劇場公開日 1980年4月26日

「「実在」なき者の「実存」」影武者 neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5「実在」なき者の「実存」

2021年4月1日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

『影武者』は、表層では「信玄の死を隠して戦国の均衡を保つ」という歴史ドラマですが、その核には存在論・自由意志・理念の喪失といった深い哲学的主題が埋め込まれています。私はこのうち「実在」と「実存」という部分に特に注目してみました。

「実在」=制度・社会・血統・名前など、他者(社会)によって承認されている存在。
「実存」=自己の内面からの自由な選択と責任によって形成される倫理的存在。

武田信玄は、「実在」と「実存」の両方を持っている人物です。彼は武田家の当主であり、父であり、戦国大名という制度的実在を有しながら、同時に「人を殺してきた、だがそれには理由がある」と語るように、自らの行為を倫理的に引き受ける主体としての「実存」をも併せ持っている。このとき、「実在」と「実存」が一致しており、存在と行為に齟齬がない状態です。

一方、影武者は初めは「実在」がありません。ただの盗人であり、武田家とも、信玄とも、何の関係もない。彼には血筋も名前も地位もなく、社会的にも制度的にも「存在していない者」として扱われます。

しかし物語が進むにつれ、影武者は信玄の「ふるまい」(姿勢、口調、判断)を演じることを通じて、次第にその内面にまで影響を受け始めます。当初は外面だけを模倣していたのですが、模倣を繰り返すうちに、その「ふるまい」に宿っていた倫理や責任感、つまり信玄の実存的態度が、徐々に彼の内側に内面化されていきます。

特に象徴的な場面は、戦場で彼自身を命がけで守る兵士たちに出会ったときです。自分が演じている「影」に対して、それを知りながらも本気で命を懸ける者たちがいるということが、彼の中に激しい動揺と覚醒をもたらします。このとき、影武者は「信玄として振る舞う自分」と「盗人である自分」のあいだに裂け目を感じながらも、それを越えて自らの意志で意味を引き受け始めるのです。ここで彼の中に「主体」が芽生えるのです。つまり、模倣によって得た外的ふるまいが、倫理的意味を帯び、「実存」が芽生えた瞬間です。

ですが、彼には依然として「実在」がありません。制度においては武田信玄ではなく、身分もなく、背中に傷がないことで正体がばれ、追放されます。これは「制度的実在」を持たない者が、いかに内面的に「実存」を獲得していても、社会構造のなかでは存在として認められないという現実を示しています。

彼は最後に、誰から命じられたわけでもなく、自らの意志で槍を持ち、敵陣に突撃していきます。命じられたのではなく、演技でもなく、自らの行為として選び取った突撃です。これは盗人でも、影でもなく、一人の実存的主体として行動した瞬間です。そのとき、彼は制度に裏付けられた「実在」を超えて、主体的に存在する者=「実存」となったのです。

しかし、今述べたように、影武者は誰からも命令されていないし、自分が本物でないことも知っています。さらに勝てる見込みもありません。にも関わらず、自分から行くという選択をします。この「自発性」は第二次世界大戦の特攻や玉砕を遂げた日本兵や国民たちの行動と重なります。彼らもまた、自分が国家の理念を完全に体現しているわけではないし、勝てるとも思っていなかったでしょう。にも関わらず、自ら志願し殉じていったのです。

理念はすでに存在していたものですが、信じたのは自分です。さらに、殉じたのは命令ではなく“自己の内なる声”によるものです。しかし、その“内なる声”は、果たして純粋な自由意志による選択なのでしょうか。それとも、国家や社会の理念が無意識のうちに内面化され、あたかも自発的に思えたものだったのかもしれません。

そして、彼の死とともに流されていくのが「風林火山」の旗です。かつて確固たる理念とされたその言葉ですら、もはや川の流れのなかで朽ちていくのです。このシーンには、『平家物語』や『方丈記』のような日本古来の無常観、時代の流転と人間の儚さへの達観が滲んでいます。

この作品を通じて黒澤は、人間の自由意志の限界と、理念や存在が時代の大きな流れに呑まれていく様を描き出しています。そこには、かつて自身が持っていた映画監督としての「信玄」の座から滑り落ち、自らの「影」として再起を図った黒澤自身が投影されているようにも見えます。

『影武者』は、黒澤明が戦後の倫理と存在を問い直すために選んだ、もっとも抽象度の高い作品です。そして同時に、理念に生き、理念とともに滅びる「日本人」そのものを映し出す、鏡のような作品でもあります。他者の期待、社会の構造、役割や制度の仮面を脱ぎ捨てたとき、「自分は自分であり続けることができるのか?」という問いを突きつけてくる。そんな作品なのではないでしょうか。

4K UHD Blu-rayで鑑賞

90点

neonrg
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