「理解できない他者への嫌悪」チョコレートドーナツ REXさんの映画レビュー(感想・評価)
理解できない他者への嫌悪
ルディとポール。彼らがのぞんでいるのはゲイへの理解ではなく、育児放棄されたマルコとただ穏便に暮らしたいだけ。それなのに、なぜそれすらも自由ではないのだろう。
他人が他人の関係性を把握するのは難しい。司法は意思表示の拙い子どもを守るため、いたずらに血のつながりのない他人に子どもを預けることを躊躇する。
それは正しいし、慎重を期せなければならいのはわかるが、ルディが「ゲイでショウダンサー」だから差別したことは明らか。
私が中学生の時に出会った言葉で、新しい概念を教えてくれた本がありました。
「お互いを高めあっていけるなら男同士であっても女同士であっても関係ない」
という文章に目の覚める思いをしたことを、今でも覚えています。
ポールを自分の後継者に見込んでいた上司の、意趣返しの場と化していた親権裁判。裁判長はうっすらとそれに気づいていたはずなのに、彼らの力にならなかった。もどかしくて怒りがわいた。
ポールが叫ぶ「デブでチビのダウン症で、母親にも見捨てられた子を、自分たち以外に誰が愛するというのか」
まさにそうで、マルコは奇跡的にルディに出会えて、ルディは奇跡的にポールに出会えた。ささやかに寄り添って生きていきたい、そっとしておいて欲しいだけなのに、なぜそれを奪おうとするのか?
裁くのは、彼らが罪を犯してからでいい。ルディらがマルコに体罰を加えたり、育児放棄してからで十分。
今回のケースでは、司法側はただ単にマイノリティは人格的に欠陥のある人間なのだと躍起になって証明したかったにすぎない。育児放棄した実母より、弁護士のポールやルディが生活能力が高いのはあきらかなのに。
マルコの死がさらりと伝えられるからこそ、そのちっぽけな人生が際立って悲しい。そのちっぽけな命でさえ司法は守れなかったじゃないか。
訥々と筆を進めるポールのやり場のない怒りが伝わるようで、涙を誘いました。