「未来パートだけが盛り上がる、旧作ノスタルジー作品。」X-MEN:フューチャー&パスト kobayandayoさんの映画レビュー(感想・評価)
未来パートだけが盛り上がる、旧作ノスタルジー作品。
2014年6月上旬にMOVIX昭島にて、2D字幕版をレイトショーで鑑賞。
マーヴェル・コミックスの重鎮であるスタン・リーが生み出し、2000年に20世紀フォックスによって映画化され、昨今のアメコミ原作映画の量産化に貢献した『X-MEN』シリーズ。そのなかで新旧の人気キャラが勢揃いし、過去と未来をめぐって、話が入り乱れるほど複雑化するほどの話を描いたのが本作『フューチャー&パスト』で、シリーズの一作目と二作目のブライアン・シンガー監督がメガホンをとった意欲作になっています。
ミュータントを駆逐する為に開発されたロボット“センチネル”の大暴走で、荒廃した近未来の地球において、劣勢に追い込まれた“X-MEN”は一つの計画を実行に移す。それはキティ(エレン・ペイジ)の能力でウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)の意識をセンチネルが開発される前の1970年代のアダマンチウムを移植される前の彼自身へ転送し、若きプロフェッサーX(ジェームズ・マカヴォイ)やマグニートー(ミヒャエル・ファスベンダー)と共に開発計画を阻止する為に動かせるというものだった(粗筋、以上)。
一作目の公開当時に小学6年生だった自分にとって、このシリーズは思い入れが強く、『X-メン』から『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』までを愛してやまず、“少数派への迫害と共存”という重厚感のあるテーマを掲げながら、多種多様な能力を持ったミュータントのキャラクターを魅力的に描き、シリアスになり過ぎずに話を成立させていて、楽しさが満載な点に惹かれ、「自分がミュータントだったら、どんな能力が欲しいか」といった事を想像する事も少なくなく、フィギュアや小説、サントラなどのグッズを買い集めるほどハマっていた時期があったので、第三弾の『ファイナル・ディシジョン』でシリーズを離れたブライアン・シンガーの本作での復帰は嬉しく、主要スタッフも『X-MEN2』から殆どが続投し、ジョン・オットマンによる同作のテーマ曲が使われていたりとファンにとっては非常に喜ばしいものばかりで、その点を楽しみました。
私は第五弾の『ファースト・ジェネレーション』は気に入っていません。ヒットはしても評判の悪かった『ファイナル・ディシジョン』と『X-MEN ZERO』を無かった事にしているのが非常に不満(“ファイナル・ディシジョン”の印象は初鑑賞時には、あまり良いものではありませんでしたが、作品そのものを無かったことにしなければならない程酷い作品ではない)で、若き日のプロフェッサー、マグニートー、ミスティーク(ジェニファー・ローレンス)のキャラが“旧作”からは大きく変わりすぎていたり、主役が誰なのかが分からなかったり、旧作で演じたパトリック・スチュワート、イアン・マッケラン、レベッカ・ローミンの圧倒的な存在感からは信じられないぐらい地味な俳優が扮し、悪役を演じたケヴィン・ベーコンに食われ、良かった点はシンガー監督のプロデューサーとしての復帰に伴い、彼が離れた事で失われた迫害のテーマの復活、故マイケル・ケイメンが一作目で手掛けた“ポーランド収容所”のスコアが使われているぐらいで、話も全体的に盛り上がらず、退屈したので、自分のなかでは「“X-MEN”は終わった」と思ったほどガッカリし、本作には、そこまで期待せずに観ました。予想よりは遥かに面白かったです。しかし、それほどの作品ではありません。
本作で最も盛り上がるのはスチュワート、マッケラン、ハル・ベリー、エレン・ペイジ、ショーン・アシュモア、ダニエル・クドモアらが登場する未来パートであり、本作の段階で一作目から13年が経過していた事で、流石に皆、年を取り、あの頃のような初々しさはありませんが、『ファースト・ジェネレーション』では無かった事にされた『ファイナル・ディシジョン』の設定が復活し、同作でキティ役を演じたペイジの再演、僅かに登場したセンチネルの大活躍、それに翻弄される“X-MEN”たちが直面する脅威に必死になって立ち向かう姿は常にハラハラし、過去作の経験が殆ど役に立たず、シリーズ最大級の困難な状況に追い込まれるという展開が非常に良く出来ていて、これだけで満足ができ、観る価値があったと思え、「もっと彼らの活躍を見ていたい」という気持ちになりました。この部分が本筋だったら良かったのに、そうではないのが残念です。
本筋である70年代のパートは『ファースト・ジェネレーション』とは違い、ウルヴァリンが大活躍し、若きプロフェッサーたちを引っ張っていく役目を担い、ウルヴァリンにとっては因縁のある人物が出番が短くても登場し、それで僅かに事件が起きたりするので、『ファースト〜』よりも面白く、納得できる部分も多かったのが良かったですが、マカヴォイ、ファスベンダー、ローレンス、ニコラス・ホルトといった若き時代の主要キャラが相変わらず存在感と魅力に欠け、ヒュー・ジャックマンが居ないと全く成立しないシリーズである事を改めて感じさせ、プロフェッサーの学園の地下にあるお馴染みの特徴的な通路やセレブロ・ルームが出てくることや若きマグニートーが未来パートに近いコスチュームを着て、暴れまわるところは『X-MEN』らしいと言えますが、ミスティークは演じたローレンスが本作製作までの間に『ハンガー・ゲーム』シリーズの大ヒットや『世界に一つのプレイブック』でのアカデミー賞の受賞による変化の為か、本来の姿で居ることが少なく、ローレンス自身の姿の登場が多いので、旧作に話が繋がらないのであれば、理解は出来ますが、旧作と繋がっているのを前提としているようになっているので、ローレンスの姿はミスティークが本来の自分から逃げ回っているようにしか見えず、『X-MEN2』でナイトクローラー(アラン・カミング)から「君は何にでも姿を変えられるのに、何で、そのままの姿で居るの?」という質問に対して、「その必要がないからよ」と答えていたのとは矛盾していて、あまり納得の出来るものではなく、ローレンスはミスキャストだったと思います。70年代のパートで一つ良かった点を挙げるなら、それは若きトードが僅かに出てくるところで、まだ青年なので、一作目でレイ・パーク(“スター・ウォーズ/ファントム・メナス”のダース・モール役。彼が素顔で悪役を演じていたことを知り、興味を持っただけに愛着がある)が演じたキャラと繋がって見えるところは少ないですが、これが個人的には最も良かった部分でした。
劇場で観て損をするような作品ではありませんが、本作は自分のなかで冷めた『X-MEN』に対する熱意を取り戻す作品にはならず、未来パートの懐かしい面々や描写などにノスタルジーを感じただけなので、それ以外に心に残るものが無かったのが非常に残念で、勿体無い印象を持ちました。それだけ自分が年を取ったという事なのでしょう。