レイルウェイ 運命の旅路のレビュー・感想・評価
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本人たちにしかわからない
実話をもとにした話。
ローマクスの思いも、ナガセの思いも、本人たちにしかわからない。少なくとも彼らは分かり合えた、そこに希望が持てる。
捕虜になってするのがラジオを作ること。その時点でもう敵わないと思ってしまう。
受信機なのに送信機だと言い張って自白を引き出そうとする日本側はいかにもすぎる。
日本の敗北が近いという情報がラジオで流れていたという本当のことをローマクスだけが言ってくれたのだというナガセ。
通訳は戦争犯罪者ではないのか。考えさせられる問題だった。
凄いものを観てしまった
ホントにそう思う。
これが実話に基づくストーリーだと言うことに
驚くしか出来なかった。
コリンファースが好きで観たっていう簡単な動機だったのだけど、最後の最後に実話だと解って更に涙が溢れた。
第二次世界大戦中の出来事だったのだけど、
残酷で悲惨、人々を永遠に苦しめ続けるのが戦争だと改めて感じた。
ドンパチやってるだけが戦争ではない。
アメリカンスナイパーでもそうだったけど、
戦争が終わってからもまだ当事者たちの中では終わって居ない。
ローマクスが永瀬を心から赦したって、、、
本当かよ、と。
私は無理だ。
そして拷問を受けている最中にもあんな風に強くは居られない。
本当に凄い人だ。
もう言葉になりません。
個人的には「彼は僕とは違う。彼には君が居ないんだ」
がナンバー1セリフでした。
苦しみと憎しみの“死の鉄道”の先には…
退役軍人のローマクスは、列車の中で同席した女性と知り合い、結婚。
が、妻は、普段穏やかで真面目な夫が時々精神が錯乱する事を気にかける。
彼を長年苦しめているのは…
第二次大戦中、日本軍の捕虜となり、タイ~ビルマ間の泰緬鉄道の過酷な労働に従事させられたイギリス軍人の自叙伝の映画化。
鉄道建設の秘話が語られると思っていたら、見ていて非常に、時に胸が痛く、苦しく、そして胸打つ作品であった。
ローマクスを苦しめていた過去の記憶。
それは、日本軍による拷問。
木の棒で殴打、水責め…その描写はかなりの鬼畜の所業。
だから見ていていい気分のもんじゃない。
日本人が悪く描かれているからではなく、ローマクスの苦しみがあまりにも悲痛だから。
ある時ローマクスは、当時通訳だった日本軍人・ナガセが、かつての忌まわしい場所で、戦争の悲惨さを伝える案内人をしている事を知る。
ローマクスと共に捕虜だった友人は復讐を考えるが、ローマクスは反対する。
その矢先、友人は自ら命を絶つ。
何かが吹っ切れたように、ローマクスはナガセに会いに行く…。
やはりここが最大のハイライト。
コリン・ファースと真田広之の二人の名優の名演で、非常に緊迫感ある対峙シーンとなっている。
今度はこちらが優位に。
積年の憎しみをぶつけるかのように、ナガセを咎める。
ナガセは通訳だった事を理由に、戦争の罪から逃れていた。
ローマクスにしてみれば納得いかない。
確かにナガセは通訳で、直接拷問に手を下した訳ではないが、自分たちを苦しめた罪を償っていないとは。
が、彼も苦しんでいたのだ。
だからこそ、今もこの場に来て、自分たちの行いを伝え続けている。(ずっと日本に帰らなかった訳ではないが、何処か「ビルマの竪琴」の水島を彷彿)
きっとナガセは自分の罪を罰して欲しかったに思う。あの覚悟は紛れもなくそう。
ローマクスが下した決断は…
共に苦しみを抱えた二人の男が、長い歳月を経て、会っただけでも意義があると思う。
勿論咎めたい、罰したいだろう。
でも、いつまでも憎しみ、苦しみを抱いたままでは戦争は終わらない。
もう戦争は終わったのだ。
だからもう、憎まなくても、苦しまなくてもいいのだ。
最後の二人の姿に救われた。
トランスレイター
原作が実話でも小説でも映画の出来には関係ない。心に刻まれる価値のある話かどうか、映画を見た時間が無駄だったのか無駄ではなかったのか、映画はそれだけで判断されるべきだ。正直、実話かどうかはどうでもいいのに、「これは実話に基づいた映画だ」ということを前面に出しているところが、この映画の限界である。
戦争という個人の責任を超えた問題と、個人の憎しみ。この映画の原作を読んでいないが、個人の追想記だと見て間違いないだろう。個人の著作であればそれで良いのだが、これを映画にすると、少し話が違ってくる。第一に多くの人と金が関わるので、映画が原作より力(権力)を持つ。第二に個人以外の第三者(しかも社会的経済的に力のある第三者)が原作を妥当と認めたと判断され、原作より映画は客観性を持つ。つまり、映画製作は原作を出版するよりも責任が大きいはずである。
日本人兵士を槍を振り回す未開民族のように描くのは問題だということ以前に、プロット自体に欠陥があることを指摘したい。戦争「加害者」と戦争「被害者」の和解がテーマなのに、なぜ、和解する「加害者」が通訳なのか?しかもこの通訳は「自分は通訳しただけで被害者に拷問などしていない」と宣言しているのだから、本当の意味で加害者ではないのである。
この映画を見て空しくなるのは、本当の加害者は被害者と和解していないのだなあ(あるいは和解できないのだなあ)という脱力感に襲われるからである。通訳という立場の「加害者」と被害者が「真の和解」を成し遂げるという実話を映画化した時の影響を考えるならば、実話を曲げて、拷問した日本人兵士もしくは上官を和解の当事者に据えて欲しかった。それこそが、実話の作者にとっても、観客にとっても、本当に願っているストーリーである。もしくは、通訳が拷問に加わっている情景を嘘を承知で描写すべきであった。もちろん、フィクションであることを明記して。
「恩讐の彼方に」
第二次大戦下で日本軍の捕虜となり、タイ・ビルマ間の鉄道建設の過酷な労働を強いられたエリック。戦後数十年経っても、そのときのトラウマに苦しんでいる。その彼と、当時の日本軍通訳との再会は、まるで菊池寛「恩讐の彼方に」のようなクライマックス。贖罪と、赦し。
最後、落としどころ(その後、親友と呼び合うほどの交流)がないのは、単なる美談で済ませたくなかったからだろうか?
通訳(真田広之)が、戦争の責任をあそこまで個人で背負い込むことに、やや疑問あり。
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