2010年のフランス作品で、時代背景も2010年のようだ。この作品は、フランスの純文学と呼ぶにふさわしい。物語は「筋」にあるのではなく、主人公プリュダンスの心の揺らぎを描いている。
冒頭の場面は警察。おそらくプリュダンスは万引きの容疑をかけられている。後に「母の死」がきっかけだったとわかるが、下着の中に盗んだものを隠すという行為は常習性を示している。つまり、彼女の素行は母の死以前から始まっていた。それが示されるのが叔母宅の長男と父の様子だ。
当時のフランス社会──今もそうかもしれないが──キリスト教的な厳格な躾が根強く、反抗する長男の姿が象徴的に描かれている。プリュダンスも父を毛嫌いしており、それが憂さ晴らしの万引きという、フランス人特有の逃避行動に繋がっているように見える。
プリュダンスにはフレデリックという姉がいる。姉は母の死後、自宅に戻りたくないという理由で叔母の家に滞在している。一人残されたプリュダンスは、自分の心の居場所を見失ってしまったのかもしれない。
彼女は同じように警察に補導されてきたマリリンと知り合い、夜遊びを始める。バイクでの暴走行為は、日本の若者文化とも通じるものがある。スリルや冒険は、いつの時代でも若者を惹きつける。
17歳になったプリュダンスは、思春期と母の死という喪失感に苦しみながら、同年代の不良たちの「自由」な行動に憧れ、それこそが大人への登竜門だと信じたのかもしれない。誰も帰ってこない自宅をたまり場にして、彼女は意識的に見ようとしない「喪失感」を埋めるように夜遊びを続ける。
しかし、いくら遊んでも、初めてSexをしても、心の空洞は埋まらなかった。フレデリックは彼氏と共に叔母宅に寝泊まりしながらも、プリュダンスを心配しているが、彼女の心のやり場はどこにもない。
フランクとSexしても満たされることはなかったが、彼の母親の優しさに触れたことで、プリュダンスは自分が何を求めていたのかを感じ取ったのだろう。フランクたちバイク仲間と観る映画も、まったく頭に入らず、トイレに行くと言って外に出ようとする。
フランクの怒りと侮蔑の言葉は、おそらく父の言葉と重なったのだろう。所詮、男というのは自分のことしか考えない生き物だ。雨の中に放り出されたプリュダンスは、仲直りできるはずだと信じて待っていたが、フランクは彼女を一瞥し、他の女をバイクに乗せて走り去ってしまう。
一人歩き始めた彼女は、もしかしたら遠くにサイレンの音を聞いたのかもしれない。用水路を早足で抜けてバイクのたまり場に向かった先で、フランクと同乗女性の死を目にする。若気の至りというべきか、危険な行為とフランクの気分が事故を引き起こした。
この事実は、プリュダンスに「逃げ場はない」ことを突きつけたのだろう。自宅に戻った彼女は、母の幻覚を見る。「死んでほしくなかった」──この本心が幻覚となって現れたと同時に、彼女はそれが幻覚だと認識していたのかもしれない。
「メガネを取ってきて」と言った母の言葉に、泣きながら「補聴器」を取り出し、ベランダに出て耳にはめる。補聴器を通して大きなサイレンの音が聞こえる。それは、フランクを乗せた救急車の音でもあり、母が乗せられた救急車の音でもあったのかもしれない。
その「現実の音」に初めて触れたことで、彼女はやっと泣くことができた。17歳になった瞬間に起きた様々な出来事は、まだ17歳の彼女には処理しきれない心の揺らぎの大きな渦だった。
その渦が何なのかもわからないまま、彼女は思春期の経験を通して「喪失感」に向き合うことになる。人前で泣くことさえできない感覚、何をしても処理できない心の澱──その正体は、自分自身で見つけ出し、本心の感情を吐露することでしか拭えないのだろう。
少女から大人への階段は、体裁を繕うような見せかけの表現ではなく、本当の感情をありのまま表現することなのかもしれない。その時経験したその丸ごとの体験こそ、いつか誰かの心の傷を癒すことになるのだろう。
タイトルの意味は、想い出という美しいものの「生と死」の二面性であり、「棘」という今現在の悲しみは、やがて経験上の成長と誰かのためになっていく「美しさ」に変わるのだと解釈した。
それにしても、プリュダンスの心の喪失感を感じ取ると、涙が溢れ出してしまう。