私の男のレビュー・感想・評価
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熊切和嘉監督が放つ渾身の力作! 二階堂ふみに唸る
北海道出身の熊切和嘉監督が、「海炭市叙景」でもタッグを組んだ撮影監督・近藤龍人と再び相まみえた。浅野忠信の座長ぶりに見惚れ、二階堂ふみの根性に唸らされた。
流氷が来るまで粘り、流氷から海中に落ちても撮り切ったスタッフ、キャストの根性に最敬礼。
16ミリ、35ミリ、デジタルと、3種のカメラを使い分ける撮影手法は必見である。
モスクワで2冠に輝いたが、賞には恵まれなかった二階堂に力いっぱいの喝采をおくりたい。
俺の女
*
気になっていたものの観るには覚悟が必要だと
何年ものあいだ手をつけられなかった作品
観たいと思ったその日は心がどす黒くて
この作品の情景そのものだったので鑑賞
*
そこにあったのは歪んだ愛でした
邪魔な人間には消えてもらわないと
利用できる人間は利用しないと
守るためには手段を選ばない二人がいました
「家族がほしかった」
一般的な家族とは違うかたちの家族
もしかしたら映画だけの話ではないのかも
こういう家族もいるのかも
いろいろな人間がいていろいろな生き方がある
花は結婚して淳悟から離れるけれど
身体を重ねて歪んだ愛を確かめ合うのは
ずっと変わらないのだと思う
花は婚約者のことなんてちっとも愛してなくて
淳悟の生活を守るためにお金と結婚する
*
二人のねっとりとした
異様な光景を目の当たりにして
東京に逃げてしまった青葉さん
雪が似合う清楚な美人だったのに
すっかり変わり果てていて衝撃的でした
僕の想像だけど東京に逃げた青葉さんは
二人のことを忘れたくても忘れられず
夜の街で酒と煙草と男に自分を沈めている
だけど青葉さんは淳悟のもとに
花がやって来ても来なくても
結婚できなかっただろうなと思う
「家族がほしい」と思っているのに
淳悟はいつまでもプロポーズをしないから
*
自分が最低な両親みたいになりたくなくて
淳悟は結婚に踏み切れなかったのかもしれない…
花とはそういう葛藤や努力をする必要はない
青葉さんよりも楽に家族になれる
遠いけど同じ血が体内に流れているという
生まれながらの宿命がそこにあるから
*
【”だって、男ってそういうもんでしょ。”と両親を地震で失った少女は諦観した表情で言った。今作は湿性極まる不快なる映画であるが、二階堂ふみさんの“禁断の愛”の演技が支える作品である。】
■10歳で北海道南西地震により、孤児となった少女・花(二階堂ふみ)は、遠縁の男・淳悟(浅野忠信)に引き取られる。
共に孤独を抱える二人は北海道・紋別の田舎町で寄り添うように生きていたが、6年後、オホーツク海の流氷の上で殺人事件が発生。
それを機に花と淳悟は逃げるように町を出て、東京へと向かう。
◆感想<Caution!やや、内容に触れています。>
・ハッキリ言って、観ていて心躍る作品ではない。親族を震災で全て失った少女花の世を諦観したような言動、行動や、血の繋がっている淳悟との関係性は、不快である。
■作品構成も、原作と比較する積りはないが、分かりやすくない。
それは、長じた花が結婚する相手の男(三浦貴大)と、淳悟がレストランで唐突に顔合わせするシーンや、親が専務のボンボンである男(高良健吾)と会うシーン等、脈絡がない。
だが、私が、今作に3.5を付ける理由は只一つ。
それは、今作での、若き二階堂ふみさんの渾身の演技があるからである。
<浅野忠信演じる遠縁の男・タクシー運転手の淳悟のダラシナイ生活を送る汚い部屋で、共に過ごす花の姿。
観ていると、共依存とも思われる二人の姿が、妙に記憶に残る作品ではある。>
凄い奴が出てきた、その名は二階堂!
やっぱり時間が足らんでしょ
生と性と死
2020年7月6日MOVIX仙台にて鑑賞
それ以来3度目
2度目のDVDで鑑賞
原作未読
なぜ北海道なのか
なぜ奥尻島の震災を絡めたのか
なぜ流氷で人殺しという発想を持ち込んだのか
それが今もよくわからない
大変なロケだったろう
二階堂ふみの代表作
完全にアウトローな話だ
エログロナンセンス
人殺しをしても劇中では逮捕されることがない
それだけではなく「なぜ?なんで?」が多い謎作品だ
性描写はカットしてもいいからリメイクでもっとちゃんとしたものをつくってほしい
だけどこれは駄作ではない
好みが分かれる
PTAとか教育委員会とか常識的な人とか真面目な人とか邦画嫌いには向いていないので無理して観るべきではない
あなたたちをターゲットにして作っているわけではない
模範的な映画ばかりじゃ人生はつまらない
二階堂ふみの演技力がとにかく素晴らしい
必然性はあったが全裸を披露するには若すぎた
映画人は左翼なんだから法律なんか無視して関根恵子みたいに脱がせればいいじゃんと思う
撮影当時17歳なのか18歳なのか19歳なのか知らないがどうでもいいこと
あそこまでやらせたんだから
モスクワで賞を獲ったのなら警察も大目に見るだろう
脱ぎ専門河井青葉がヌード担当
どうやら自称日本通で意識高い系の外人さんたちは日本に悪趣味なものを期待しているようだ
裸の王様に裸ですよと教えることができる大人でありたい
近親相姦もの
父親役が浅野忠信で娘役は二階堂ふみ
某AVメーカーのような明るい馬鹿馬鹿しさはない
こっちの方が一般作だがあっちが日向ならこっちは日陰
ただただ陰湿で気持ち悪い
でも結局は本当の親子というのは設定で浅野忠信と二階堂ふみは本当の親子ではない
だから映画の近親相姦を受け入れられる
僕はセーラをいじめていたラビニアやミンチン先生の声優に剃刀を送るような人間でない
二階堂ふみは『エール』のような国民的爽やかなお芝居より自己中で汚らわしい気狂いを演じる方が大好きだ
はっきりいって好きなジャンルでは無い
それでも映画館で観たのは二階堂ふみが大好きだから
内容を度外視するわけでは無い
だけど自分はそれよりもスクリーンで観るお気に入りの役者が演じる芝居を最優先にしている
無名な人たちだけなら映画館に足を運ぶ事はなかった
やっぱり刑事殺しで逮捕されないなんて監督さんは日本の警察を舐めてるね
警察官はわりと屈強だし拳銃だって所持しているはずだしあっさり殺されるのも不自然
完全に調子に乗っている
それだけじゃ無いけどいろいろなことが腑に落ちないまま本編終了する
なんか惜しいというか残念
自由すぎた
傑作になりえたのに
複雑な気持ちにしてくれる怪作
憧れの人
映像や音は良いんだけど
残念な映画
衝撃を受けた
恐るべき二階堂ふみ
生きる為には…
直木賞作品だという。原作者は桜庭一樹という人らしいが、ペンネームな...
直木賞作品だという。原作者は桜庭一樹という人らしいが、ペンネームなのか女性だという。名前の面からして性別の固定観念を覆すような複雑な気持ちがしたが、この映画との兼ね合いのせいかも知れない。婚外性行為をしている女性がいる男性が、自分の養子にした娘が高校生になった頃には、娘とも性行為しているという設定。映画はR15指定という、14歳以下は閲覧しないで欲しいと断りの入れてある作品である。映画監督も脚本家も主演の浅野忠信も私より5年くらい年下の世代らしい。世代とはあまり関係ないかも知れないが、なぜこうした小説や映画が生まれ、制作を試みた意味とはどこにあるのか。養女なのか実の娘なのかはっきりしないが、原作と映画で違うのかも判断できなかったが、端的に言ってしまえば近親そうかんのタブーだが、近親でなくても、同意の上なら婚外性交渉してしまう現在の日本社会のどのくらいの割合か知らないが、そういう人たちのタブーとはどこまでの線なのか、その線が緩くはないのかという問題提起としては観られるだろうか。重要な役柄に藤竜也が出演しているが、彼は大島渚監督の『愛のコリーダ』で2人の女優と演技中に実際に性交渉してしまったところが問題となったが、77歳となった今は、夫人の芦川いづみという、石原裕次郎らの日活路線の美人と仲良夫婦として暮らしていて、その人物に、実の血のつながっている親子が性行為したら壊れてしまうんだよと叫ぶところが、俳優女優という種類(現在はアダルトビデオ男優女優が英雄視までされるが・・・)の因果を思わせる配役だと思った。近親そうかんだけではなく、演劇の中の性行為シーンや、同意が実はどこまでがタブーかというレベルの相違など、考えさせられる。血はつながっていなくても、同意して結婚しながら捨てて離婚するのも罪ではないのだろうか。その意識が不安定になっている。現在の女性の性倫理意識の崩壊は父親側の性倫理崩壊が関係しているとも言えるのではないか。母娘関係癒着のほうが心理学などでは問題視されているようだが。結婚という制度を破壊する動きが日本ほか世界に出ているが、こうした近親そうかんというテーマを見せつけることは、タブーという大昔から人間が察知してきた部分に気づかせるのだろうか。そして血のつながらないはずの男女が結婚しなくなってしまっているのだ。性の多様化、自由化という曖昧な、いかがわしさの中でだ。タブーを麻痺させる世界的傾向が、子供出生減少から、中絶、虐待などにつながってはいないか。それが多様化、自由化の代償なのだろうか。こういう映画の内容でなければ、浅野忠信の当時39歳くらい、二階堂ふみの当時18歳くらいの、21歳差での性行為演技は、タブーでもない夫婦としての物語だったとしたら、むしろ迎合したいものだったが、ちょっと親子差では離しすぎか、15歳くらいにしておくべきか。LGBTが社会が援助しようとしているなら、年の差婚はもっと簡単に援助できそうなのに、行政もメディアもLGBTよりもあまり扱わないのである。性行為シーンだけではなく、暴力シーンもR15の映画だと思わされるが、主演の男女が病的にミステリーとして推移していくところは、そうでもないとタブーへの了解にとられるからだろうか。夏目漱石の『こころ』も悲劇で終わらねばならない小説だった。舌へのピアスや合コン三昧のような描写も出てくる。「結局、一人ひとり別々の世界で生きてるんですね」という二階堂のセリフが、個人主義の裏を語っているようにも思えた。二階堂のセリフには、「自由って飽きるんですね」というのもある。脚本は宇治田隆史75年生。監督は熊切和喜74年生。主演は浅野忠信73年生。映画はこの文章の5年前。男女の乱れの他にも、『蛇とピアス』に出ていた高良健吾が被害者的役柄になっているのも不気味な配役かも知れない。個人個人の狂気やずれの積み重ねが普遍になってしまう恐怖というのも思った。こうした半面教師的な映画は誰のためにあるのだろう。逆に年の差とか経済格差などの結婚に不利に思われる状況はなにから逆転できるのだろうか。さらになぜか二階堂演ずる娘は結婚できるが相手は高良ではなく、三浦貴大という、山口百恵と三浦友和という、夫婦愛の自然に模範的なカップルの息子である。その人物がつまみにされているこの配役もせせら笑いされているような気もするのは、私の悪質な心から感じ出てくるのだろうか。理解できるようだと危ない映画なのだろうが、原作が直木賞で映画も国内外で賞を得たのは一体どこからなのだろうか。そこがミステリーであり、ホラーなのだろうか・・・。罰を受けずに隠れている人たちは多いぞという恐怖への示唆だろうか。ラストの音楽も不協和音のような作品を使っていた。
浅野が父親になれない理由は恐らく二階堂にあったんだな。 父親になり...
浅野が父親になれない理由は恐らく二階堂にあったんだな。
父親になりたい浅野。
でも男として求めてくる二階堂。
二階堂が連れてくる男に事あるごとに言う「おまえには無理だ」これは"おまえじゃ二階堂を扱いきれない"ということじゃないかなぁと思った。
んでタイトルにもある通り、二階堂が私の男として浅野を離さないんだろうなぁ。
恐ろしい娘、恐ろしい女だ。
どことなく「悪人」 っぽかった。
もちろん悪人の方がおもしろかったけど。
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