収容病棟のレビュー・感想・評価
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真実を求めて映像の中を彷徨う
これは何とも不気味な作品でした。中国雲南省の精神病院に「収容」されている様々な人々を記録したドキュメンタリーです。 いつものワン・ビン作品同様に、ナレーションも音楽もなく、字幕も人々の名前と収容年数が記されるのみです。カメラは単なる目となって人々の日常を見つめ続けます。 収容者の人々は病室に閉じ込められている訳ではないのですが、回廊型のフロアから殆ど出る事が出来ず、周りは鉄格子で覆われています。そして「病院」と呼ぶには非衛生的な環境で、不快な匂いが漂って来そうです。 収容者の人々は何故ここに入れられたのか、どんな背景があるのか全く語られません。中には奇矯な行動を見せる人も確かにいます。でも、多くは特別な精神疾患の人には見えません。ただ、殆どの人は乏しい表情をしています。それが「病」のせいなのか、毎日服用させられる「薬」のせいなのかは分かりません。 「殆どの奴は喧嘩でここにいれられたんだ」 「ここに長く居ると精神病になる」 と語る男の言葉が不気味に浮かび上がります。えっ?この人達は「正常」なの? ここは病院というより監獄なの? それともその言葉自体が妄想なの? スクリーンと向かい合う僕の思い込みが揺さぶられます。 新たにここに「収容」された男は鉄格子越しに「俺は正常だ」と叫び抵抗します。すると、後ろ手に手錠を掛けられてしまうのです。その苦痛に耐えられず男は手錠を外してくれる様に医師に懇願します。すると、「もう暴れるなよ」と医師は鍵を取り出します。この場面だけで、この病院内では医師は絶対権力者で収容者はそれに服従するしかない構造である事が分かります。これを受け入れねば暮らしていけないのでしょう。 本作に登場する人は様々な「病状」なのですが、共通しているのは「家に帰りたい」という思いです。しかし、面会に来る家族の対応はどこかよそよそしく「家に帰られると手が掛かるからここに居て欲しい」と思っているのがありありと分かり、ここが「病院」というより「収容所」であると納得できます。 「真実はどこにあるのか?」と4時間にわたって揺さぶり続けながら、「正解」を示すことなく本作は静かに終わります。
愛と眼差し、距離感と体温、五感に響くワンビンの映像
あと一月半くらいでサービス終了となるGYAO! 様のおかげで、劇場で見られなかったワンビン作品を見ることができた。
予備知識なしで見始めた。長い長いドキュメンタリー。ワンビン監督のドキュメンタリーなので、説明、ナレーション一切なし。監督やスタッフの質問する声もない。
映し出される収容者た地の名前と収容年数のみが字幕で出る。音楽も生活音や収容者たちの歌声しかない。
鉄格子
冷たいコンクリート
ガタガタキーキーガシャンガシャンと、触れたら寒そうで冷たそうで痛そうな音がひぴきわたる、中庭を囲む回廊形式の病棟。ドアや檻に触れる音以上に時に大きな収容者たちの声、歌、叫びなども聞こえる。大声で先生を呼ぶ声も。
ぐるぐると回廊を歩く人、間違えずに自分のベッドに辿り着きそれぞれの流儀で休む人。二人で寝る人。祈る人。無言歌にもいたけれど、中国でそもそも理由もよくわからないが絶望的にひどいところに収容されてしまいそこから逃げたら罪だが、施設そのものはオープンで家族が差し入れを持って訪ねてくる。まあここは病院なので見舞いということでは当たり前だが、檻、柵、鍵で管理されている収容病棟中での家族との会話や関わりもまた面白い。
最初はどうして良いのやら、何を感じるべきなのか、戸惑歩くあまりにも不衛生で病院としてのテイをなしてないこのような非人間的非人道的なシステムに圏央道と怒りを感じようとするのだが、なんかちがう。非人間非人道的なはずなのに、そこに映る人々の一人一人の在り方が人間的で人の情感が突出してくる、それでとにかくずっと目が釘付けになる映像。このらワンビン映画では、走る、止まる、注視する、絡む、撮影するカメラがその人になる。まるで人扱いされてないような、自分でもしてないようなことなのか?と最初思うがそうではなく、そういう悲劇もある中で。みんな自分自分にこのシステムを活用しシステムを凌駕しているようにさえ思える。もちろん権力側管理側からは、人扱いされてないような収容施設だ。でも、手錠をはめたり酷いこともする医師たちは時にユーモアもあったり、高圧的になるのだが医師、職員もこの共同体の一構成員としてまぎれもなく機能以上に絡みあってそこには関わりあるものと存在している。この中での暖かさ、この建物の外の世界の冷たさを感じるような。実際、無事退院果たした夫、徘徊癖があるのか、家にいても居場所もなく家では父か義父に煙たがられ外に出れば妻に怒られひたすら近所の田舎道を歩き大きな舗装された道路に出て歩き続ける。家族がよく面会に来るお父さん。突然ここに連れてこられ狼狽えるお父さん、面会に来た優しく気丈な娘さんはお母さんが決めた措置入院だけどお母さんを恨んじゃダメこれが一番いいとお母さんが決めたこととさとしながら父親のここでの生活を案じ、取り囲み見ていた収容仲間の自分と同じくらいかもっと若い男に携帯を貸して父親に電話させてあげてる。家族も中の人もここではおおらかにふるまえてるようにさえ思う。明らかにきちんと折り目正しく祈りを捧げるおそらく回族の若者。男女異なるフロアで自由にあえないが回族なのかイスラム教どの女と柵越しに恋をする男。映画ラストに、2013年、雲南省の、精神病者の措置入院施設、自分からくるものはなく、みな家族か公権力によりおそらく同意もなく入院させられていると、字幕が出て知る。まじめに祈る回族の彼は宗教が措置入院、収容の理由かも知れず、二人で寝る男たちは同性愛者として隔離拘束されているのかも知れず、この字幕で必ずしも精神疾患が理由でもないと、な中の弾圧や抑圧の施策としての措置もあることがはっきりわかる。辺境の雲南省。今から10年前の雲南の収容病棟は、反右派闘争の煽りで砂漠の収容所に入れられた無言歌や死霊魂に出てくる人たち、脈々と筋が通る中国共産党の統治政策の2000年代版でもあり、これがより過酷なウイグルでの強制収容、労働、に繋がっているようだと思い至る。そう思うと、とにかくひどい。時間の流れを大きく見ると本当にひどい。
そしてというか、しかしながらというか、ワンビン監督の素材を、撮影対象を、撮影場所を、至近距離で最大限に公平中立に見守り、晒し暴き出し、見えないものを炙り出すように眼差しを定め求め、あるがままの美をカメラに収めスクリーンに乗せ広げる力技の凄み。
荒削りな素材。
12日の土曜日に観て来たのですが、考えをまとめるのに、二日ほどかかりました。前作「三姉妹」が余りに淡白な味わいだったので、今回は期待半分、不安半分の気分で上映に臨みました。宮益坂を登り切り、10時50分頃、シアターイメージフォーラムに到着、10時45分開館なのに外には多くの人が列を作っていました。もぎりの要領が悪いのです。非常に暑い日で、汗まみれになり、座席に着いた時には、既に80パーセントの体力を消耗していました。場内は余りク―ラ―が効いていませんでした。 非常に生々しい映画です。登場する「患者」はほぼ、男、です。女性の「患者」は描かれません。登場する女性といえば、面会に来る妻や看護師くらいでしょうか。とにかく男臭い映画です。いろんな病める男が現れます。廊下で放尿する男、ベッドの下の金盥に放尿する男、全裸になって廊下で水浴びをする男、ひとつのベッドに同衾する二人の男・・・。しかし、男性の性器にぼかしはかかりません。性的なことを連想させない映像だからでしょう。余りの生々しさに気分が悪くなる人もいるかもしれません。 しかし、一番、病んでいるのはこのような不潔極まりない病棟を作り上げた中国共産党です。人間を家畜扱いしてはいけないのです。この監督はドキュメンタリー映画作家として、著名ですが、個人的には「無言歌」のような劇映画をもっと観たいと思っています。中国からの資本を得ずに毎回、映画を撮っていると聞きました。全く見上げた根性の持ち主です。 正直、蒸し暑い映画館で4時間近く座っているのは大変です。しかし、今回は途中でお茶や水を飲んで、尿意を催し、小用を足しに行っても、大丈夫です。緩やかなテンポの記録映画なので、話の脈絡が判らなくなるということはありません。事実、私も強烈な尿意に襲われ、一度、中座しました。
嗅覚をも刺激する作品
撮影・編集する過程で、監督の手は間違いなく入っているのだが、何かを仕掛けたり煽ったりすることなく、静かに、淡々と、カメラを回していく。 王兵監督の作品はどれも長くて、知的耐性のない私は必ず寝てしまうのですが、それでもなお、訴えてくるものがあります。 この作品において、描かれている、精神科病棟の社会的入院という現状は、日本も例外ではありません。 限られた資源(人・金ほか)をどう振り分けるか、社会がどう対処するか(受け入れるか)。 自分がこの病棟に収容されたら、と思うと、叫び出したい位の絶望を感じるのでした。
ワン・ビンの作品を観るという快楽
スクリーンに映し出される
まごうことなきワン・ビンの画。
この美しい映像を観ることが既に快楽だ。
カメラは幾度も回廊を廻り、
徘徊を映し排泄を映す。
初め抱いた視点が別の視点に凌駕され、
さらにそれも凌駕されていく。
形を失っていくような奇妙な感覚。
家族を想起した罪悪感と痛みの上に、
病や自分の輪郭が見えなくなっていくような浮遊感が降り積もる。
今日という日と状況の寓話を
見つめているような思いがさらに重ねられていく。
ワン・ビンと同時代に生きているのは楽しい。
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