インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌のレビュー・感想・評価
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面白くはない・・・が・・・
なにやってんのかぁ・・・って感じでこれと言ったドラマも危機もなく話が進んでいく・・・が、それにしては割と退屈しないで見れた。まぁ、これはこれで悪くなかったかもな。物語もダークで映像もダークでそれなりに味わいがあったような。・・・主人公の歌声は私は好きじゃない。高音部分が風邪をひいてる声みたいで聞きづらかったから。
名のある猫の歌。
O・アイザック推しの自分には期待通りでかなり満足できた作品。
コーエン兄弟がデイヴ・ヴァン・ロンクをモデルに描いた物語だが
(基盤のデイヴのアルバムジャケットが同じ作りで猫も写ってる)
実際の彼よりオスカーはかなり柔らかい美声、何とジュリアード
卒とは知らなかった!驚きの上手さ。C・マリガンも頑張ってる。
ラストに出てくるB・ディランを含めて当時のフォーク勢も満載
の嬉しい展開だがゲスト出演に近いJ・ティンバーレイクが自作
曲をA・ドライヴァーとオスカーの3人で演奏するのがお見事だ。
頑固で偏屈でだらしなくてプライドだけ人一倍高いルーウィンの
家も金もないうえ親切までも空回りするトホホな生き様を通して
彼の歌声に反映された愁いのような部分が見えてくるのは面白い。
つまるところ彼の行動すべてが自業自得、売れないのも仕方ない
と思うあたりでまた切なさが増す…響くところは確かにあるのに。
面白かった。昔なら退屈になってすぐ寝てただろうな、的な映画。味があ...
面白かった。昔なら退屈になってすぐ寝てただろうな、的な映画。味があるな、と思えた。ちょっとわかってきたかな、俺(笑)
これが有名なコーエン兄弟の作品なんですね。まず歌が心地よい。主人公、歌手だと思いました。猫、姉、父等々、それぞれがどことなく、言い知れぬ役割を持ってる気がします。そして何と言ってもジーンことキャリー・マリガン、なんとも言えぬ魅力溢れる女優さんですね。この映画を象徴してるかのよう。
ラストシーン、え、何?また殴られんの?なんで?
結局、自分が全然わかってなかったことに気づかされました。まだまだだな、俺(笑)
川島雄三を思い起こさせる
(3000文字まで:改行も1文字と計算)
※キネマ旬報本誌の読者評に投稿する場合は800字前後でお書きください フォークソングに興味なし。むしろあまり好きではない。そんな私は、観る前から退屈を覚悟してしていたし、実際に冒頭の「縛り首」の唄が始まって、その危惧が現実化したかのように思い始めた。
しかし、オスカー・アイザックの歌唱に惹き込まれ、結局は、「これぞ映画」と言える味わいに浸ることができた。本作を、たばことアメリカンコーヒーと伴に味わえたら、どれほど幸せだっただろうか。
知人の家のソファーを転々と泊まり歩く、宿無しの売れないフォークシンガーは、かつてデュオを組んだ相方がなぜか橋から身を投げてしまって、主人公は彼を忘れることができない。
そんな主人公の置かれた状況は、冷静に見れば深刻な状況なのだけれども、そこはコーエン兄弟の映画である。
映画は、ライブハウスの出演を終えた主人公が、外で待つ男に殴られるというシークエンスで始まる。それをもう一度繰り返して、今度は何故殴られなければならなかったのかという謎解きまで含めて見せたところで映画が終わる。
しかし、この謎解きよりも印象的なのが、カウチを宿に借りた大学教授の家を出るときに、その家の飼い猫を逃がしてしまうか、寸でのところで取り押さえることができるかという、微妙に異なる二つのシークエンスの対比である。
冒頭では、猫を逃がしてしまうが、終盤では逃げようとする猫を足でブロックして、同じ誤りを繰り返さない主人公のささやかな進歩を見せている。
これは、川島雄三の「洲崎パラダイス 赤信号」の最初と最後の勝鬨橋のロケのシーンと同じ構造と効果を持っている。腐れ縁の新珠三千代と三橋達也のどちらが先にバスに乗るかの違いだけなのだが、これが、二人のほんのわずかながらも確実に起きた変化の象徴として描かれている。
金も仕事もない主人公が、同じことの繰り返しの暮らしの中からほんの少しの進歩を得る。人生の哀歓を浮き立たせることに成功した二本の映画が自分の中で出会った。感涙に耐えない映画体験である。
何故だか、もう一度見たくなる映画
コーエン兄弟の作品って、見終わった後に、何故だか無性にもう一度見たくなる作品が多い気がする。個人的には、トゥルーグリットやバーバーがそうだった。終わり方が印象的だったり、細かな伏線が張り巡らされているので、また見て確認したくなるからかな?
本作は、オープニングシーンとラストシーンの使われ方が印象的だが、ラストシーンはオープニングとは違った仕掛けが用意されており、後味がとても味わい深い。
うん、いい映画だ!
かつてそこには音楽があった
音楽好きのコーエン兄弟監督作。61年のニューヨークのフォークシーンに生きる男の数奇な1週間の物語。冒頭のオスカー・アイザックが歌う“Hang on hang me”これだけで引き込まれる。失望と孤独を抱えた男の魂がそこにあるのだ。悪魔に魅入られ可笑しくも奇妙な運命に従い歌詞同様世界を渡り歩いた男。
コーエン兄弟の映画ということもあって聖書ネタと音楽が組み込まれている。終わりのない物語に見せかけているが、変わらないと思った世界が少しずつ、しかし確実に変わっていく。
猫の名前はユリシーズであり、オデッセイを体現する男の物語なのだが、ルーウィン・デイビスという男の魅力で喜劇に見える。圧倒的に作り込まれたかつてのニューヨーク、落ち着いたトーンの画作りはコーエン兄弟らしい。音楽は生録音という手法で緊張感がありサントラだとそれがよく分かる。冒頭のシーンがラストにかかってくる円環構造になっており何度も見返すと新たな発見があって飽きない作品だ。
変わらないと思った世界、ぐるぐると回り続ける物語にラスト、音楽史上において最も重要な人物の1人がステージへと上がる。微かに聞こえる彼の音楽と対象的にルーウィン・デイビスは路地裏へと向かう。誰も知らない所でギターの音色と共にルーウィン・デイビスの魂は忘れ去られていく。この映画を見た人は知っているはずだ。ルーウィン・デイビスという男と彼の奏でた音楽を。
猫とダメ人間は相性が良い。
猫の使い方がとにかくうまい。全篇を彩る歌がいい。オスカー・アイザックが歌うシーンは、ちゃんと本人のパフォーマンスだというから畏れ入る。猫を抱えて右往左往する姿も愛おしい。ぼうっと眺めているだけで大人な佳品といった趣がある。それだけでも十分に楽しめる。こういう映画にあたると嬉しくなる。
さて、これがネタバレにあたるのかどうかよく判らないのだけれど、最後に明かされる猫の名前はユリシーズという。つまり、ギリシャ神話『オデュッセイア』との関連を示唆しているんだろう。いわずと知れた20世紀文学の金字塔、ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』と同じ趣向というわけである。
学生時代、手に取りながらちゃんと読み通せなかったぼくに、この絵解きは荷が重い。というわけで、以下はざっくりとしたイメージだけ書き留めておく。ベースとしては、『オデュッセイア』をたった1日の出来事に圧縮したジョイスに対して、コーエン兄弟は売れないフォークシンガーと猫の1週間ほどの漂流に置き換えている。
まず、主人公ルーウィン・デイヴィスとはぐれながら、ラストではいつの間にか我が家に帰り着いている猫をその名の通りオデュッセウスとするなら、ルーウィンはテレマコスということになるだろうか。ジョイスが作家志望として描いたスティーブンとも印象は重なる。とはいえ、猫の漂流そのものは描かれないから、オデュッセウスの苦難の旅に対応するのは、やはりルーウィンが大物音楽プロデューサーに会いに行くあの奇妙な道行きだろう。同道するジョン・グッドマンの怪演もまた見ものである。
ルーウィンがオデュッセウスであるなら、ペネロペはルーウィンの子を身ごもる歌手仲間のジーンということになる。もう散々いわれていることだろうけど、ジーンがルーウィンに対して繰り出す口汚い罵倒の連続は、この映画のもっとも魅力的なシーンのひとつだ。これでジーンを演じた女優の虜になったという人も少なくないはずだ。そして再びジョイスを引き合いに出すなら、この役を演じたのがキャリー・“マリガン”なのは、はたして偶然だろうか。
才能を認められながら、売れるために信念を曲げることを拒否して旅から帰ってきたルーウィンは認知症の老父を見舞う。このあたりもイタケーで再会するテレマコスとオデュッセイアに置き換えられるのかもしれない。父が元々海の男だったという設定にも何か含意があるのだろうか。そして、歌を捨てて父と同じ漁師になることにも失敗したルーウィンを、再びステージに立たせてくれるのはジーンである。
ラストで物語は冒頭とつながって奇妙な円環を結ぶ。けれども、まったく同じシーンというわけではない。ルーウィンが降りたステージに立っていたのは…。とまあ、色々な遊びや含意が仕込まれているようで、観ていてまったく飽きない。文学や音楽の素養があれば、もっと楽しめるに違いないんだけど、こればっかりは勉強してこなかった自分を恨むしかない。またいつか観直そう。
ティンバーレイク
コーエン兄弟。ジャスティンティンバーレイクが出てることに全く気づかず。あとから、あーあいつかと分かったのだけれど、ティンバーレイクおそるべし。実は今最も充実したフィルモグラフィーを持つ俳優だったりするんじゃないかしらん。
にゃーん
猫好きが見ると楽しめると言う宣伝文句をあるが
まま信じると、とんでもないショックを受ける。
(まさにアクシデントのように!)
本当に何をやってもちっともいい方向に転がらない。
世間が悪いのか、それとも彼の生き方が悪いのか。
舞台は60年代のアメリカ、日の目を見ないシンガー
ソングライターの男は毎日知り合いに寝床を借りて
生活していた。レコード会社に所属しているが、
売れる様子は一向に無い。寒い冬に羽織るものも無く、
しかしコートは不要だと強がる。
夜な夜なパブでフォークを弾き語り、友人の彼女を
寝取り孕ませ、寝床の世話になっている大学教授の
友人に暴言を吐く。
彼の生き方は猫そのものだ。
猫のように自由気ままに、ドアが開けば外に飛び出し、
寒くなれば温かい家に転がり込み、時には別人に
間違われ、最期は車に撥ねられる。
ルーウィン・デイビスの中には、ちっちゃいプライド
がたくさん詰まっていて、時にそれは気まぐれに
奮い立たせ、時にそれはきまぐれに周りに爪を起て、
時にそれはきまぐれに友人の死を悼む。
(100万回くらい!!)
ただ、彼は猫じゃない。
もし彼が猫だったなら、世の中をこんなに生き難く
過ごすことなく、自由きままに歌を歌い続けていた
事だろう。
にゃん、にゃん、にゃーん。
コーエン兄弟は手厳しい、巧い、そして意地悪。でも好き(ハート)
私は、人が不幸になる瞬間を知ってる。
それは、夢を見始めた時だ。
夢に届かない自分自身を、嘆き悲しむ。
まるで、スペインの祭りのよう。
全速力で走ってくる牛の頭を、途中でスパンと斬り落とす。
斬り落とされた牛は、そのまま数十メートル走ってから倒れる。
みんな頭なんかないのに、まるであるように走っている。
あのね、頭はもうないんだよ。
なんて手厳しい作品!
鳩尾が痛くなりました。
絶妙のタイミングでドアから逃げ出す猫。
絶妙のタイミングで窓から逃げ出す猫。
絶妙のタイミングで見つかる猫。
絶妙のタイミングで間違われる猫。
絶妙のタイミングで車のシートで見送る猫。
絶妙のタイミングで道路を横切る猫。
絶妙のタイミングで腹の上に乗る猫。
あれ?これって猫が主役だっけ?
いや違う。
可愛い顔して罵り言葉を吐くキャリーマリガンの、絶妙のタイミングで発せられる「Fu○k you」がある。
主人公はこの猫でもあり、猫は主人公の人生を表している。きっと。
ルーウィン(オスカー・アイザック)は、自分の歌しか唄わない。
他人の歌にはヤジを飛ばす。
曲に対する妙な拘り、口先三寸、掴み所のないダメ男、でも歌は上手い。
だがしかし、逃し続けるタイミング。
頭はあるのか?
ないのか?
「何様だよ」
ラスト、黒い後姿の男が発する言葉が、この主人公を代表する「ワナビ」的な人達に投げつけられたような気がした。
家康さんが言ってた。
人生に大事な事を5文字で言えば「上を見るな」
7文字で言えば「身のほどを知れ」
コーエン兄弟は手厳しい、巧い、そして意地悪。でも、好き(はーと)
観終わった後、思わず首筋を撫でる。
私の頭は、まだあるのか?
面白かった
中絶の問題が描かれていて、その後どうなったのか分からないのだが、産んで欲しいと切に願った。2歳になる子供もいるようで会いに行ってあげてほしかった。
歌詞の内容がいかにも売れなさそうで、その道を進むことの尊さは感じるものの、それが自己満足と違うのか、売れない漫画家として他人事ではなかった。それに宿無しで暮らしている割に他者に対する態度がいかがなものかと思った。
施設にいるお父さんに聞かせるニシンの歌がよかった。
長い長い人生という旅
音楽がとても良い。さすがでした。オーブラザーと同じくらい良い。当たり前か。
当時の音楽的な背景や、NYの空気感は知らないけれど、自分も経験したかのように感じられた。
才能があっても時代の波に乗れず、音楽だけでは食っていけない。日銭欲しさに後の印税を手にできない、ボブ・ディランになれなかった男。行く先々でもプライドか邪魔し、運にも見放されるなにも掴めなかった一週間。
名脇役の猫の名前がユリシーズと知って、ハッと気づく。そうか、人生とは長い長い旅なのだと。(私はユリシーズもオデュッセイアも未読ですが)
ここから世界を大きく変えていくボブ・ディランの影でルーウィンの旅路の果ては?
冒頭とラストで同じ歌を歌い、スーツの男に殴られる、結局変わらない一週間の繰り返しなのか?
いや、ルーウィンは長い旅路の果てに帰還するであろう。音楽というオデュッセイアのごとく。
全63件中、21~40件目を表示