とネット上での評判等を纏めています。
興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
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