「登場するフリークスを差別として見ては行けない。」リアリティのダンス マサシさんの映画レビュー(感想・評価)
登場するフリークスを差別として見ては行けない。
この監督の経歴を初めて知った。
それで今日本で取り上げられる意味を知った。つまり、ウクライナ出身の南米チリ移民って事だと思う。コサックから迫害を受け、南米チリへ亡命した元ユダヤ系ウクライナ人と言う事だ。さて、それでこの父親はスターリンに傾倒して、祖国を遥か遠く離れても、スターリンの写真を飾り、コミュニストとしての権威を丸出しにしている。と言った解釈なのだろう。
申し訳ないが、全部都合好い解釈だと思う。スターリンこそ、ユダヤ系を同じボルシェビキから粛清していたし、コサックはウクライナ人そのもので、ナチス・ドイツに加担していた歴史がある。
まだ、映画の途中なので、結末は分からぬが、ウクライナの地からも迫害を受けたユダヤとしての歴史だ。
さて。
彼は自分の父親を『サッコ・ヴァンゼッティ』の様に見ていたのではないか?つまり、国がない自分の生い立ちをコミュニストと言うよりもアナーキストとして描いているように感じた。スターリンも粛清する相手には『アナーキスト』と言う言葉を多いに使っている。
また、ピノキオと呼ばれ、肌の色だけで、受け入れられない。だから、信じる神は一つなのに、宗教的にもアナーキストにならざるを得ない。そして、彼の父親の本音には、ネイティブアメリカンよりも、『自分は神に近い民族』と思う『思い上がり』が見て取れる。
映画は最後まで、神の存在を否定して終わっていると思う。なぜなら、平穏を取り戻した店にコミュニストの象徴としてスターリンの肖像画。
さて、いくつか不満が残る
・コミュニストの象徴としてスターリン?
・彼は最初にウクライナに阻害されている。
・チリはこの後も迫害の歴史があった。
そんな点が抜けている。
そして、
・CGを使うな!
と言いたい。
追記
イル・ポスティーノと言う映画にパブロ・ネルーダと言う詩人が登場する。『二人のパプロ』と呼ばれ、パブロ・ピカソと並び称されるチリの軍事政権にレジスタンスした作家だ。彼は1963年にソ連から勲章を授かっている。そう、反スターリン主義の時代に彼はチリ人なのに、ソ連から称賛されているのだ。従って、同じ様な立場の人間が、スターリンをコミュニストに仕立てる意味が、僕には理解出来ない。
フリークスの一人の女性の死がいたたまれない。ダイレクトな表現たが、フリークスを見た目から受ける差別の対象ととして描いているように思う。彼は肌の色で差別されている訳たから。