野のなななのかのレビュー・感想・評価
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難解を装った力業
言わずと知れた大林の戦争3部作。前半のシュールな舞台劇風な展開に呑まれて後半に辿り着くのにかなり苦労はするがその難解さがある意味良い溜めになって、後半の迫力のある展開を後押しする。映像美には鈴木清順や寺山修司、はたまた黒澤の🎦夢を想起させたり、🎦フェリーニのアマルコルドをオマージュしたり、とにかく女優の描き方が小津をメチャクチャ意識してたり、中でも常盤貴子へはメチャクチャ、イングリット・バーグマンのアングルを重ねてくるなど、往年の映画ファンにはたまらないサービスが満載である。そのメッセージはシンプルで力強い。説教臭いと思う向きもあるかもだが、変に物語の中に織り交ぜるのではなく、唐突にセリフとして役者に語らせる手法は強烈である。🎦この空の花 長岡花火物語(英題:Casting Blossoms to the Sky)を新潟(舞台、長岡)で、花筐(はながたみ)を佐賀(舞台、唐津)で見て来た自分としては本作品は何としても北海道(舞台は芦別)で見たかったのだが、最後の最後で叶わなかった。それはそれで残念でならない。しかしそれ故にこの3本の作品に込められた戦争に対する、それはもとより様々な災害に対する鎮魂のリレー作品である事には本当に頭が下がる。そこにはまさに日本そのものが美しくもはかない日本原風景の美と共に人々のたゆまないささやかなる日常と青春が描かれているのだ。
私達は、どうやら本作のラストシーンのさらにその先にいるようです 七七日、終戦から七七年 何か字面が似ています
大岡山駅のひらがな表記は、おおおかやま、なんかそんなつまらない事を思い出すようなタイトルです
漢字で書くと「野の 七 七日」
やっぱりひらがな表記がいいですね
花咲く野原での四十九日はラストシーンにあります
舞台は北海道芦別市
富良野と旭川と滝川の真ん中辺り
札幌から富良野行きの特急に乗って2時間半
岩見沢、滝川、芦別の三駅しか止まりません
そぞろ過疎化でJR北海道も廃線だらけですがここは根室本線の駅なのでまず無くなることはないでしょう
芦別市のことは、劇中で美しい映像とと共に紹介されます
映画は3時間弱
正直、中盤まで冗長です
くどいほどの説明的な映像と台詞が延々と続きます
普通の映画なら、バサバサ編集して刈り込めます
上映時間も1時間は短くできたでしょう
そんなこと大林宣彦監督なら百も承知です
理由はふたつ
ひとつは資金の8割方が芦別市民の寄付による市民自主制作映画のようなもので、芦別市民有志主催の20年も続いた年一回の映画イベントで、大林宣彦が「校長」をつとめていた「芦別映画学校」の集大成として製作されたものだからでしょう
20年もの長い活動の集合記念写真のようなものです
そしてふたつ目は、その冗長さが芦別に生まれて育ってきた3世代の町の人々の歴史の重さと深さを観客に理解させる為です
それがあるから、後半に向けて物語が収束していく感動があるのです
お話しは2014年の現在と1945年の過去が複線で進行します
序盤で品川徹の演じる主人公が死にます
題名の七七日は、彼の四十九日のことです
葬儀やその法事に集まった親族の面々、死んだ本人の記憶で過去が語られます
1945年8月15日終戦
私達の常識はそうなっています
しかしロシアでは対日戦勝記念日は9月3日だそうです
なぜかというと、9月2日に日本が連合国に降伏文書に調印して、その翌日にソ連が戦勝記念式典を開いたからだそうです
日本とソ連とは日ソ中立条約を結んでいていたのを終戦間際の8月9日に一方的にそれを破棄して日本に宣戦布告して、満州と千島列島、そして樺太に侵攻を始めた戦争です
樺太では8月11日に侵攻がはじました
千島列島は幕末に、択捉島以南が日本領であるとロシアとの間で一旦確定しました
20年ほど後の明治になって全島日本領になります
というのも樺太は日露雑居地ということで宙ぶらりんだったものを樺太はロシア領として、代わりに千島列島は全島を日本領とする樺太千島交換条約が結ばれたからです
そこからさらに30年経って日露戦争の結果、樺太の南半分がロシアから割譲され日本領となります
1945年は、それから丁度40年後のことです
樺太の南半分には日本人の町が幾つかでき、軽便鉄道も敷かれたそうです
そこで生まれて育ってそこが故郷である人もいる訳です
8月11日、樺太の真ん中にある国境をソ連軍は南下して侵攻を始めます
もちろん駐留していた日本軍は防衛行動をします
8月15日になってもソ連軍の侵攻は止まらず、現地の日本軍には自衛戦闘が命じられ戦闘は続ました
25日になってほぼ樺太の日本領全てがソ連軍が占領して戦いは終結します
劇中で、武装解除の連絡が届いてないとかの会話がありますが事実はこういう時系列です
そして8月15日を過ぎた18日であるにも係わらず、千島列島の最北端の占守島(しゅむしゅとう)にも侵攻が始まっています
つまり日本の降伏など眼中にない単なる侵略であったということです
まして千島列島は、平和的な外交条約で正式に日本領として双方で納得づくで確定していた領土であるのですから
樺太には当時40万もの日本人が暮らしていたそうです
ソ連軍の侵攻が始まって緊急疎開が始まり10万人の人々が島外に避難できたそうですが、30万人もの日本人が取り残された訳です
今ではロシアの国民です
仕事も財産も日本語さえ奪われてしまったのです
島外への避難の最中でも避難船が攻撃を受けて三隻が撃沈されて避難民1700人が死にました
陸上でも無差別攻撃が行われて2000人もの民間人が死んだそうです
この時何が起こったのか、詳しく知りたい方は、1974年の映画「樺太1945年夏 氷雪の門」をご覧下さい
2018年の吉永小百合主演の映画「北の桜守」もあります
本作の劇中で、芦別はロシア領か?日本領か?という会話があります
あれは本当ならソ連軍は北海道にも侵攻して、留萌と釧路を直線で結んだスターリンラインというもので、北海道を東西に分断占領する作戦構想であったことを指しています
芦別はその直線上にある町だったのです
そうならなかったのは、アメリカがそれに反対して樺太と千島列島だけを黙認したからです
そして樺太や占守島の日本軍が激しく抵抗して自衛戦闘を行い、ソ連軍に大きな損害を強いたこともあるようです
2022年の夏
1945年から77年後
ウクライナで同じことが起こっています
北海道の人々はロシアへの制裁や非難、ましてやウクライナへの防衛装備の提供について、少し内地の私達とは違ったトーンでいるように感じます
ロシアの脅威は遠い海の向こうの事ではないからでしょう
晴れた日には、劇中の台詞のように海峡の向こう側に島影が見える程近いのです
その向こう側にロシア軍は身近にいて、つい最近も威嚇をしてくるのですから
本作で描かれたようなおぞましい戦争の悲惨は何百、もしかしたら何千もウクライナで起こっているのでしょう
戦争は嫌です
絶対に起こしてはなりません
それが本作のメッセージです
こんな悲劇はあってはならないのです
それを情感をたっぷり込めて私逹の心の奥底に届けてくれます
なななのか、四十九日
故人は初七日を迎えてから7日ごとに、生前に犯した罪を閻魔様によって裁かれ、四十九日をもって来世の行き先が決定されるそうです
親族や故人と縁の深かった人々が、故人の成仏と極楽浄土へ行けることを祈る法要が四十九日です
そして、それまで喪に服していた遺族が日常生活にもどる日ということでもあります
ラストシーンの花の咲く野原はその法要が終わり墓に納骨して、全部終わったと登場人物逹が伸び伸びとくつろいでいるところです
戦争は嫌だと思っていても、勝手に攻め込んでくるなら私達はどうしたらいいのでしょうか?
非戦の誓いを建てたからといっても相手は相手の都合や利害や自分勝手な理屈で動くのです
私達は、どうやら本作のラストシーンのさらにその先にいるようです
まるで喪中あけです
戦争の服喪の期間が終わったのかも知れません
厳しい現実の世界に否応なく戻らないとならないようです
七七日、終戦から七七年
何か字面が似ています
私はだぁーれ?
青い空は動かない、
雲片ぎれ一つあるでない。
夏の真昼の静かには
タールの光も清くなる。
ー夏の日の歌 中原中也
大林宣彦特集で特別上映があったので、近くの小劇場にて鑑賞しました。
鈴木光男を軸に、人間の生き死にについてを、全16章仕立てで描いた、約3時間の超大作。
舞台は、星のふる里芦別 かつて炭鉱で栄えた町
北海道らしい、高原のような風景と自然がとても美しい。
雪・新緑・星・山桜・草花
四季折々の自然の中で営まれる、鈴木光男を取り巻く親戚の、なななのか(49日)までのあれこれ。
映画始まってすぐの、病院での看取りのシーン。
展開は掴めるけど、早口で本編とは関係のないような会話の数々。
全然頭に入ってこず、
「ヤバい、これはかなりの難解映画だ。今の自分には、まだわからないかもしれない」と。
ようやくわかり始めたのは、初七日での戦争についての話のあたりから。
そこからは、一気に反戦色が強くなっていきました。
それでも謎は深まるばかりで、そもそも信子とは何者なのか?綾野との共通点は?などなど。
クライマックスのなななのかのあたりから、伏線が回収されていき、坊さんの一言「輪廻転生ですな」で、そうか、そういうことか、そういうことなななのか!となりました。
大林監督の静かな怒り。
炭鉱から観光へ。原爆から原発へ。
泊原発はじめ、日本には山ほどの原発があります。
時計はあの14:46で止まっていた。
ある意味、まだ戦争は終わってないのだろうか。
とはいえ、今は平和な時代。
ありがたいことに、日本では。
核廃絶へ。監督のような戦争経験者の方々が亡くなってきてしまっている今、戦争を知らない私たちが記憶し、しっかりと後世に伝えていかなければならない。
品川徹さんの、畳み掛けるような光男の辛い過去。
忘れたいけど忘れられない、それが戦争。
そして、彼らにとっては戦争が青春。
過去の辛い記憶のパートから、いきなり平和な現代パートに引き戻されるのも良い展開でした。
演出や撮影も秀逸で流石です。
切り替えやズームアウトなど、不思議な含みを持たせていました。
現実的だけど御伽噺のような、不思議な世界観。
映画観終わってから、現実世界に戻ってきても、戻った気がしませんでした。
大林監督作は、まだほとんど観れていませんが、日本をよく理解していらっしゃって、最も日本らしい映画を撮れる監督だったんじゃないでしょうか?
赤も印象的でした。
情熱の赤、血の赤、夕陽の赤、そして日の丸の赤。
暖色の使い方が上手いからこそ、あったかい映画になるのかな。
約3時間、観入ってしまいました。
大林ワールドに吸い込まれる。
長いどころか、まだまだ観たいと思えるほど。
途中眠くもなりましたが、音楽と芦別の自然の景色が美しかったから。
これは、観れば観るほど味が出てくると思う。
まずは、中原中也を読んでみたいと思います。
追記:主題歌を担当したパスカルズ(野の音楽隊)はドラマ『凪のお暇』の曲を担当した人たちだそうです。なるほど‼︎
優しさの中に秘められた苦悩
元病院の医長光男を演じた品川徹さんの抑えた深みのある演技が秀逸。
看護師信子を演じた常盤貴子さんの凛とした美しい表情と演技に魅了されました。
大林監督の優しさと激しさ、色彩の美しさ(独特な「赤」の取り入れ方が巧い)に魅せられました。ラストで一気に全てが繋がる余韻を残す作品。
映画館での観賞
血縁
長い映画であったが、田舎に帰った時のように、たまり溜まった情報を短い時間で棚卸ししてやり取りしているがごとく、興味は最後まで持続した。振り返れば、若い時代の青い体験に取り憑かれた爺が、92歳を全うするにあたって、先立った2人の子供と妻のことは一寸も顧みずに昇天するという、通念からは咎められるような話であったことに気づく。しかし、人とはそういうものという開き直りは心地よくもある。
柴山智香の位置付けが気になるところである。過去に取り憑かれた者と対比的な現世に欲を求める者かな。
震災からもうすぐ10年。少し色褪せてきた記憶をなぞってみる。
生と死、古里に誓って
大林宣彦監督2014年の作品。
地方を舞台に市井の人々と作る“古里映画”、2012年発表の『この空の花 長岡花火物語』の姉妹編に当たる“戦争レクイエム”の、共に第2弾。
北海道・芦別市。
元町医者で現古物商の鈴木光男が92歳で息を引き取った。
葬儀の為古里に久々に家族が集う中、一人の女性・清水信子が現れる。
“なななのか(=四十九日)”の間、光男の過去が語られていく…。
現在と過去が交錯、膨大な台詞量、延々流れる音楽、目まぐるしいカット、編集、演出…この“戦争レクイエム”でさらに磨きが掛かった大林ワールドは健在。
反戦メッセージや平和への祈り、3・11後の日本への眼差しも。これら全て、『~長岡花火物語』と通じる。
そんな作風の中に、本作ならではのテーマも。
人の生死、一生。
光男が歩んだ長き人生の中でも、思い出すは…
青年時代。親友と、一人のうら若き女性。
3人の間で議論に上がる画や詩など芸術への執着、3人の関係。
1945年8月15日後も、樺太ではソ連軍が侵攻。
自由が、3人の運命が、狂わされていく…。
悲劇も、青春も、戦争の渦中に…。
余りにも壮絶。
自ら死を考えた事もあったろう。
生きるのが辛かった事もあったろう。
が、生き、子、孫、ひ孫へと繋がっていく。
ただの一つの家族としてだけではなく、生や命が伝われていく。
“大黒柱”とでも言うべき光男役の品川徹が存在を発揮。実質主演で、この名バイプレイヤーを主演で見たのは初めてかも。
共に暮らす孫に寺島咲、ひ孫に山崎紘菜。大林作品晩年の若き常連2人が、現代に生きる“希望”を魅力的に。
常連組や豪華面子の中に、大林作品初参加の常盤貴子と安達祐実。物語のキーとも言える不思議な存在で、その正体と共に、ひと際印象を残す。ちなみに常盤は兼ねてから大林監督の大ファンだったとか。
“古里映画”もしくは“戦争レクイエム”の最初の作品としてその作風が斬新であった『~長岡花火物語』、トリで執念的集大成となった『花筐/HANAGATAMI』。インパクトある2作品の間に挟まれた格好だが、本作はそれらの中でも最も“温かさ”を感じた。
人の繋がり、思い。
人は誰かの為に生き、死んでいく。誰かの為に死に、生きていく。
生死の狭間が曖昧な“なななのか”。
それがノスタルジックでファンタスティックな雰囲気をもたらす。
ラストの北海道の雄大な風景に心が洗われる。
少なくなっていく戦争を伝える人々。
多くなっていく戦争を知らない子供たち。
戦争、悲劇、災害、平和ボケ…。
が、誰かが死の前に伝え、誰かが生の間に記憶する限り、決して風化しないと信じる。
私たちの生と死、美しき古里に誓って。
長い
中盤までとにかく退屈で見るのをやめようかと思ったのだけど、北方領土の回想になるとドラマのエンジンがかかり引き込まれる。一族の血縁の物語でもあった。友達が国後で生きて家族まで持っていたのが驚いた。家族と暮らす家で、雇った看護婦を裸にして油絵を描いていたというのがどう考えてもエロい。
「さよなら人類」のたま?たまだろ?たま・・・
生と死の49日の間に見る光景なのだろうか、野の楽師たちの演奏する光景が自然に溶け込み、彼らに導かれて死の世界に行くような・・・。さらに鈴木光男の描く絵、中原中也の詩が心に響く作品でした。
北海道芦別市。大往生を遂げた鈴木光男医師の死。彼の親戚縁者が集まり、故人の話や親せきの話、そして戦争、震災、原発問題について語り合うストーリー。流れているレコードは敵戦闘機の音、これはグラマン、これはB29など、当時の日本で音を聞き分けるために作られたものらしい。
鈴木家の家系図でも見せてもらえないと、最初は親戚のつながりもよくわからない。会話も敢えて“間”をなくし、時折、会話のキャッチボールさえわざと外すようなところが面白い。特にひ孫に当たるかさね(山崎紘菜)の会話は皆と噛み合わない。
北海道の本当の終戦は9月5日。玉音放送も知らぬまま樺太に渡った話や、戦争前は樺太でも日本人とロシア人は仲良く暮らしていたなど、あまり知られてない話も知ることができる。
親戚ではなく、看護師として働いていた常盤貴子の存在がまた興味深い。祖父さんが好きだった山中綾野(安達祐実)の生まれ変わりだとして、絵のモデルにもなっていたが、春彦(松重豊)の妻は幽霊がいるなどと主張するのだ。明らかに彼女は存在はしていたのだが、すべて幽霊だったとして観るのもまた面白いのだと思います。
色んな話が詰め込み過ぎとも思えますが、要は反戦と反原発の思いが伝わる作品。鈴木姓を名乗っていれば、いつかは鈴木家の墓に入ってまた楽しくやれるなどという家族愛なんかも感じられるし、お盆の頃に親戚が集まって観るのもいいかもしれません。コーヒーでも飲みながら。
理解不能、されど?だから?何度も見たい
長くて難解な映画だったけど、絵の美しさ、軽快に繋がれる絵と台詞に、不思議な吸引力があって、分からないのにずっと集中して見通せた。最後まで意味不明な気持ちがぬぐい去れなかったけれど、それ故に何度も見返したくなる。長いから容易には踏み切れないけれど…
大林監督特有のノスタルジーと女性への萌感漂う作品で、非常に好きになってしまった。
理解不能ながらも、そのコンセプトや魅力的な雰囲気は確立されていて、なんか、すんごく、いい映画だった。
只管に一筋
北海道芦別の特別な作品かと思いきや、やはり大林作品、「反戦」が大上段から振り下ろされる。
前作「この空の花」は空襲と花火、更には東日本大震災がリンクして、今でも長岡の花火を観ると泣けてくるほど思い入れが強くなったが、今回の反戦は芦別よりも樺太がベースで、芦別は戦争リンクが炭鉱、とは少し薄いなぁ。
しかも前作より演劇要素が強く、台詞があちこちから乱れ飛び、この場面で言いたい事は何だろう、と間誤付いていると置いていかれる。
結局、最後まで光男や信子、カンナ、かさねの真意が掴めずに終わった。かと言って、また観ようという気力も湧かない作品。長いしw
次回作も長いけど、いつか観ます、多分。
文化を壊して、お金に変えてたの、一生懸命、国中で・・
映画「野のなななのか」(大林宣彦監督)から。
「北海道芦別市を舞台に描いた人間ドラマ」らしいけれど、
芦別市の名所旧跡の案内的要素もあるからか、
2時間51分(171分)は、とにかく長い。(汗)
さらに、最初から最後まで演劇の舞台のようなテンポで、
台詞が交差しあうのだから、観賞後、どっと疲れた。
しかし、メモしたくなるような台詞は多かったので、
停めては戻しメモして再生、の繰り返しだから4時間はかかった。
中でも、私が気になったのは「第14章 そして、現代。」の章。
赤毛のアンの家とか、カナディアン・ワールドと称した廃墟などを
指差しながら、芦別市の歴史を振り返るシーン。
「まちおこし・・まち壊しだったかな?」と溜息をつき、
「まちおこしってのは、日本中の流行りだったからね」と嘆き
「『炭鉱』から『観光』へ、だったわね、ここは」と思い出した。
さらに、話を続けて、こんな会話が・・。
「京都の鴨川に、パリのセーヌ川の橋を架けましょうだなんて話も」
「それは文化の破壊だね」
そして最後に、こうまとめてある。
「文化を壊して、お金に変えてたの、一生懸命、国中で・・」
いかにも、一時代前の「まちおこし」と表現していたが、
実は、現代の「地方創生」への警鐘ではないか、と感じたからだ。
日本が「観光立国」を目指しているからって、資源もないのに
「観光」を目玉にして、人口減少を解決しようとする地方に対して。
「まちおこし」って、流行りで行なうものじゃないからなぁ。
「映像の魔術師」がそれを封印して絵では示さず,別チャネルの「ことば」で暴走しより「想像せよ」と迫る
とある講演会で大林監督は『あの空の花(以降「前作」)』と併せて映画版ゲルニカのつもりで作ったと言ってた.「自分をピカソに喩えるのはエラク大胆な」とその時は思ったが,確かに前作と今作は正面顔と横顔の関係.
前作では映像,文字,音声言語の3チャネルを束ねて畳みかけるように情報を伝える手法が使われた.今作は映像と音声で別の情報を伝えるというある意味「狂った」手法で観客の入力バッファを溢れさせてる.これも発明か…
CG使えばどんな映像でも作り出せる時代に「映像の魔術師」と呼ばれた監督がそれを封印してある意味「普通の」絵で映像を作り,別チャネルの「ことば」で暴走する.なのでぱっと見舞台っぽい退屈な芝居に見える.
ところが映像にも音声にも(ある意味)独立に別の話が重なり合って観客に提示される.おまけに生者も死者もシームレスに共存している.大林監督,オカシイというか狂ってる(褒め言葉).
前作はそれでも「絵で観せる」部分があったのを『野のなななのか』は絵でも示さず,より「想像せよ」と迫る.こんな映画は大林宣彦監督にしか作れない(=代替が効かない)が,おそらくは免疫ない人にはかなりなイニシエーションになろうなぁ…
今回もおなか一杯です。
予備知識無しの場合はそれ相応の覚悟が必要です。
何があっても驚かない、些細なことは気にしない、それらも引っくるめて全てを受け止める、そんな覚悟が。
情報量が多すぎて、とても全ては受け止めきれませんが。
メッセージに関しては前作よりも控え目なものの、繰り返し出てくる反戦の思い。
この映画では団塊世代が出てこない。団塊世代を伝える事の出来なかった世代として存在すら消し、その次の世代へ直接何かを伝えようという覚悟を感じました。
観念的で、説教くさい。知力体力ある時に。
舞台のようなセリフをたたみかけたり、時空を超えた短いカットの連続、デフォルメされた映像など、演出過剰が3時間続くので、ぐったりする。
反戦の強いメッセージを、人間の生死と合わせて伝えたいという、大林監督の思いはわかるけど、もう少しシンプルに表現できないのかなぁ。
この手の映画を芸術性が高いと評価する人がいるのも分かるけど、知力体力ないと、消化不良に終わりそう。
北海道の自然は美しい。
画像の余計な加工が美しさを削いでいて、残念。
巨匠って、みんなこうなっちゃうのかな。
な、なんだこれは
もっとおとなしい映画かと思ったんだが、しょっぱなからめまぐるしいカット割に膨大なセリフ量。とにかくこれを三時間見ていれるのかと思ったが、まあ案の定体力が持たなかったというか…。
しかしマイケルベイ以上に素早いカット割も決して適当にやっているわけではないのがわかる。セリフももちろんそうだ。
大林宣彦はなんて体力のある監督だろうか…。七十代でウルフオブウォールストリートを撮ったスコセッシ並みの、それ以上の勢いと若々しさを感じる。
しかし疲れた…
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