「ネガティブ思考の再評価」インサイド・ヘッド SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
ネガティブ思考の再評価
よくできた話だと思った。脳の中の感情を擬人化して、人の感情や記憶の仕組みをモデル化してストーリーにしている。
5つの感情の中で、なぜヨロコビが主導権を持ち権威的に振る舞えるのか。現代社会では、喜びという感情を持つことが望ましいということになっているからだ。ポジティブ思考礼賛が強いアメリカでは特にそうだろう。
そして、悲しみは、持ってはいけない、というプレッシャーがかかっている。
この映画のヨロコビとカナシミは、ポジティブ思考とネガティヴ思考、と言い換えた方が映画のストーリーを理解しやすい。
(ところで、disgustをイライラと訳したのは失敗だったと思う。イヤケ、ウンザリとした方が良かった)
カナシミが感情を表したいときにも、ヨロコビが「なんのためにいるのかわからない」と邪魔してしまう。
ネガティブ思考は、社会人にとっては評価が下がる、子供にとっては、親に嫌われる、という理由で封印されがちになる。
ライリーの「家出を決意するまで」の行動原理は、「嫌われたくない」「いい子でいる」というもので、これが大人になる過程でどのような変化が起こるかが、この映画のストーリーとなる。
カナシミは働くべきときに働けないことが続き、ヨロコビからは何もするな、と命じられてしまう(抑圧状況)。
そして、本来なら人格や行動原理の基になっている「特別な記憶」に、悲しみの記憶を加えなければならないときに、ヨロコビに無理やり邪魔されてしまい、逆に全ての特別な記憶にアクセスできなくなってしまう。これは心が死んだ状態(鬱状態)を意味していると思う。
その後、ヨロコビとカナシミは心の中のいろいろな場所を冒険するわけだが、
おふざけからの卒業
空想の友達からの卒業
体験が抽象概念に加工される過程
友情、家族との関係の変質
こういった「精神的成長」をモデル化しているのが面白かった。
ライリーだけではなく、他の人々の感情たちにもそれぞれ特徴が出ていて、例えばライリーの両親の感情たちは、カナシミを仲間外れにするのではなく、5つの感情が協調して働いているように描かれている。
最終的に、今回の事件の記憶が、「喜びでもあり、悲しみでもある」記憶になることで、2つの感情は表裏一体のものであり、両者のバランスが重要であることが示される。
また、これまでのたくさんの「特別な記憶」が喜びの記憶から、悲しみの記憶に変わる。これは、子供時代の単に純粋に楽しかっただけの記憶が、成長すると、「もう決して戻れない過去」という悲しみに変わってしまうことを意味する。
ヨロコビは、この大人への成長にとって不可欠の変化にあらがって、いつまでも子供の心のままでいることを望んだともいえる。
日本は、会社のような場所ではネガティブ思考が嫌われる傾向があるものの、プライベートの気安い友人関係の間では、むしろ積極的に出しているように思う。
だからといって健全だとは言い難いので、日本版のインサイドヘッドを作ったら、また全然違うストーリーになるんだろうなあ、と思う。
冒頭のドリカムの曲と、火山島の歌はあきらかに「無い方が良い蛇足」だと思う。
ドリカムの曲自体は良いと思うんだが、さあ映画がはじまるぞ、というタイミングでやられてはたまらない。知らない家族の写真をえんえん見せられてもね…。
火山島の歌も、もっとストーリーがあればまだ退屈せずに見られたのだけど、これ何番まで続くん?( ;´Д`)って感じだった。
どうでもいいが、これって、おじいさん火山と若い娘火山だから絵になったけど、逆におばあさん火山と若い男火山だったらどうなのよ?って思った。
男と女の位置付けがステレオタイプ過ぎて、なんだかもやもやした。
はじめまして
映画を観ながら何となくモヤモヤしていた部分を具体的に文書化していただきありがとうございます。
カナシミの初期の行動原理が今ひとつ分かりませんでしたが、嫌がらせではなく、哀しみの部分を加えていると考えれば納得の行動なんでしょうね。