「川島雄三を思い起こさせる」インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
川島雄三を思い起こさせる
(3000文字まで:改行も1文字と計算)
※キネマ旬報本誌の読者評に投稿する場合は800字前後でお書きください フォークソングに興味なし。むしろあまり好きではない。そんな私は、観る前から退屈を覚悟してしていたし、実際に冒頭の「縛り首」の唄が始まって、その危惧が現実化したかのように思い始めた。
しかし、オスカー・アイザックの歌唱に惹き込まれ、結局は、「これぞ映画」と言える味わいに浸ることができた。本作を、たばことアメリカンコーヒーと伴に味わえたら、どれほど幸せだっただろうか。
知人の家のソファーを転々と泊まり歩く、宿無しの売れないフォークシンガーは、かつてデュオを組んだ相方がなぜか橋から身を投げてしまって、主人公は彼を忘れることができない。
そんな主人公の置かれた状況は、冷静に見れば深刻な状況なのだけれども、そこはコーエン兄弟の映画である。
映画は、ライブハウスの出演を終えた主人公が、外で待つ男に殴られるというシークエンスで始まる。それをもう一度繰り返して、今度は何故殴られなければならなかったのかという謎解きまで含めて見せたところで映画が終わる。
しかし、この謎解きよりも印象的なのが、カウチを宿に借りた大学教授の家を出るときに、その家の飼い猫を逃がしてしまうか、寸でのところで取り押さえることができるかという、微妙に異なる二つのシークエンスの対比である。
冒頭では、猫を逃がしてしまうが、終盤では逃げようとする猫を足でブロックして、同じ誤りを繰り返さない主人公のささやかな進歩を見せている。
これは、川島雄三の「洲崎パラダイス 赤信号」の最初と最後の勝鬨橋のロケのシーンと同じ構造と効果を持っている。腐れ縁の新珠三千代と三橋達也のどちらが先にバスに乗るかの違いだけなのだが、これが、二人のほんのわずかながらも確実に起きた変化の象徴として描かれている。
金も仕事もない主人公が、同じことの繰り返しの暮らしの中からほんの少しの進歩を得る。人生の哀歓を浮き立たせることに成功した二本の映画が自分の中で出会った。感涙に耐えない映画体験である。
>本作を、たばことアメリカンコーヒーと伴に味わえたら、どれほど幸せだっただろうか。
そのシチュエーション最高ですね。
>川島雄三の「洲崎パラダイス 赤信号」
観てみます。
素晴らしいレビュー。至極、腹落ちしました。
ありがとうございました。