大きな鳥と小さな鳥のレビュー・感想・評価
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鬼才パゾリーニが寓話仕立てのコメディタッチで送る、老人と息子の奇天烈ロード・ムーヴィー
やっぱり、パゾリーニにとって、ニネット・ダヴォリくんは「天使」だったんだなあ……。
予備知識ゼロで観だしたら、ブニュエルの『銀河』を彷彿させる男二人のロード・ムーヴィーが始まって、老齢の父親役があの伝説の名優トト! で息子のほうが我らがニネット・ダヴォリ!!
ニネット・ダヴォリはパゾリーニの大のお気に入りだった俳優で、未見の「生の三部作」(『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアンナイト』)でも堂々主役を張っているわけだが、たとえば『テオレマ』では、「性なる聖人」テレンス・スタンプの来訪を告げる郵便配達夫〈アンジェリーノ〉役、『アポロンの地獄』では、ラストでオイディプスを現代の聖堂前に導く葦笛の若者役でちょい役出演している。
二つの役は、時空を超えて出現した同じキャラクターではないかと思わせるような「底抜けの明るさ」と「純真無垢さ」を兼ね備えた存在であり、苦悩する主人公にある種の「救済」をもたらすメッセンジャーとして機能していた。
今回、『大きな鳥と小さな鳥』でニネット・ダヴォリの演じる青年(役名も「ニネット・イノチェンティ(=無垢)」!)もまた、上記のキャラクターと共通する「底抜けの陽気さ」と、寒山拾得の如き「聖なる愚者」としての超俗性を宿している。
この映画でのニネットくんが、『テオレマ』のアンジェリーノと「地続き」の存在であることは、とある作中の「行為」によって明らかだ。なにせ、この映画でのニネットくん、『テオレマ』同様、唐突に華麗な「でんぐり返し」を決めてみせるのだ! てか、こっちが『テオレマ』の元ネタだったのか!!
要するに、ニネット・ダヴォリは、ニネット・ダヴォリなのだ。
すべての明るさと、すべての前向きな運動性と、すべての陽的な聖性を背負って、ニネット・ダヴォリはパゾリーニ映画に登場する。
そして、あるがままのニネット・ダヴォリとして、触れるものすべてをその笑顔と能天気さで救い、癒し、新たなる世界へと導いてゆく。
ニネット・ダヴォリは、誰とでもペアが組めて、誰しもを幸せにする、究極の「バディ」だ。
パゾリーニにとって、自作で「陽」や「笑」を描こうとするときは常に、ニネット・ダヴォリの「天使のような無垢な笑顔」が、どうしても必要だったのだ。
ー ー ー ー ー
今回、旧近代映画アーカイブとユーロスペースで行われたパゾリーニ映画祭では、結局『アッカトーネ』と本作しか参加できなかったが(11/3の『アラビアンナイト』と『ソドムの市』はなんと完売!)、作風の転換期とされる『大きな鳥と小さな鳥』を、映画館で観られたのは収穫だった。
開幕劈頭、こってこてのモリコーネ節にのせて、スタッフクレジットが朗々と歌い上げられるウルトラ・おバカネタから、もうテンションはマックス! こんなたのしいスタッフロール、なかなかねーぞ?? ♪エンニコ・モリコーネ・ム、ジ、コ(ワッハッハッハッハッハッハ) ってどうよ。
思いついたやつ(=パゾリーニ)、天才!
で、おもむろに老人と息子のとぼけたロードムーヴィーが始まる。
場所はローマの郊外。『アッカトーネ』を思わせる風景。
月の満ち欠けが地上のゴミを海へと返すと述べるトト。
踊る若者たち。榎並大二郎アナみたいな顔のバーテン。
天使の羽根をつけた仮装の少女。運び出される殺人被害者。
そして、マルクス主義にかぶれた「しゃべるカラス」が現れる。
しばらくすると、映画はカラスの語りに導かれて唐突に過去へとさかのぼり、トトとニネットは、聖フランチェスコ配下の修道士としてアッシジで旅を続けることになる……。
正直、言っていることや、やっていることの7割方は、僕にはちんぷんかんぷんだった(笑)。
少なくとも、映画館で一回観たくらいで細部まで得心がいくような映画では断じてない。
ただ、本作が「鳥づくし」の映画であることは、かろうじて理解できた。
まず、タイトルの「大きな鳥と小さな鳥」。
これは英語題を見ればわかるとおり、一義的には「タカとスズメ」のことを指している。ただ、イタリア語題や邦題だけ見ると、トトとニネットのことを指す含意があってもおかしくはなさそう。
そこにしゃべるカラスが加わって、さらには聖フランチェスコが登場する。
アッシジの聖フランチェスコは、初期イタリア・ルネサンスの大画家ジオットによる壁画や、フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンのオペラでもよく知られる、「小鳥に説教した」ことで高名な聖人だ。
何度もその人生は映画化されていて、本作以前にも1950年にはロベルト・ロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』、1962年にはマイケル・カーティスの『剣と十字架』が封切られている。
修道士トトとニネットもまた、鳥に伝道することを聖フランチェスコに申しつかり、ついにタカとスズメの双方に説教を聞かせることに成功するが、彼らにタカが小鳥を狩るのを止めることはできない(画面で観る限りでは、襲ってくるのはタカってよりチョウゲンボウぽいし、襲われているのもイエスズメと違ってシメかイカルみたいなアトリ科の鳥に見えるが)。
こうして見ると、『大きな鳥と小さな鳥』というのは、支配階級と被支配階級、もしくはブルジョワ階級と労働者階級の寓意であり、修道士はカトリックの寓意であると考えるのが妥当なところなのだろう。カラスはさしずめ、左翼アジテータの寓意像といったところか。
結局、いくら宗教に帰依させたところで、奪うものが奪われるものから搾取することを止められるわけではないし、声だけ大きい左翼知識人も所詮ものの役には立たず、やがては縊り殺されるだけだ……というふうに、このエピソードを「読んでみる」ことは、一応のところ可能だろう。
「鳥づくし」という話でいえば、後半のいささか唐突な中国人差別エピソードで登場する「貧乏人がツバメの巣を丸カブリする」小ネタも「鳥」がらみだし、過去篇や旅芸人エピソードで流れるメロウな楽曲は、モーツァルトの『魔笛』でパミーナとパパゲーノ(鳥人間)が歌う二重唱「恋を知る殿方には」のアレンジである。
『大きな鳥と小さな鳥』は、一義的にいえば、コメディ映画といっていいだろう。
ただ、さまざまな寓意性や象徴性が幾重にも被せられた、きわめて難解な作品であるのもまた確かだ。
まずもって、本作で採用されている「老人と若者」の「対話」によって思索が深められていく物語形式自体、古代ギリシャ時代のソクラテスやプラトンからローマの哲学者へとつづく、「ディアロゴス」のスタイルを模していると思えなくもない。
すなわり有りようからして、本作のナラティヴはきわめて「哲学的」なのだ。
扱われている内容としても、過去篇の「鳥に説教」のエピソードのように、搾取される貧困層に対して「宗教(カトリック)にできることの限界」をテーマの一部とする一方で、端々で「左派知識人にできることの限界」についても言及しているようにも思われる。
「マルクス主義者のカラス」の存在はまさにそうだし、作中で何回か流れるロシア民謡の「カチューシャ」は、イタリアではパルチザン蜂起を謳い上げる、左翼医師による替え歌で人口に膾炙している楽曲だ。終盤、かなり唐突に大物らしき人物の大掛かりな葬儀のフッテージフィルムが挿入されるのだが、これも実在の大物左翼政治家の葬儀シーンらしい。
もちろん、作中で揶揄されているのは、カトリックや左派だけではない。
トトとニネットが「エンジニア」を訪ねていった先(出てくる執事が高見山そっくり!)で開かれているパーティの参加者たちは、明らかにブルジョワジー寄りの人々だ。
桂冠詩人(ダンテのパロディ?)にスコットランドヤードの007がどうだこうだと文学談義をふっかけていた男が、ワーグナーの『神々の黄昏』の「ジークフリートのラインへの旅」を陶酔的にエア指揮しているのを見ると、ここでおちょくられているのは右派らしいことがわかる。
とまあ、いろいろと考えさせられる映画であることは確かなのだが、一方で本作は、最初に定義したとおり、明快に「コメディ」であることを目指した作品でもある。
それも、かなりベッタベタな、無声映画時代のスラップスティックに憧憬をいだいたようなドタバタが随所に挿入される。
悪ガキどもに、ボールのように投げ合いされるニネットくんや、トトの大仰な顔芸&首芸。
犬に馬乗りになられるトト&ニネットや、後ろ向きに下がってゆく執事などなど。
過去篇で、トトがスズメに説教するために教会の廃墟でずっと座っていたら、そのうち「聖人」扱いされるようになって、まわりで市とか立つようになってそれを追い払うというドタバタがあるが、あれは「神殿から商人を追いはらうキリスト」のパロディですね。
コメディとして虚心に楽しむにはちょっと小難しすぎる映画ではあるが、名優トトのとにかく楽し気な様子と、ニネットくんの身体全身から発せられる底抜けの幸福感、そしてエンニオ・モリコーネのイカした音楽にふれているだけで、なんだかほっこりした気分になってくる。
ま、それでこの映画はいいんじゃないでしょうか。
意味とか、あまりよくわからなくても(笑)。
そもそも、ロードムーヴィーってのが、そういうジャンルなんだしね。
ちなみに、東京のパゾリーニ映画祭で『ソドムの市』と『アラビアンナイト』を完売で見逃してしまった僕はどうしたかというと、悔しさのあまりその場の勢いで、19、20日の「京都での」パゾリーニ映画祭の「生の三部作」のチケットを取ってしまったのだった(笑)。
さあ、行くぜ! 紅葉の京都! (アホや俺)
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