劇場公開日 2014年12月20日

「フェアプレーの先にある光を信じて」バンクーバーの朝日 ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0フェアプレーの先にある光を信じて

2015年1月5日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

知的

石井裕也監督作品では「舟を編む」を鑑賞したことがある。全く映画になりそうもない題材を、実にうまく映画作品としてまとめ上げる、その手腕に確かなものを感じた。さて、本作はカナダのバンクーバーに実在した日系人野球チームのお話。このモチーフを聞いただけで、もうドラマチックではないか! それを石井監督がどのように料理するのか? 僕の関心はそこにあった。
結果として「いまいち」の感じは否めなかった。相当期待して劇場に足を運んだだけに残念でならない。
きっとこの題材なら、李相日監督を起用していれば、それこそ「フラガール」のような感動大作になった可能性がある。
石井監督独特の一見無駄に見える間延びしたようなカット。あえて、感動するツボのタイミングをちょっとだけ外すような演出。それが石井監督の持ち味でもあるのだけれど、本作のような大作の骨格を持つ作品では、逆にそれが災いしてしまった感があるのだ。
本作での唯一の救いは今、人気、赤マル急上昇中の女優「高畑充希」の存在だ。この人をスクリーンで観る価値はある。
物語の時代は第二次大戦前のカナダ、バンクーバーの日系人居住区。
高畑充希演じるエミー笠原。この人の佇まいが、本当に当時の日系人社会の時代背景と雰囲気を、そっくりそのまま現代にタイムスリップさせたようなのだ。彼女は勉強がよくでき、大学の進学を目指している。そこには、日系人でも、大学で学ぶ者がいることを示すことによって、すこしでも日系人の地位向上に貢献できるのではないか?という彼女なりの思惑がある。彼女はそうして、裕福なカナダ人家庭のメイドの仕事で学費をかせぎ、家にもお金を入れている。彼女の兄、レジー笠原(妻夫木聡)が本作の主人公。彼は製材所で働きながら野球クラブに通っている。その名も「バンクーバー朝日軍」
当時の日系人たちの間では、この野球クラブは、期待はしていたものの、どうにも不甲斐ないと思われていたようだ。成績が悪いのである。勝てない。連敗続きなのだ。
「あんなでっかい体のカナダ人に、おれたちチビの日系人が勝てる訳ないんだよ」などと、レジー笠原は諦めかけていた。
おまけに彼らの日常生活や仕事も、偏見と差別に常にさらされている。ちょっとでも雇い主に意見をしようものなら
「ジャップは出て行け!!」と罵られる。かといって真面目に、熱心に働けば、仕事仲間の白人たちから
「ジャップはがっついてやがる!」と嫌味を言われる。
賃金は安い。彼らの親たちは
「カナダで1年稼げば日本で一生安泰で暮らせる」という、うまい話に乗せられて、はるばる海を越えて異国の地で働き始めた。しかし現実は、かくも厳しかったのである。このあたりの状況は映画の冒頭20分ほどで語られるのだが、この冒頭部分だけでは、その状況や辛さが、観客である僕たちに、いまいち切実に伝わってこないのだ。映画を最後まで見終わった後で、ようやく
「ああ、そうかぁ~、たいへんだったんだね」ということが観客の腹の中に収まるようなストーリー仕立てになっている。だから、僕がもし監督なら冒頭20分は、ばっさりカットするだろう。
さて、そんな負け犬根性が染み付いていたバンクーバー朝日軍。試合中、レジー笠原は、ちょっとしたヒントを見つけた。
「そうだ、頭を使う野球をしよう、もっと考えるんだ」
そこで編み出したのが「バント作戦」と「走る野球」である。
バントで一塁へ出る。すかさず二塁へ盗塁。相手チームは焦る。その隙に3塁へ。打者がボテボテのゴロを打つ。その間にホームへ滑り込む。
一点だ!ヒットなしでも一点取れる! あのでかい図体のカナダ人相手でもこれなら勝てるぞ! この「ちょこまかした」戦法でバンクーバー朝日軍はリーグ戦を勝ち進む。やがて彼らはリーグ優勝決定戦にコマを進めることになるのだった……
と、このあたりのトントン拍子に勝ち進むあたりは、実に爽快で楽しく鑑賞できる。
バンクーバー朝日軍はフェアプレーを心がけていた。その先に必ず、朝日が差すのを信じて。国や、人種の違いを超えられると信じて。
ただ、彼らのその後に待ち受ける運命は過酷である。
日米開戦。と同時に、カナダの日系人たちも敵性外国人という烙印を押され、強制収容所送りとなる。
僕はかつて戦時中のアメリカに住む、日系人を題材としたドキュメンタリー映画「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」を観た。
劇場で観終わったとき、僕はしばらく席を立てなかった。それほど彼らの戦いは悲惨で激烈だった。自分たちの運命に立ち向かう、自分たちの「アメリカ」という国を愛する意思表示をするのに、どれだけの命を捧げなければならないのか。その苛酷な時代の波と運命を受け止めたジャパニーズ・アメリカンたちの、ひたむきな力強さに打ちのめされたのである。
「ここまで人間は強くなれるのか?」と。僕にはできないと思った。
それこそ「負け犬根性」なのかもしれないが、僕は人と争いたくもない。また、なによりどんな事柄についても「戦いたくない」ないしは「闘いたくない」人間である。
それは21世紀の今、現実世界においてだ。
あえて「ぼくたち」という言葉を使わせてもらう。
「ぼくたち」は十分すぎるぐらい、すでに戦わされている。目に見える形での偏見や差別、格差といった戦い、そして目に見えない形で生活の中に潜む「たたかい」
いつになったら「ぼくたち」は戦わずに済む日常がやって来るのだろうか?

ユキト@アマミヤ