バイロケーションのレビュー・感想・評価
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表裏一体
自分の前に現れたもう一人の自分。
“バイロケーション”と呼ばれるそれは、大切なものを奪い始める…。
本作の造語かと思いきや、実際にあるとされる“同時同所存在”の怪奇現象だそうな。
ドッペルゲンガーと似てるが、違う。
ドッペルゲンガーは他人と関わらないが、バイロケーションは他人と関わる事が出来る。
オリジナルの記憶を持ち、オリジナルのように振る舞う。つまり、他人から見ればオリジナル。
短時間で消えるが、オリジナルの近くに現れ、神出鬼没。
一応オリジナルかバイロケーションか判別する方法はあるが、バイロケーションが犯罪でも起こしたらたまったもんじゃない。
気が付いた時には、人生をメチャクチャにされ、奪われている事も…。
角川ホラー文庫20年を記念し、賞にも輝いた同名ホラー小説を、ホラー作品で手腕を奮う監督が映画化した本作。
突如現れるバイロケーション、不気味に動く眼球、アナベル人形にも匹敵するバイロケーション人形などゾクッとさせる点もあり、ホラーにジャンルされているが、ミステリアスなサスペンス・ドラマの印象の方が強い。
公開時は「シックス・センス」を超える衝撃!…と宣伝されたらしいが、さすがにそれは煽り過ぎ。しかし、部屋の色、合言葉のようなメンバーの名前、ヒロインの髪形など伏線も張られ、気抜いて見てると、オリジナルかバイロケーションかの如く、頭の中が混乱してくる。(もしかしたら、それが狙いか?)
悲しいドラマの要素もなかなかで、それを体現した水川あさみの熱演は特筆するに値する。魅力的ではあるものの、女優として印象に残った事はあまり無いが、バラエティーで見せる明るい素顔とはまるで違う本作でのシリアスな演技&一人二役は見事であった。
他キャストも怪演を披露。中でも、“バイロケーション”の滝藤賢一はさすが。
ツッコミ所は多々あり(銃撃つ前に鏡で確認しろや!)、結構賛否あるようだが、話にも引き込まれ、ジャパニーズ・ホラーにありがちな後半グダグダ&失速も無く、思ってた以上に良かった。
やはり本作は、バイロケーションの存在について考えさせられる。
見てると分かる通り、もう一人の自分…もっとよく言うと、相反して生まれた精神分離、表裏一体。
滝藤演じる刑事の理不尽な上司への憎しみ、酒井若菜演じる病気の我が子を殺そうとしそれを後悔。
いずれも激しいマイナス感情がバイロケーションを生み出した要因だが、水川演じるヒロインの場合はちょっと違うような気がする。
画家を目指すオリジナル(桐村)と、結婚して幸せに暮らすバイロケーション(高村)。
画家を目指すも挫折したマイナス感情から生まれたのは同じであっても、憎しみから生まれた先の二人のようにバイロケーションに命を狙われはしない。そこに憎しみは無いからだ。
オチはオリジナルにとってもバイロケーションにとっても衝撃ではある。
あの時、画家を続けていたら…。あの時、玄関に出ていたら…。
どちらを歩むべきだったか、どちらが幸せだったかなんて分からない。
どちらもこうありたいと望んだ自分なのだから。
公開時は、バッドエンディングの「表」とグッドエンディングの「裏」が“バイロケーション公開”。
別バージョンのオチまで同じものを見せられるが、伏線などを確認するには充分。
救いの余韻に浸れる「裏」もいいが、やっぱり「表」かな。
もう一度観なおしたくなる
ホラーと思ってみていると、そうではない。
よく練られたストーリーで飽きさせないし、カラクリがわかるとなるほどと思わせる。
最後はやはり自殺してしまうんだろうなと…。悲しいエンディング。
もう一度観よっと。
海外リメイクに耐える内容だと思うので期待したい。
「ホラー」扮する「*****」
本作は、ジャンルこそ「ホラー」に分類されていますが、その正体は「解離性障害」についての「健常者」による無理解を問題として提起しているものと私は解します。
というのも、私は「解離性障害」当事者であり、同じような経験をしているためです。
例えば、映画館へ鑑賞しに行く場合、確かに半券はポケットに入っているし、レビューも書いているのだから行ったに違いない。にもかかわらず、その実感は時とともに薄れゆき、いつしか「もう一人の誰か」から聞いたことを自分の記憶として蘇らせている、つまりは「自分という他人」を通してしか体験を理解できない。
例えば、学問している「自分」の記憶は、自転車に乗りアルバイト先のDVDレンタル店へ向かい、そこで仕事している「自分」の記憶との間で分断され、それぞれの「自分」は「自分自身」の学問やら仕事やらの記憶を一本の線模様に描けるが、もう一方の「自分」の記憶へとアクセスできない、つまりは「記憶にない」。また、記憶がもう一方の記憶へと切り替わる際に、その前後の記憶が消失してしまうため、自転車で自宅と職場を往復した証拠が見当たらない。瞬間移動したのだろうか、いや、ないない。歩いていったとするならばあまりに歩数計の数値が小さすぎる、だから(消去法的に)自転車で行ったのだ、という具合。
「解離性障害」はWHO(世界保険機構)がICD-10に記載があるものの、いわゆる「精神病」ではなく、生きることへの障害に過ぎません。
本作に沿って話をするならば、まず、「もう一人の自分」=バイ・ロケーションを殺そう、隔離しようとする立場(これが豊原功補扮する飯塚)、バイ・ロケーションとの共存を信じる立場(高田翔扮する加賀美)があって、各々が私自身が診察されてきた精神科医のパターンと恐ろしいほど重なります。
そして、この立場は「患者側」にも合致するものです(水川あさみ扮する桐村忍および滝藤賢一扮する加納隆が前者であれば、後者は千賀健永扮する御手洗巧)。
繰り返しになりますが、「解離性障害」は生きることへの障害に過ぎません。しかしながら、その障害は目に見えない。だから厄介で、当事者である「自分」は周囲が現在の悩みやら苦痛やらを理解してくれると始めは信じ、家族を含め周囲へとヘルプを発しますが、それが無駄だと知ったとき、その願いは絶望へと姿を変え、「バイ・ロケーション」という現象となって乖離・誕生するのです。さらにその「もう一人の自分」さえも、届かなかった助けての願いが叶うと思い込み(鏡に映ると錯覚する場面が象徴)、自己を慰めたり、自己実現のため行動に出たりするわけです。
本作の最重要テーマは「もう一人の自分との共存できるか」にあり、しかも答えまでも提示しています。
「できない」(自殺や事件惹起)のは、周囲の理解がなく、あるいは受け止めてくれる者がいない場合。愛情には様々な形態があるでしょうが、中でもプラトニックな愛情を共有できる関係(浅利陽介扮する高村勝)や、純粋な家族愛、友情さえあったのならば、私自身、自殺未遂に二度目三度目はなかったと思うほど重要な「目に見えないもの」に違いありません。同時に、この叶わぬ願い自体が共存「できる」居場所です。
最後、主人公が自殺したにもかかわらず、彼女のバイ・ロケーションは子(純粋な愛)を授かり、以て実体を得ますが、実は、この描写こそが、テーマの答え。すなわち共存は「できない」を象徴すると私が解するのは、そもそも先の居場所さえあったのならば、バイ・ロケーションなど生まれないからです。
一度生まれてしまったらどうするのか。治療する?いえいえ、病気ではないので。じゃあ、どうするの。さあ?共存するしかないんじゃない。ちょっと待った、さっき共存「できない」って言ったじゃないか。まぁ、それは「いまの社会的には共存」できないんであって、身近な人が少しでも、体験できないことを理解する視点を持ちはじめたら、いつかは「障害」ですらなくなるって。自分自身が生きる障害でも、周囲が異常な人間として排斥する意味での障害でも。
先日本屋でふと、『解離性障害—「うしろに誰かいる」の精神病理』(柴山、ちくま新書、2007)を手にとりました。まえがきには「患者を支える家族、友人、恋人にぜひ読んでほしいと思っている」とありました。
ホラーというカテゴリーでしか受け入れられない現代社会は「私たち」にとってはまだまだ夜明けまえなのです。
共存できない2人のあなた 【裏バージョン追記】
ホラー短編集『怪談新耳袋』で何編かを手掛け、
『呪怨』のスピンオフ作品である『呪怨 黒い少女』、
メタフィクション構造のアイドル主演ホラー『ゴメンナサイ』
でも才気を奮った安里麻里監督の新作。
「『シックス・センス』を越える衝撃!」という宣伝文句は
たぶん今まで50回くらい聞いたと思うのだが(笑)、
本作に関しちゃこの宣伝文句はわりかしウソじゃないと
思いましたよ、あたしゃ。
自分が本物だと思っていたら実は……という展開はまだ読める。
だがその先の、それまで注視していた筈の物語の構造を
根こそぎ引っくり返すひとヒネリがなかなかスゴい。
* * *
そして何より、鑑賞後に感じるこの物悲しい余韻。
「あの時あの道を選んでおけばどうなっていただろう?」
『バイロケーション』の物語の出発点は、
きっと誰もが一度は考えるそんな疑問なのだろう。
もしかしたら自分は、自分の夢を叶えていたかも。
自分の才能と努力が世に認められていたかも。
嫌な上司を押し退け、高い地位と名声を手に入れていたかも。
家族に縛られない自由な人生を生きていたかも。
大好きなあの人と幸せになれていたかも。
質問自体が無意味だという事は自分でも重々分かっている。
けれどそれでも、その問いは僕らの心を苛み続ける。
もう1人の自分の姿。
自分が望むものを手に入れた、幸せな自分の姿。
取り戻せないものを思い続ける。あるいは、
取り戻せないものを取り戻そうと躍起になるあまり、
今手にしていた筈の大事なものまでも失ってしまう。
この物語にはそんな悲しみがある。そこに強く惹かれる。
* * *
なので、この映画の恐怖は幽霊モノのようなホラーというよりは
サイコスリラーのそれに近い。主人公らを追い詰めるのは、
主人公ら自身が抱える執着が増大した結果だからだ。
“バイロケーション”が日を重ねるほどに凶暴化していく様は、
日々押し殺してきた不満が蓄積し続け、やがて爆発するのにも
似ている。
* * *
劇中でもっとも凶暴だったのは、近ごろ引っ張りダコの
滝藤賢一おじさん。この方はひょろりとした体型に不釣合いな
ごろんとした眼が怖いっすねえ。
酒井若菜の役も良かった。彼女が息子から「ニセモノ」と
罵られる辺りから、物語が俄然面白くなりだしたと感じた。
主演の水川あさみも良い。6Fの主人公の鋭く孤立した雰囲気。
対して、5Fの主人公のわずかに柔和な雰囲気。2つの人生を
過ごした人間の微妙な表情の差を巧く表現できていたと思う。
* * *
まあ、これだけごちゃごちゃしたプロットなので色々と
整合性の合わない部分やあやふやな部分もあるよーな気もする。
“バイロケーション”の出現ポイントやタイミングや
一部の人物の行動はあまりに物語に都合が良すぎるし、
(銃を撃つ前に手鏡を使わなかった点はどうしても納得いかない)
最大のドンデン返し以降が間延びしてしまった印象も受ける。
主人公の“バイロケーション”だけが彼女に襲い掛からない理由も
弱いかなあ。住居が2つあった点や、出現から日が浅い点が
ポイントではあると思うのだけれど。
* * *
とまあ、気になる点はちらほらあるが……
個人的にはかなりかなり好きな映画。
僕は恐怖映画とダウナーな物語に弱いんすよ。
高過ぎると思われるかもだが、4.5判定で!
さて、本作は結末の異なる『裏』バージョンも公開されるとか。
いつもは「別エンディングなんてDVD特典で十分」と思っている
僕なのだが、たぶん今回は裏バージョンも観てしまうと思う。
リピートしないと話を整理できない部分だらけだし、
そして、主人公の別の結末を観てみたくてしようがない。
これもまた、「あの時ああしておけば」という気持ちから来る
同情のようなものなのかもしれないが。
〈2013.01.18鑑賞〉
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追記:
裏バージョンを鑑賞。最後の最後以外は『表』と同じなので
「あれ、『表』じゃないよね、これ……」と若干焦った(笑)。
ちょいと都合が良すぎるかなあとも思うが、
救いのあるラストシーンにホッとした。
『表』は全く救いがないものね。
それに、バイロケ(高村)にとっては幸せな結末だったが、
求めたものをひとつも得られなかったオリジナル(桐村)
の末路を考えるとやっぱり物悲しい。
けど、それでも全く救いのない『表』の方が好きな自分。
いやはや、ダウナー好きにも程がある(笑)。
〈2013.02.15鑑賞〉
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