「『耳をすませば』by京アニ」たまこラブストーリー 庵藤 崇さんの映画レビュー(感想・評価)
『耳をすませば』by京アニ
『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』と社会的なブームを生みだしてきた京都アニメーション(京アニ)の最新作。
監督、シナリオ、キャラデザが『けいおん!』と同じスタッフ。原作はなくいわゆるオリジナルアニメーション。大ヒットした作品と同じ布陣でのオリジナルはチャレンジと置きにいっている中間くらいの微妙なところ。
ただ、あまりヒットしなかったテレビアニメを映画化してしまうあたりに何かこの作品に京アニが賭けていたものがあったのではないかと感じる。
前置きは、このくらいにして内容の話。
一言で要約すれば、耳をすませばby京アニ。
言わずとしれたジブリの『耳をすませば』。観る者に青春時代の「恥ずかしさ」や「痛さ」をつきつけ「若いっていいよね!」と言わせるあの『耳をすませば』だ。
それを『けいおん!』のキャラクターでやったのが本作。
しかし、観ていてあの『耳をすませば』ほどの「痛さ」や「恥ずかしさ」を本作に感じる人はほとんどいないのではないだろうか。
なぜだろうか。
確かに、本作は青春の「痛さ」や「恥ずかしさ」を描こうとかかんに挑戦している。
たとえば、もち蔵やみどりが「うあ~!」と外で叫ぶシーンはかわいらしくも「痛い」ものだし、もち蔵がたまこの動画を一人見ながらにやにやしているシーンなどは「恥ずかしい」ものに違いない。(さらに言えば、この映画の演出はおそらくもち蔵が自主映画を撮っていることからも自主映画的な演出が随所に表れている。これらの演出も考えようによっては、かなり「痛い」。)
だが、総じて、それらは胸につきささるほどのものでも目を覆いたくなるほどのものでもない。
演出やストーリー上で意図したものが結実してない理由は厳しくいえば「ぬるい」からだ。
『あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない。』や『とらドラ』の脚本家、岡田麿里のようなつきつめたものがこの作品にはない。
つきつめたもの、それは言い方を変えれば「悪意」のようなものだ。
この「悪意」は観るものを不快にさせつつも作品に大きな魅力をもたらす。
京アニに「悪意」などあるわけないだろ!と多くの人は言うだろう。
しかし、『涼宮ハルヒ』『らき☆すた』『けいおん!』に確かにそれはあった。
それは製作者たちの意図しない形だったのかもしれない。
どれもが青春を題材にしながらいびつであり得ない世界観の中、美少女たちのユートピアが描かれた。
ユートピアには決して登場しない「痛さ」や「恥ずかしさ」といった青春の負の要素。
たとえば、『らき☆スタ』や『けいおん!』にはほとんどといってよいほど男のキャラクターはでてこない。故に、キャラクターたちが等身大の恋愛などに悩む必要はない。
一方、『涼宮ハルヒの憂鬱』では確かに男性キャラクターが存在するし、恋愛の要素もあるが、主軸となるのはSFの設定やコメディであり、主人公が恋愛で悩むことがメインになることはない。
そして、上記の作品の登場人物は、自らの進路に悩むことは決してない。
なぜなら、虚構の世界において、自らが永遠のモラトリアムを生きることは、作品が生まれたときから決定づけられていて、それらは作品の中の絶対的なルール(暗黙の了解)であるからだ。
これらの作品には、青春の負の要素である「痛さ」や「恥ずかしさ」は生まれることはない。
だからこそ、逆につきつめた「悪意」は作品の中に生まれた。すなわち、こんな架空は絶対にありはしないけれど、それを楽しむ(萌える)者たちに対しての恐ろしいほどのアイロニーに繋がっていた。
こんな世界(キャラクター)はいない。でも、こんな世界(キャラクター)が好き。
相反する気持ち(想い)を観る者に無意識に植えつける上記の作品群は一種のドラッグといってもいいほどの魅力を放っていた。それは、これらの作品を非難するものにすら、その「魅力」自体は否定させないほどの圧倒的な力だった。それは、おそらく製作者の意図を超えたものだったのかもしれない。
だからこそ、今回、今まであえて(無意識に)避けていた要素にかかんにも挑戦した本作は、これまでの作品と一線を画す。
すなわち、青春の負の要素を描かないことで生まれた「魅力」は失われるということだ。
もし、この作品に「魅力」が生まれるならば、やはり岡田麿里や『耳をすませば』のような、つきつめた「痛さ」や「恥ずかしさ」がなくてはいけなかった。
しかし、その青春の負の要素を描くには、あまりにも京アニというスタジオは良心的すぎた。
観る者が目を覆いたくなるほどの「痛み」や「恥ずかしさ」を描けるはずもなく、なんとも中途半端に落ち着いたのが本作だ。
長々と書いてしまったが、結論としては、今まで無意識にあった京アニの長所が完全に消えた凡庸で退屈で良心的すぎる作品だった。