劇場公開日 2014年6月14日

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「直木賞作品だという。原作者は桜庭一樹という人らしいが、ペンネームな...」私の男 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)

1.5直木賞作品だという。原作者は桜庭一樹という人らしいが、ペンネームな...

2019年6月30日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

怖い

直木賞作品だという。原作者は桜庭一樹という人らしいが、ペンネームなのか女性だという。名前の面からして性別の固定観念を覆すような複雑な気持ちがしたが、この映画との兼ね合いのせいかも知れない。婚外性行為をしている女性がいる男性が、自分の養子にした娘が高校生になった頃には、娘とも性行為しているという設定。映画はR15指定という、14歳以下は閲覧しないで欲しいと断りの入れてある作品である。映画監督も脚本家も主演の浅野忠信も私より5年くらい年下の世代らしい。世代とはあまり関係ないかも知れないが、なぜこうした小説や映画が生まれ、制作を試みた意味とはどこにあるのか。養女なのか実の娘なのかはっきりしないが、原作と映画で違うのかも判断できなかったが、端的に言ってしまえば近親そうかんのタブーだが、近親でなくても、同意の上なら婚外性交渉してしまう現在の日本社会のどのくらいの割合か知らないが、そういう人たちのタブーとはどこまでの線なのか、その線が緩くはないのかという問題提起としては観られるだろうか。重要な役柄に藤竜也が出演しているが、彼は大島渚監督の『愛のコリーダ』で2人の女優と演技中に実際に性交渉してしまったところが問題となったが、77歳となった今は、夫人の芦川いづみという、石原裕次郎らの日活路線の美人と仲良夫婦として暮らしていて、その人物に、実の血のつながっている親子が性行為したら壊れてしまうんだよと叫ぶところが、俳優女優という種類(現在はアダルトビデオ男優女優が英雄視までされるが・・・)の因果を思わせる配役だと思った。近親そうかんだけではなく、演劇の中の性行為シーンや、同意が実はどこまでがタブーかというレベルの相違など、考えさせられる。血はつながっていなくても、同意して結婚しながら捨てて離婚するのも罪ではないのだろうか。その意識が不安定になっている。現在の女性の性倫理意識の崩壊は父親側の性倫理崩壊が関係しているとも言えるのではないか。母娘関係癒着のほうが心理学などでは問題視されているようだが。結婚という制度を破壊する動きが日本ほか世界に出ているが、こうした近親そうかんというテーマを見せつけることは、タブーという大昔から人間が察知してきた部分に気づかせるのだろうか。そして血のつながらないはずの男女が結婚しなくなってしまっているのだ。性の多様化、自由化という曖昧な、いかがわしさの中でだ。タブーを麻痺させる世界的傾向が、子供出生減少から、中絶、虐待などにつながってはいないか。それが多様化、自由化の代償なのだろうか。こういう映画の内容でなければ、浅野忠信の当時39歳くらい、二階堂ふみの当時18歳くらいの、21歳差での性行為演技は、タブーでもない夫婦としての物語だったとしたら、むしろ迎合したいものだったが、ちょっと親子差では離しすぎか、15歳くらいにしておくべきか。LGBTが社会が援助しようとしているなら、年の差婚はもっと簡単に援助できそうなのに、行政もメディアもLGBTよりもあまり扱わないのである。性行為シーンだけではなく、暴力シーンもR15の映画だと思わされるが、主演の男女が病的にミステリーとして推移していくところは、そうでもないとタブーへの了解にとられるからだろうか。夏目漱石の『こころ』も悲劇で終わらねばならない小説だった。舌へのピアスや合コン三昧のような描写も出てくる。「結局、一人ひとり別々の世界で生きてるんですね」という二階堂のセリフが、個人主義の裏を語っているようにも思えた。二階堂のセリフには、「自由って飽きるんですね」というのもある。脚本は宇治田隆史75年生。監督は熊切和喜74年生。主演は浅野忠信73年生。映画はこの文章の5年前。男女の乱れの他にも、『蛇とピアス』に出ていた高良健吾が被害者的役柄になっているのも不気味な配役かも知れない。個人個人の狂気やずれの積み重ねが普遍になってしまう恐怖というのも思った。こうした半面教師的な映画は誰のためにあるのだろう。逆に年の差とか経済格差などの結婚に不利に思われる状況はなにから逆転できるのだろうか。さらになぜか二階堂演ずる娘は結婚できるが相手は高良ではなく、三浦貴大という、山口百恵と三浦友和という、夫婦愛の自然に模範的なカップルの息子である。その人物がつまみにされているこの配役もせせら笑いされているような気もするのは、私の悪質な心から感じ出てくるのだろうか。理解できるようだと危ない映画なのだろうが、原作が直木賞で映画も国内外で賞を得たのは一体どこからなのだろうか。そこがミステリーであり、ホラーなのだろうか・・・。罰を受けずに隠れている人たちは多いぞという恐怖への示唆だろうか。ラストの音楽も不協和音のような作品を使っていた。

Takehiro