「壮大なる家族愛のドラマ」インターステラー CRAFT BOXさんの映画レビュー(感想・評価)
壮大なる家族愛のドラマ
それほど期待しないで観たのが良かったのか、結構面白かった。
本作の影響について、『2001年宇宙の旅』や『ライトスタッフ』を上げる人が多いし、両作品へのオマージュはすぐに気がついたけど、本作の影響は、むしろ『未知との遭遇』や『E.T.』の方が大きいと思う。
もっと踏み込んで言えば、後述するようにSFのように見せておきながら、「愛」に帰結していくという点では、キューブリックの原案を、その死後にスピルバーグが完成させた『A.I.』からも影響を受けているかもしれない(ちなみに、『2001年』や『ライトスタッフ』、またスピルバーグの影響については、ノーラン監督自らが認めている)。
SF的な視点で観ると、科学的知識の乏しい僕には、イマイチ理解できない事が多かったので、そこはSFファンたちの検証に任せたい。とりあえず初見した僕としては、そうしたSFとして楽しむよりも、人間ドラマとして本作を楽しんだ。
ただし、途中のトンデモ展開へのツッコミは置いといても、ラストシーンについては、ちょっといただけないと思った。ストーリー展開として、あのラストシーンは主人公が格好付け過ぎだ。
プランBの実行者(アメリア)を迎えに行くなら、彼が誰にも告げずに一人で行く必然性が乏しい。
クーパーステーションのNASA(に変わる組織)から「これからプランBの回収に旅立ちますが、あなたもクルーとして参加しますか?」とクーパーに打診があり、クーパーが「もちろん。今度は娘の説得に時間はいらない」というような会話で終わった方が、普通に現実味のある展開だったと思われる。そうすれば、あんな陳腐な格好付け方で終わらずに済んだのに、もったいない。この終わり方は、本当にもったいないと思う。
ただ、脳内補完を思いっきり発揮すれば、こんな解釈も出来る。
アメリアは、現存する人類を見殺しにしようとしたラザロ計画の実行者であるとして、クーパーステーションの人間たちには批判されている。クーパーに関しては、マーフの生みの親ということもあり一応の敬意はもたれていたとしても、ラザロ計画の関係者は、ブランド教授もアメリアも極悪人扱いのため、彼女の救出計画などはあり得ないという解釈も出来るわけだ。
結局のところ、この映画の世界観は、クーパーの娘への「愛」があった故に、5次元の世界でマーフの部屋と交信できたはずなのに、クーパーステーションに生き残った人類は、徐々に昔の文化を取り戻しながらも、一方で、荒廃した地球のなかで「愛」を失い、まだその「愛」を完全に取り戻すことのできない、冷たい社会なのかも知れない。
(五次元の世界で、クーパーがマーフの部屋と交信できたのは、彼の思い入れ=愛の思念が強い過去の空間として、マーフの部屋に辿り着かせたというのが、僕の解釈です)。
だからこそ、「愛の男」であるクーパーは、反対される事を押し切って一人で旅立ったという解釈。
もう一つ、別の解釈をすると、そもそも「アポロ計画は嘘だった」という、歴史的事実がねじ曲げられ情報操作が行われている社会という設定なので、「ラザロ計画」そのものが存在しない事になっている世界かも知れません。
もしコロニーに移住した人類がそういう社会なら、アメリアの存在は、コロニーの一般社会には隠蔽されており、クーパーやマーフ、そのほか一部の人間だけの極秘事項であり、彼女の救出作戦なんて考えられないのかもしれません。これなら、クーパーが一人で旅立ったことにも必然性が生まれる。ただ、この解釈がありとするなら、宇宙空間で発見されたクーパーの存在は、コロニー社会でどのように説明されているのかという疑問は残る。
いずれにしても、ラストシーンについては、もう少しスマートな補足をしてもらわないと、クーパーが一人で格好付け過ぎるというのは、ちょっとどうかと思う。
ただ、いずれにしても、この映画は、主人公クーパーと、父親や祖父の守ってきた土地を最後まで守り抜こうとした息子、父を信じて人類を救ったマーフ、そしてそんなマーフの病床を取り囲む子孫たち、このクーパー一家の壮大なる「愛の物語」に帰結できるのでしょう。
ストーリー展開は突っ込みどころは満載ですし、説明不足この上ない作品でありますが、クリストファー・ノーラン監督が贈る、壮大なる人間愛のドラマ、家族愛の大河ドラマ、あるいは「Space Fantasy」と解釈すれば、けっこう面白い作品です。