映画クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃんのレビュー・感想・評価
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武井咲さんが役に合っていました。
映画公開日に、見に行きました。武井咲さんが声優を務めた「段々原照代」刑事が、武井さんと合っていました!
話の後半に出てきた、巨大なロボット役のコロッケさんが、少しくどかった事が少々残念…。
最後の場面は、感動しました!
クレしん映画の中で1番
これは小学2年生くらいの時にみましたが、その時はあんまり面白さを求めず、適当にみて、しんちゃんが観られればそれでいいみたいに思っていたのですが、成長してから観ても、十分楽しめるんですねー。
特にラストの腕相撲対決なんか悲しすぎて観てられたかったし、その後のロボとーちゃんの、
「すまんな、しんのすけ。オレはおまえのとーちゃんじゃなかったみたいだ。」
「おまえは"いいこ"だ・・・でっかくなれよぉ。」
っていうセリフでとどめを刺されて涙腺崩壊。
また、ロボとーちゃんにも人間のとーちゃんも記憶は全く同じで、自分が急にロボットになって本当の父親じゃなくなったなんで受け入れららないに決まっているのが故にこのセリフはつらい。
しんちゃん映画の中で名作に残る1本だと思うし、私はまだ学生ですが、ぜひ大人の方々にも観てもらって楽しんでもらいたい1作です。
父親の姿
父親の権威を取り戻すため敵組織がひろしをロボに変えて人々を先導する。
実はロボとーちゃんはロボットに記憶をコピーしたものだった。パロディ多め
コピーとオリジナルの倫理感が問われる。
話のテンポとキャラデザが良い!!
画作りの参考になるかと思い、某ウェブライターさんがオススメしていた作品である「暗黒タマタマ」「踊れアミーゴ」と続けて3作観たのですが、今のところ本作(ロボとーちゃん)が1番個人的に好みで、2回観て2回泣いてしまったのでレビューをしたためております。
第一の感想としてはタイトル通りですが「(映画オリジナルの)キャラクターデザインが良いな」と思いました。ガンマのナード感や蘭々の妖艶さ、そしてなんと言っても黒岩(cv遊佐浩二)の残念な悪役ぶり! 元から好きな声優さんだったのですが、出演されているとは露知らず非常に嬉しかったです(笑)
最後の五木ひろしのくだりにあまり必要性を感じられませんでしたが、企画に元から組み込まれていたような雰囲気を感じたのでまぁ仕方ないかな…と。
全体に振られているネタの割合や質、テンポは良く、劇画タッチになるシーンのチョイスもナイスでした。
クライマックスシーン含めてまぁまぁ予想のつく展開ではあるので、斜に構えて見ると肩透かしを食らうかもしれないため、何も考えずに童心に返ったような気持ちで観るのが良いのかもしれません。
個人的にはまぁまぁ
しんのすけが父ちゃんに乗ったことによって腰が破壊されるひろし。
その腰を治そうと街に出ると、巨乳の姉ちゃんがエステ店に勧誘する。そこでひろしは眠らされて、コピーロボットを作られてしまう。
ひろしのデータをコピーしたロボットが野原家にやってくる。当然みんな驚くも、ロボットになった事によって、家事など今までよりも上手くいく。
ロボ父ちゃんがしんのすけ、風間君などを助けてみさえに抱きしめられるシーンはほろりとくる。
そんなロボ父ちゃんだが、悪い奴らの計画では、腑抜けになっている父親たちに昔の親父の威厳を取り戻そうとする「ちちゆれ(父親が勇気をもって立ち上がる)」会をつくることを目的としていた。
ロボ父ちゃんも髭によって洗脳され、悪いロボットになってしまう。
その髭はしんのすけが風間君たちと協力して取り戻す。
ロボ父ちゃんは再びもどるも、敵に破壊される。
しんのすけがロボ父ちゃんを助けるために敵のアジトに侵入したところ、元のひろしを見つける。
そこからひろしとロボ父ちゃんが一緒になり敵の親玉を倒す。
最後にロボ父ちゃんがさよならするシーンも寂しいね。
私は、クレしん映画の中で上位に入るくらい好き(27歳
しんちゃんが、ピーマンを食べたところで泣いた。
なんで、泣いたか不思議がる人も 多いかもだけど。
子供(5才)が、自分の苦手なもの、普段絶対食べないものを 食べるって とても凄いことだと思いません?
大人なら、大人の考え方が構築されてるので
苦手なものを無理して食べれるかもしれないし 食べないという選択肢も選ぶこともできる。
でも、5才児が自分で考えて 絶対嫌なものを食べる。
これって、成長と思いません?
私は その成長に涙しました。
しんちゃんの前では、父ちゃんもロボとーちゃんも違いがありません。
ロボとーちゃんを助けたい一心で、5歳児はピーマンを食べたのです。
第2に、最後の腕相撲で泣きました。
ここも人によっては 展開がベタベタで胃もたれする人もいたかもしれません。
では、私がどこでなぜ泣いたのか。
それは、ロボとーちゃんの死です。
ロボとーちゃんは たとえロボでも、
そこに記憶があり 感情があり、愛がありました。
たとえ、コピーされた偽物の記憶だとしても、
ロボとーちゃんは 自分の記憶が本物と信じて疑わなかったはずです。
それ故に、あそこでロボとーちゃんが死ぬということは
何を意味するのか、それは、
「もう、しんのすけの成長、ひまわりの将来を見れないこと」にあります。
親は何より 子供の成長が楽しみなものです。
ヒロシなら 普段の家族思いなところを見ると
尚更でしょう。
単なるロボットの死と見れば、なんとも思わないかもしれませんが、
実の父親の死と見れば どうでしょうか?
家庭環境は人それぞれなので、自分に当てはめると何万通りの解釈ができるかもしれませんが、
私は 実の父親が 死ぬなんて悲しすぎますし、
実子が まだ小さいのに自分が死ぬのも悲しすぎます。
そう考えると涙がとまりませんでした。
「テセウスの船」「スワンプマン」のクレしん的解釈
「オトナ帝国」「戦国大合戦」に次ぐ感動映画として、しばしば名前が挙げられる今作。
クレしん映画は「大人が観ても楽しめる子供向けアニメ映画」として映画マニアの中でも有名で、中でも名作と名高い「オトナ帝国の逆襲」は、「子供の付き添いで一緒に映画を観ていたお父さんが全員泣いていた」なんてことを、評論家の岡田斗司夫さんもおっしゃっていました。
今作も「家庭内で肩身の狭い父親」がフィーチャーされたり家族のあるべき姿について言及した大人向けの側面と、とことん振り切ったおバカなコメディという子供向けの側面を併せ持った映画だったと感じます。
あと、声優オタクである私としては今は亡き藤原啓治さんの演じる野原ひろしとクレヨンしんちゃんから退いた矢島晶子さん演じるしんのすけの声を聴けるだけでも普通に泣きそうになります。
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野原ひろし(藤原啓治)としんのすけ(矢島晶子)の二人が映画を観た帰り、ひろしはしんのすけを肩車した拍子にぎっくり腰になってしまった。身動きができない状態では家庭内での居心地が悪く、病院に行くと言ってひろしは家から出た。目当てだった整骨院が定休日だったので帰ろうとすると、道端でセクシーな女性が新しく開店したメンズエステの呼び込みをしており、「無料で施術できる」「腰痛も治る」ということでひろしはそのメンズエステ店で施術を受けることになった。施術が終わると、ひろしはロボットに改造されていたのだった。
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あらすじだけ見ると実に荒唐無稽です。多分他のアニメでこんな荒唐無稽な設定があると「なんでやねん」と突っ込みたくなりますが、この映画はこれまでもかなり荒唐無稽な映画が作られてきた「クレヨンしんちゃん映画」なのです。観客の中にはこの程度では違和感を感じないくらいの下地ができあがっています。
この映画の中で描かれている家族愛の素晴らしさについては多くのレビュアーさんがおっしゃっていますので、私はこの映画で描かれている「本物と偽物論」について語りたい。
「テセウスの船」という話をご存知でしょうか。
古代ギリシャのテセウスという人物が、自分が所有する船の古くなったり損傷した部分を新しい部品に交換した。何度も交換しているうちに船の部品は全て新しい部品に置き換えられた。最初の部品が1つも残ってないテセウスの船は、元の船と同一のものと呼べるのだろうか。というパラドックス問題。
今作「ロボとーちゃん」でも作中で「人格や記憶だけが残った全身機械のひろしは元のひろしと同一か」という疑問が投げかけられる場面が何度かあります。ロボットとなったひろしに対して「カッコいい」と肯定的なしんのすけとは対照的に、みさえはロボットのひろしを受け入れられず、家の中に入れずに外で生活させていました。
そして後半には本物のひろしが登場し、「実はロボトーちゃんはひろしの記憶をコピーしただけの偽物だった」と判明します。ここからは「テセウスの船」というより「スワンプマン」が近いかもしれませんが、二人のひろしが「自分こそ本物のひろしだ」と言い争いを繰り広げます。ロボとーちゃんが周りの人に受け入れられ始めたタイミングで本物のひろしが登場するのはニクい演出ですね。
RADWIMPSも「僕の何が残ってれば僕なのだろう」と歌っていますし、西尾維新の物語シリーズでは「本物と偽物、どちらが良いか」という議論が交わされるシーンがありますし、「怪物王女」という漫画では同一の記憶を保持した王女が現れ、「どちらが本物か」と議論するという回が登場します。
何を以て「本物」と解釈するのか、何を以て「偽物」と判断するのか。
この問題は古代から散々議論されている答えの無い問題ですが、今作「ロボとーちゃん」では「クレしんとしての解答」をきちんと提示していたところは非常に良かったと思いますし、その解答がラストシーンの感動に繋がっているので、それもまた素晴らしいと思いました。
しかしながら、映画内で終始「おバカギャグ」が多用されるのは私の好みから外れていました。真面目なシーンでもギャグが挟み込まれたりして、そこがどうしても気になってしまったのです。
例えば、同じくロボットバトルがラストシーンにあるクレヨンしんちゃんの「温泉わくわく大決戦」では敵の操る戦闘ロボットと白熱したバトルが繰り広げられ非常に見応えがありますが、今作ではロボットバトル中にちょいちょいギャグが挟み込まれていたりして非常にテンポが悪く、私は白けてしまいました。小学生くらいの子供だったら畳み掛けるようなおバカギャグに大爆笑だったのかもしれませんが、大人が一人で観ているのは正直キツイですね。
クレヨンしんちゃん特有のおバカギャグ映画だと分かっていたら面白い作品だったと思います。しかし私は「オトナ帝国」「戦国大合戦」のような感動作品だという事前情報のせいで、イマイチおバカギャグに乗れませんでした。非常に残念です。でも面白かったです。
オッさんだからこそ理解できる哀愁が胸を締め付ける…
国民的アニメ『クレヨンしんちゃん』の劇場版第22作。
突然ロボットへと改造されてしまったひろし。その裏には「父ゆれ同盟」という謎の組織の陰謀があった。
ロボとーちゃんとしんのすけが、「父ゆれ同盟」の思惑を挫くため立ち向かう。
久しぶりに「クレヨンしんちゃん」の劇場版を鑑賞しようと思い、評価の高い本作を観てみることにしました。
子供でもわかりやすいギャグと、オトナじゃないと理解できないんじゃないかというユーモアが入り混じる、とてもカオスなアニメ。
現代の哀しい父親像を描き出した後、父ひろしがロボットになってしまうという超展開から物語が展開していく。
前半から『クレヨンしんちゃん』らしいギャグが続き、良くも悪くもファミリー向け映画かなという印象だったが、後半になりロボひろしの正体が明らかになってからは、映画のカラーがぐっと変わる。
本物の父ひろしと、実は記憶をコピーされただけの人形だったロボひろし。
自らを本物だと言い張るロボひろしの哀愁に胸が痛みます。
ギャグパートはお馴染みのクレしんギャグといった具合でしたが、黒幕との最終決戦のバカバカしさはすごい!もはやギャグというより前衛芸術のようなわけのわからなさ。この為にコロッケが声優として参加していたのか…
この辺りは鬼才湯浅政明の仕業のようですね。やはりセンスが頭ひとつ抜けているというかなんというか…
ラストシーンのひろしVSロボひろしの腕相撲は涙無くしては見れない名シーン。
子を持つ父親ほど、このシーンは胸を締め付けられるのではないでしょうか?
前半に描かれている、しんのすけとロボひろしの腕相撲のシーンが伏線として機能しており、より感動を引き立てています。
クライマックスのコロッケロボと、ひろしVSロボひろしの場面があることで、全体としての映画のクオリティがググッと引き上げられていると思いました。
逆にいえば、ラストシーンまでは正直あまり盛り上がらないかなという印象。
しかし、子供であればしっかり笑える場面も多く、大人でも感動できる場面があるので、クレしん映画としては良い出来だと思います。
ただ、武井咲を声優として起用する為だけに作られた段々原というキャラはいらなかったかな…
普通にSFだった!!
中島かずき脚本でテンポが良いです。機械の体に変えられて元には戻れないと、悲痛な気持ちを感じつつ活躍を観ていると、後半コピーだったと分かり偽物呼ばわりされます。自分の記憶と意思を持ったコピーは自分と呼べるのだろうかという小林泰三的なテーマを孕んでいます。また、コピーは最後まで愛情いっぱいな人物として描かれますが、ひろし本人はコピーに対して紛れもなく自分自身なのに少しの愛着もなく、最後まで労りや同情もなく冷たすぎるので、とても辛いです。胸くそ悪さを観客に投げ掛けて終わります。序盤の劇中ロボットアニメは特に解決への伏線にはなってないと思うので、少し長く感じました。「父ゆれ同盟」のポーズはオッサンが集団でやっても仕方なくて笑えました。
おもしろかった
冒頭のドリルネタに始まり、ボーちゃんのH2Oとかいっぱい笑って楽しかった。
クライマックスのものまねは、くだらなくておもしろいけど、少し長く感じ、だるかった。
メタファーのピーマンのくだりは笑いながら感動した。
しんちゃん好きなのを再確認。
対象、全国民。
いやあなんとゆーか、
中島かずきはエラいねえ。
なにがエラいかって、
誰が見ても楽しめる内容になってるところ。
それでいて、自分のやりたいこともキッチリ盛り込んでて
プロの仕事だねえって感じ。
この「誰が見ても」ってのがネックなんだわ
もちろん普段のしんちゃんのファンも、映画のファンも
お父さんもお母さんも、子供も、すべての人が、それぞれの立場で
見所を用意してある。
それでいて、ギリギリのところで散漫にならないでいる。
これって、すごいことだと思うンだよねえ。。
前日に見た「アナ雪」はやっぱり女性向けになってて、
男性には、視点の置き場が限定されちゃってた。
一箇所だけでもいいんだよね、そう、「バカ」のたった一言だけでも。
その一言で、すべてひっくるめちゃう。名言。
ひろしの最期
私は子供の頃から現在まで
一人の男を人生の教科書にしている。
それは野原ひろしだ。
絶対見ることができないであろう
彼の死に際の行動を
ロボットを通して見せてくれたこの映画。
2004年の「カスカベボーイズ」以降
クレしん映画から遠ざかっていたが
10年ぶりに映画館に観に行き号泣した。
ギャグのセンス、脚本のキレ
押し付けがましくない家族愛
全てがあのころのクレしんに戻ったようで
本当に素晴らしかった。
そういう経緯もあり★は「戦国アッパレ!」を
超えて5つ満点!
またこの監督、スタッフでの映画が観たい。。
野原家の家族愛は不滅!
劇場版しんちゃんは家族愛と友情をテーマとした作品が多く、今回もそのコンセプトだ。
いつもながら、あのゆるいキャラクターの性質を変えることなく、スケールの大きな物語をよく構築するものだと感心する。
父権の復活を目論む悪の組織と野原一家の戦いを描いた本作だが、幼児仲間や一家の活躍はやや抑え、ロボとーちゃんが大立回りを一手に引き受けている。
父権争いはヒロシとロボとーちゃんの間でも繰り広げられるという二重構造だが、ヒロシが父親の責任をいかにして果たすかというのは本シリーズの一貫したテーマだ。
今回は全体的にこじんまりした感はあったが、そつなくまとめ上がっている。
さすがしんちゃん!!!!
正直、予告では泣かせに来てる感じがして少し白けていたのですが、やはりさすがしんちゃんです。
笑わせて、泣かせて、泣いてる途中で笑わせて、ギャグのテンポが良いので全く飽きがきません!!!
このあとはどうなっちゃうのかな、、、と、子どものように楽しませていただきました。
ただ、ひろしへの燃料補給のくだりは、、、アウトかな、と思いました。
クレヨンしんちゃんの下ネタは、爽やかなのが特徴なので、今回は生々しくて、少し不快に感じました。
また、コロッケのネタを無理やり入れた感が強く、このシーンはいらないんじゃないかなー、と少しだけ冷めてしまいました。
まあ、場内ではウケていたので、個々によりますね。
感動するシーンはたくさんあります。
この作品は、本当に子どもではまだまだ深くまで理解することが出来ない作品だと感じました。
ひろしを助けるだけだと思っていたので、、、登場人物の心情を考えると、とても辛い状況でしたね。
それぞれの視点で考えると、涙を抑えるのが大変でした。
この作品は、クレヨンしんちゃんのシリーズでも、かなり良作品だと感じました。
また観たいと思わせる作品です。
どうしても大人帝国と比べてしまう
大人帝国と比べると、話が薄っぺらい。
しかも登場してる市民見てると
父親の威厳よりも
公園を選挙してるキチガイ親子を
なんとかしろよと思ってしまう。
でも、ひろしが子供達を助けて
みさえがロボひろしを受け入れる
シーンは感動した。
ちちゆれの目的もよくわからん
安っぽい理由なのはガッカリ。
素晴らしかった
『あっぱれ大人計画』以来の傑作との評判で勇んで見に行ったら、それほどの傑作とは思えなかった。話はモチーフのつぎはぎのようで、座りが悪く、とってつけたような無理のある展開だった。
父親の復権を目指すという目的と方法がかい離している感じが強くて、飲み込みづらかった。
お父さんがロボットになって、そのロボットがコピーであるとは露ほども思っていないところは切なくてよかった。そこをもっと掘り下げる物語が見たかった。
コミカルな動きやオヤジギャグは面白くて声を出して笑った。
ロボとうちゃんが、髭を着けて暴れ出して、しんちゃんがその髭を取るまでちょっとウトウトしてしまった。
(追記)
劇場で見て以来2回目、当時あんまり面白くなかったのに、今回はめちゃくちゃ面白くて同じものを見たのか疑問に思うほどだ。『ロッキー』ですらコンディションによってはまるで感動しない時もあるので、タイミングが悪かったのかもしれない。映画シリーズを順番に見て来たせいかもしれない。どんどん良くなっている感じがする。
人格をコピーされたロボとーちゃんと実在のとーちゃんが、二人とも内面は全く同じであることがSFとして面白い。二人が共存し続けている生活も見てみたい。ロボットとしての動きもとても面白いし、造形もかっこいい。
敵の警察署長もよかった。ロボ五木もふざけていて面白いし、巨大なお尻で戦うのもくだらなくていい。
クレヨンしんちゃんの映画としては…正直ガッカリ
周りの高評価などに期待して鑑賞してきたのですが、
評価としては映画としては☆4つですが、
クレヨンしんちゃんの映画としては☆3未満位でした。
その前に、ちょっと映画館であったことを
愚痴らせていただきたいので、興味が無い方は
====の線の部分まで飛ばしていただければ幸いです。
===================余談です======================
まず作品の前に少し愚痴なのですが、
作品が作品なだけに周りの親御さんの態度が
物凄く気になりました。
子供向け映画はよく行くので
お子さんが騒ぐのは仕方の無いことだと
その点は重々理解しています。
ですが子供が過剰に騒いだり、席で暴れているのを
「子供だから当たり前」っと言わんばかりに放置。
叱りもしなければ、ろくに諫めもしない。
挙句自宅のテレビで見ているような感覚で
子供と一緒になって喋ったり独り言を言う親御さんが
周りにいらっしゃって驚きました。
錦糸町の午前の回で見てきたのですが、
子供2人づれの女性の方は一度注意したら
それ以降親御さんが大声で喋るのも、
お子さんが騒ぐのを静めてくださったのですが、
隣の親子4人でいらっしゃっていたお父さんは、
まともに静かにさせようともせず、
「ごめんな」っと不服そうに謝って放置。
挙句自分達の座席の補助シートの片付けもせず、
足元には撒き散らかされたポップコーン。
仕方なく補助シート2つを回収して
スクリーンを出たところ、まだご家族が居たので
「これ片付けないと…」っと言ったところ、
お母さんは直ぐにシートを受け取られて
謝られたのですが、お父さんのほうは相変わらず
うるせぇなぁと言わんばかりの態度で
「ごめんなぁ」っと言って終り。
子供の躾の悪さって、やっぱり親の人格を
反映するんだなっと痛感させられました。
ただ男兄弟のご家族鑑賞だったのですが、
お母さんの側に座っていた弟さんは
終始静かに見ていたのに対して、
お父さん側に座っていたお兄ちゃんが
大騒ぎしていたところを見ると、
今回の映画のように「父親」が
「父親」の役割を果たしていない社会なのだな、
子供はよく見ているなっと思わされました。
ご家族での観賞会ですし、子供は騒ぐものです。
周りから文句を言われたら「子供向けの映画なのに」
っと自分達の楽しい時間を邪魔されて
不服に感じるのもわからなくはありません。
ですが、映画館は静かに映画を見る場所です。
騒いでいれば怒られるのも当たり前のことです。
そのことを親が教えないで、周りに怒られたら
仏頂面で自己正当化を図るのであれば、
お子さんはいつ社会のマナーを学ぶのでしょう?
ましてや静かなシーンで子供が騒いでいると、
「静かに見ないと駄目だとよ」っと親御さんが
静かに注意する声が聞こえてきたり、
周りの子達や親御さんは自分達で片付けている中です。
小さい子供を盾に自分達のやりたい放題を通そうとする
そういう親御さんには正直、心底不快感を感じました。
作品の中でも公園で子供を盾にやりたい放題している
馬鹿親が出てきますが、本当に作品で自分達が
揶揄されているのにも気づけないのだなぁっと
今の大人世代にすこしげんなりしました。
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さて作品の評価の方なのですが。
クレヨンしんちゃんの映画らしくコンセプトは
「家族の絆」これに今回は「父親」に焦点が当てられ、
現代社会で威厳を失った「父親」達に対して、
「父親」とは何かを、アニメ界の平均的な
現在家族の父親代表「ヒロシ」を使って、
表現していこうというのが今回の映画のメインだと
思われ、CMや広告等もこれを押し出してきていました。
クレヨンしんちゃんの作品で「大人」を描くというと
やはり「モーレツ大人帝国の逆襲」が一番に出てきます。
特に「父親」「家族」を描いているシーンと言うと
ヒロシの回想シーンとエレベーターでの
ヒロシの台詞が頭に浮かぶ方が多いと思います。
しかし今回の映画での「ヒロシ」と「ロボヒロシ」が
父親としてどうだったのか、そして作品自体が描く
「父親」とは「躾」とはなんだったのか。
っという点に焦点を当てると、個人的には今回の作品は
あの5分の映像に完敗しているように感じます。
ただこの脚本の方「ケツだけ爆弾」の時もそうですが
どうもクレヨンしんちゃんという作品よりも
製作側の意図や現実的な家族像を優先するため、
なんとなく野原一家の家族関係が希薄に描かれるんですよね…。
まず今回の作品の違和感に関してなのですが、
母親である「みさえ」が「しんのすけ」に対して
手を上げるシーンがほとんどありませんでした。
またいつもの作品に比べ無駄にヒステリックです。
これは製作側が意図的に現代は「母親が叱る」
それが故に父親が叱るという意味合いが
減ってきてるのを描きたかったのではないかと思います。
確かにクレヨンしんちゃんという作品において、
父親のヒロシが手をあげることは少ないです。
それが故にヒロシという「父親」は、
いつでもヘラヘラ笑っていて、子供に甘く
どこか頼りない父親にも見えます。
でも、それはあくまで彼ら家族の躾であって、
過剰に叱ったり容赦なく手を上げる
「みさえ」に対して、それを知っているからこそ、
「ヒロシ」は子供を慰めているのだし、
本当に叱らなければいけないときはきちんと叱ります。
それをいまさらになって「手をあげない母親」に
造り変えて「情けない父親」として描くのは、
正直、なんだかクレヨンしんちゃんという世界観を、
製作者の主義主張のために書き変えているような
そんな違和感を強く感じました。
また「ロボとーちゃん」の存在に関してもですが、
自分が「本物」だと必死に訴えて居たりしますが、
なんというかここにも酷く違和感を感じました。
今までの作品の中でこういう異常事態が発生した時に、
野原一家ってこんなに「普通」を気にする家族でした?
普段の野原一家なら意外と早めに順応した気がします。
もちろん「夫」が万能ロボットになって帰ってきても
喜ぶのは子供だけで妻は恐ろしく複雑ですし、
大人であれば余計に簡単には受け入れられない
不気味なものでしょう。その辺りはみさえの表情の
作り込みや言動が本当に繊細に描かれていて、
関心したのですが。
やっぱりこれもクレヨンしんちゃん?っという
印象が物凄く強く残りました…。
また全体的にロボとーちゃんが本人とは違う
「偽物」であるというのを製作側が意識し過ぎているのが
物凄く感じられる表現が多々ありました。
確かに行動はヒロシらしいと言えばヒロシらしいのですが
どこか偽物前提のヒロシらしさが物凄く感じられるのです。
いつも私財の破損等を気にするヒロシが車の屋根外します?
子供と遠足に行きたいっと騒いだこともないでしょう。
無駄に短時間に「父親」らしくしようとしているのが、
偽物臭さを感じさせられて、どうも受け入れづらかったです。
また今回は「ロボとーちゃん」をヒロシらしく
っという製作側の意図が強すぎて、
本物の「ヒロシ」のほうが、全く「ヒロシ」らしくも
「父親」らしくもないのが印象的でした。
いつもは映画では家族の危機になれば
自分の命を顧みず我武者羅に飛び込むのが
親である「みさえ」と「ひろし」ですが。
今回は自分が囮になる!っと言っておきながら、
何故かしんのすけを抱えたまま敵を呼んだり、
ただ単に自分が「本物」だと証明することに
意固地になり、「家族」を全く見ようともしない
そのヒロシの父親象に違和感があり、
これもクレヨンしんちゃんの「ヒロシ」だとは
あまり感じられない作りになっていました。
また映画自体のコンセプトでもある。
「父親」という像に対してなのですが、
これも今回の映画は「父親」を描きたかったのかが
正直わからない作品ではありました。
公園のシーンで「母親」が「子供」を盾にして
親父たちを追い払うシーンがありますが、
これも本来であれば「目上の人を馬鹿にする」
「子供を盾に身勝手をする女性」というのが
問題なのであって。
むしろ「子供がいるんだから煙草は気を使え」
っというのは一理あると思います。
喫煙所は喫煙を許されてはいますが、
喫煙という行為が周りに不快感を与えやすいのは
近年では周知の事実なわけですから。
「喫煙所だから吸っても良いんですよ」
っと平然というのもおかしいですし。
喫煙所なんだから公園で子供が居たって
僕らはルールを破ってないから気にしません!
みたいな態度は正直ただの子供の我儘ではないかと…。
子供を盾にしてやりたい放題する親も大人として
失格ではあるとは思いますが、ルールさえ守れば
他人に迷惑かけても許されるっと考えるのも
正直ただの餓鬼の論理にしか感じられません。
「父親」の立場を主張するのであれば、
「父親」として責任と信念を持って語ってほしかった。
ただおっさんの我儘を騒いで、過去の頑固親父の
おっさんにとって都合の良い部分を「頑固」といい
「父親の威厳」とするのは正直幼稚すぎではないかと。
娘の交際が許せないのは父親が男性であって、
娘の身を案じてのことでしょう。
いちゃつくカップルがむかつくのはただの嫉妬です。
自分達が虐げられていることに関して、
全うに立ち向かおうとしない姿は結局今回の敵もそうで、
ただあの我儘を掲げ暴挙に出ただけの、
なんの正当性も無いデモが父親と家族の立場を
回復させたっというのは正直がっかりです。
何故あの公園にいた影の薄いお父さんが
息子さんや嫁と向い合って会話を交わすという
シーンを作らなかったんでしょう?
何故公園のおじさん達が子供を叱る、
社会の常識を教えるシーンを作らなかったのでしょう?
父親は「大人」として子供を躾ける必要があり、
その確固たる姿が「頑固」なのではないですか?
しんのすけが拷問を受けるシーンもそうですが、
子供向けアニメである、この作品でしんのすけにとって
一番残虐な罰が「家族を失う」ことであるというのを
露骨に出すのは不味いとも思いますが…。
しんのすけはピーマンを時々克服してるのを考えると、
ピーマンを食べるのが一番残酷ってどうなんでしょ…。
ましてや前半の伏線にする部分で一応ヒロシ自身は
しんのすけにピーマンを食べるように叱ろうとする
姿勢を見せては居ますし。
あの場であの行為が「押し付け」だと騒ぐのは
敵の言う「馬鹿親」そのものではないかと思います。
ましてやあの状況を「躾」と混合しているのは、
製作側の意図の押し付けが強すぎて意味不明です。
そう考えると今回のコンセプトに対する
映画作品としては完全に失敗であったと感じます。
もちろん最後のシーンは感動しますし
映画作品としてもヒロシが「父親」という
存在としていかに家族に愛されているか
「夫」としてもみさえに愛されているかというのは
本当に表情の作り込みからよくわかります。
それが故に「本物」と「コピー」の問題は
その言動によりかなりエグい表現がされています。
ただ正直個人的には最後の腕相撲は、
ヒロシが超人的で父親の理想像であるロボとーちゃんから
「父親」という立場を取り戻す戦いなのですから、
ボロボロの状態のロボとーちゃんから取り戻すのではなく
ある程度完全な状態に見えるロボとーちゃんに対し
何度も果敢に挑んで、それも立場を取り戻す、
その背中をきちんとしんのすけに見せてほしかったです。
しかし近年のクレヨンしんちゃんの作品としては
本当にレベルが高く好感が持て面白い作品ではありました。
人にはお薦めしたい作品ではあります。
泣いてしまった
脚本がグレンラガンを書いてる中島かずきさんというので期待しましたが。
所々熱い展開。みさえがロボとーちゃんをすり抜けひろしに抱きつくところの寂しさ。
最後は自分がロボと納得して戦うロボとーちゃん。
そして、最後の一家の大黒柱を決める腕相撲から感極まり泣いてしまった。
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