「異なる形をした女性の「孤独」と「生きづらさ」を描いた作品」紙の月 michiさんの映画レビュー(感想・評価)
異なる形をした女性の「孤独」と「生きづらさ」を描いた作品
角田光代の同名小説を原作とし、吉田大八監督によって映画化された『紙の月』(2014年)は、単なる金融犯罪を描いたサスペンスではない。一人の女性が、愛されたいと願い、必要とされたいと渇望しながら、静かに、しかし確実に壊れていく過程を描いた、極めて人間的な物語である。
主人公・梅澤梨花は、銀行の契約社員として真面目に働き、穏やかな夫とともに安定した生活を送っているように見える。だが、彼女の内面には誰にも気づかれない深い孤独と虚しさが積もっていた。夫との関係は冷え切っており、子どもを望む梨花の声は軽く受け流され、真剣に向き合ってもらえない。仕事においても「信用されている派遣社員」という立場に安堵しつつも、正社員ではないという「属していない感覚」に常に不安を抱えていた。
そんな彼女が出会ったのが、年下の大学生・光太である。彼の抱える奨学金の悩みを知った梨花は、何の打算もなく彼に援助を申し出る。それは、幼少期から続いてきた「誰かに必要とされることでしか、自分の価値を感じられない」という梨花の習性の延長であり、まさに、彼女の自己犠牲の優しさと承認欲求の交差点であった。光太との関係は、次第に境界を失い、快楽に耽り、金銭感覚もボロボロと崩れていく。最初は迷っていた彼も、次第に依存を強め、梨花はその期待に応えようとするかのように、「横領」という行為を犯し一線を越えていく。
光太との関係は決して純愛ではない。だが、それは断罪されるべきものとも異なる。梨花は、自分を女性として見てくれる存在、自分を丸ごと肯定してくれる存在として光太を受け入れ、そこに一種の再生願望を重ねていた。だが、その幻想はあまりにも脆く、彼が年相応の若者としての生活に戻っていくにつれて、梨花は「一時の夢を見させてくれる人」に過ぎなかったという現実を突きつけられる。
物語の後半、同僚の隅より子が際立つ。隅は真面目で規律を重んじる人物であり、梨花の変化にいち早く気づいていた唯一の人物でもある。彼女が放つ「何千万円も使って、それでも満たされなかった?」という一言は、梨花の心の奥底を貫く痛烈な問いである。同時に隅自身もまた「徹夜」をしてみたいと思うと告白する。しかし、「翌日に響く」という台詞に象徴されるように、抑圧された欲望と生きることの緊張感を抱えている。梨花と隅は、異なる選択をしたが、同じ種類の孤独や生きづらさを抱えた女性たちなのである。
この映画を観ながら、私は梨花に深く感情移入した。それは、私自身が「認められたい」「必要とされたい」という気持ちを抱えながら生きてきたからである。かつて、難関資格を取得することで社会的信用を得ようとし、与えることで人に喜ばれる自分になろうと努力したことがある。だが、それはいつしか義務に変わり、空虚な承認の繰り返しになっていった。だからこそ、梨花の崩壊のプロセスが、私には他人事には思えなかった。
『紙の月』は、人生が崩れていく過程において、どれほどその始まりが些細であるかを静かに示す。誰もが倫理観を持って生きている。だが、その倫理観も、環境や関係性、孤独や欲望といった無数のファクターが重なれば、いとも簡単にタガが外れてしまう。魔が差すという瞬間は、決して遠くにあるものではない。
この映画の美しさは、そうした脆さを冷たく突き放すのではなく、寄り添い、見つめ、共にため息をつくような静謐な優しさにある。ラストで描かれる「与える側」から「与えられる側」への転換は、梨花が初めて、自分のままで何かを受け取ることを許された瞬間であり、それは彼女の再生の予兆とも言えるだろう。
『紙の月』は、心が壊れていく音が聞こえる映画である。そして、それを聞き取れる人にこそ、深く届く作品である。多くの女性に観てほしい。