「メリーゴーランドに乗って」インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
メリーゴーランドに乗って
音楽は魔法じゃない。
わかってる。
とすればなんだ?
たぶん「呪い」。
何をしていてもしていなくても否応なしに付き纏い続ける「呪い」。そういう人を私は何人も見てきたし、またこれから先も幾度となく見ることになると思う。
音楽に泣き、音楽に笑い、音楽に救われ、音楽に見捨てられる。都度によって感情は変化しても、彼らの絶対的な主語が常に「音楽」であることだけは変わらない。
だからはたから見れば「呪い」にかけられた人々は同じところをグルグルと回り続けているように見える。まるでメリーゴーランドだ。未来永劫どこにも辿り着けない。なのにそれに乗り込んだ人々は、自分たちがどこへでも行けるのだと頑なに信じている。バカじゃないのか、と思う。舐めてんじゃねえぞ、とも。
本作もまた音楽というメリーゴーランドに乗り込んだ男の悲哀を描き出している。しかもアメリカン・ドリーム的なご都合主義がメリーゴーランドを本物の馬車に変えてくれることもない。
物語は男が場末のライブハウスの外でスーツ姿の男に殴られるシーンから始まり、同一シーンの再奏で終わる。完全な円環だ。メリーゴーランド的円環。
しかし本当に何も変わらなかったのだろうか?
物語の序盤に、男が家から猫を逃がしてしまうシーンがある。終盤にもほとんど同じシーンが繰り返されるのだが、今度は猫の逃亡を足で食い止める。とても印象的なシーンだ。
メリーゴーランドは依然としてどこへも辿り着かなかったが、それに乗っていた男の内面に何らかの変容が兆したことは、たぶん、確かだと思う。
音楽という「呪い」に縛り付けられた男は、その円環的な反復を経験するうちに、ほんの少しずつではあるが、自分だけの人生の軸を見出しつつあるのではないか。
先週猫を逃してしまったことと、今週は逃さなかったことと。この対照性はまさに男の内面(inside)的成長を意味しているように私は思う。
苦しい映画ではあったが、私は真っ黒なエンドロールの向こう側にささやかな光芒を幻視していた。