インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 : 映画評論・批評
2014年5月20日更新
2014年5月30日よりTOHOシネマズシャンテほかにてロードショー
60年代フォークシンガーの通俗を、特別なものへと変容させる猫の映画
ボブ・ディランにも影響を与えたデイブ・バン・ロンクをモデルにした物語、ということだが、実はこのふたり、ディランのレコーディングを巡って気まずい関係にもなっていて、そのことを知っているとラストシーンのディランらしき人物のシルエットと歌に、思わずニヤリとしてしまう。でもそんな小ネタなどどうでもいい人間世界の話。これは、あたかもルーウィン・デイヴィスという人物を主人公にしているふうを装いながら、実は猫の映画なのである。
宣伝用のメインビジュアルを見れば、分かってもらえるかもしれない。街を歩く主人公が抱えている猫。しかしもちろん猫を巡る物語ではまったくないし、猫がこの物語に大きな役割を果たすわけでもない。それでも猫の映画だと思わざるを得ないのは、ふと映り込む風景や聴こえてくる周囲の音が、とても人間の目や耳が知覚したものとは思えない一瞬があるからだ。
もちろん物語はそれとは関係なく進む。60年代初頭のニューヨークに暮らす売れないフォークシンガーは、憎まれ者でもあり、愛すべきピュアな心の持ち主でもある。いかにもありがちと言えばありがち、誰もがいつかどこかで観たり聴いたりしたことのある物語のようにも思える。ピュアな心を抱える故に現実世界とは折り合いが悪く何をやってもうまくいかないが、彼が作り出す作品は一瞬で人の心をとらえる。こうやって書いてしまうと何だか恥ずかしくもなる。そんな時にふと猫が、画面をよぎるのである。
実際によぎる時もあるし、猫が聴いたとしか思えない、エフェクトをかけられた音がスクリーンを高速で飛び交う時もある。あまりに通俗で当たり前な風景と人物設定が、その時一瞬、反転する。いや、猫によって引っ掻き傷を付けられると言ったらいいか。その傷によって、「通俗」や「当たり前」が特別なものへと変容するのだ。そんな、現実につけられる傷のことを「音楽」と呼ぶのだと、この映画は語る。その傷によって世界の見え方や聴こえ方が一気に変わる、そんな傷。映画を観ることもまた、見ることによって傷つけられることではないかと思う。
(樋口泰人)