かぐや姫の物語のレビュー・感想・評価
全83件中、1~20件目を表示
小学生の娘と見ました
初見でした。もうジブリ好きには高畑勲さんの遺作であり宮崎駿さんとの相剋!ジブリ経営者としての鈴木敏夫さんとの関係など、話題性のありすぎる作品でいつか観たいと思ってました。
とはいえ観たままの感想はというと、中身が詰まりすぎて作品自体は面白くなかったです。ただ作品が駄作というわけでなく、自分の語彙では表現出来ないですが、全てが緻密に構築されたアニメでした。
印象に残ったとこ
・最初の方の赤ちゃんの姫がでんぐり返りしてる描写が可愛い🩷自分の子供の小さい頃を思い出した
・翁が竹をサクッと切る描写が気持ちいい
・崖から落ちた姫が捨丸に抱っこされるシーン
・姫が桜の下で踊るシーン
・都が魅力的でない
・月から迎えにきた人の作画が仏画の典型
※なお、中学生の息子は学校の教室でこの映画を観たそうです。
※自宅でDVD版を見たが、小学生の娘は途中どこかへ行ってしまい、最後に帝と関係するあたりで帰ってきて、最後まできちっと観られたのは自分だけでした。
普通のかぐや姫の話
...............................................................................................................................................
かぐや姫の物語。
...............................................................................................................................................
うーん、よく分からない。普通のかぐや姫の話じゃないのかな。
っていうか原作をよう知らんから、どこまでが演出なんかも分からん。
面白いは面白いが、そんなに評価の高い作品とも思えず。。
絵のタッチが個性的。 あえて月が物質であることを前提にし宇宙とボー...
絵のタッチが個性的。
あえて月が物質であることを前提にし宇宙とボールアース(地球)を描写している。
ファンタジー映画はメッセージ性が強い。高畑勲監督だからなおのこと。
老夫婦視点だと子供の成長は早く感じるだろう。
空を飛べば天へ登ると思うだろう。
竹やぶに赤子がいれば輝いて見えるかもしれない。
エンターテイメントは誇張や捏造が醍醐味だ。
時代が違えば言葉も価値観も異なる。物の測り方、時間の測り方は現代とは違う。
わかりやすくするために現代風にアレンジする。
絵ではどんな想像も創造出来てしまう。
本作の絵のタッチは、穢れた絵や書物を鵜呑みにするべからずというメッセージに説得力を持たせているように思う。
高畑勲監督は一貫して、穢れた世界に生きる儚き美しい命を丁寧に描写する。
人間讃歌。 感情に揺れ動く人生こそ、彩り溢れる人間の世界
時折思い出すであろう作品。
月の世界からきたかぐや姫が人間世界で様々な情動を生き、月に帰っていく話。
解脱の否定であり、苦しみや喜び、世界を体験し生きていくことこそが人間だ、というメッセージを感じた。
最後のシーンが忘れられない。月からお釈迦様が現れかぐや姫を迎えに来るシーン。
ハッピーな音楽、苦のない世界、放たれた弓矢も和やかな花に変わっていく。
絵も音楽も明るいのにこのシーンがものすごく怖い。
人とは違うものが空から降りてくる、山の奥にいる幽霊を見る怪談と質は変わらない。
羽衣をかけられたかぐや姫は目の色が変わり現世を忘れ取り込まれてしまう。
こういった月の世界と、今まで歩んできた現世の彩り(捨丸兄ちゃんとの邂逅や都からの逃走など)が対比されている。
まだまだ人生半ば、色々なことがあってその時々はいっぱいいっぱだけど、これも人生の彩りだと思ってその時を精一杯いきていこうと思える。
原作に基づいたが故の結果ギャグ
原作者も不明であれば、脚本にもう少し融通をきかせてかえてもよかったかもしれない。
色々な要素が組み合わさった結果、かなりギャグとして面白い作品ではあった。
独特な古風なタッチはどちらかといえば嫌いではないが、静止画一枚でかぐや姫のガチ切れ顔を映すシーンとかは非常にシュールで面白くなってしまった。
名付けじじいが恍惚の表情を浮かべながら車輪と顔が重なるシーンもかなり笑った。
そして最後の観音様が陽気なドラゴンナイト風のエレクトリカルパレードを奏でながらやってくるシーンは雰囲気をぶち壊しすぎて爆笑。
あれで感動がかなり興醒めしてしまった。なんだかんだ魅せるところは魅せれていたので、及第点は達成している?かも。
年齢を重ねるごとに視点が変わる作品を「名作」という
ステイホームの片付けで出てきたジブリ作品の見直し中で、2021年にして初めて観て、衝撃を受けました。多分、これからの人生で、何度も観ると思います。
自分の人生を見直したいと、強く思わされる作品。
「私は生きるために生まれてきたのに、自分の心を誤魔化して、私はいったい、この地で何をしていたのでしょう、帰りたい・・・!!!」
今わの際の人間の普遍的な叫びを竹取物語の中に読み込む手腕。
登場人物が一人ずつ自分の人生を、「リアリティ」をもって生きて、動いて、重層的に行き交う作品。
いまさらですが、ほんとうに、高畑監督は天才です。
■姫、翁、媼の個性について
人間としてのリアリティをもつということは、矛盾をもつということ。
かぐや姫は、父のためと、流されて生きてしまった。そのあっさりとした適応や、突発的な激情や従順や悟りは、成長期の人間のそれ。
帝のもとへ行けと言うのなら殺してくれ。
初めての明確な拒否。
逃げる性質の姫が、はっきりと言葉にした、コミュニケーションへの初参加。
このかぐや姫に、もっと生きていく時間があれば、初めての明確な前に進む意欲も、生きているうちに掴み取れたのかもしれない。
翁は、子供を幸せにすること=学歴、富裕層、玉の輿という固定観念の虜だった。
自分が、なんの固定観念の虜になっているか、はっきりと分かっている人間なんて、いない。
早合点して突き進み、進めば進むほど、自分の過ちは硬く殻になって自分を包み、見えなくなっていく。
翁の功名心、成金のいやらしさ、見栄虚栄、おべっかやブランド崇拝、出世欲のようなものはちらほら出て来るけれども、大本をただせば、「姫の幸せ=高貴な姫」が大前提であるとことが、翁の憎めないところ。
公達の求婚も断ったなら断ったで、しょんぼりと気落ちしているのがその良い証拠。
本当に、自分の名誉欲ありきの業突く張りの親ならば、虐待して恐怖心で洗脳してでも、かぐや姫に自分の言うことを聴かせることでしょう。
媼は、初登場から、仏様のような賢者ぶりがすごい。
赤ん坊を育てると直観するところも、成金暮らしにも微動だにしないところも、安定した人格の美徳を示す。
だが、単なる神がかった三文キャラクターを作らないところが、天才高畑。
媼もまた、リアルな人間としての、業を含んでいる。
賢者は観察してしまうのだ。
静観してしまう。物事を動かさない。
媼がかぐや姫を山に戻したのは、寿命を迎えたあとでした。
でも、リアルに巻き込まれて必死に生きているとき、事件の渦中で、娘を山に戻さなくてはと、最適のときに決断できる人間が、いったいどれだけいるのでしょうか。
■竹取物語の根幹
「私はきっとこうすれば、幸せになれた、いまそれが分かった」
振り返って、幸せを逃したことを知る。
自分の幸せが、何だったのかを知る。
竹取物語の核は、それぞれの人間が大切にしているもののすれ違い、
価値観のすれ違いだったのではないかと、高畑監督の解釈を見ていて、痛感しました。
大切なものは、人それぞれ、財宝、名声、美、不老不死、社会的成功、平穏、心の慰み・・・。
自分の寿命が分かったとき、姫は翁に言いました。
姫「お父様が願ってくださったその幸せが
私には辛かった
そして我知らぬまに
月に救けを請うてしまったのです
帝に抱きすくめられ
私の心が叫んでしまったのです
もうここにはいたくないと」
翁「それでは姫様自ら迎えを読んだと言うのですか?
そ、そんな・・・ひどいではありませんか
ああ何ということだ」
姫「でも私は帰りたくないのです
このままでは!」
そう。このままでは、終わりたくない。死にたくない。
そもそも、嫌悪する異性にいたずらをされて腹立ちまぎれに逆上して願うことが、本心のはずがない。
人間は、ずっと不義理をするわけではない、ずっと殺意を抱くわけではない、ずっとズルばかり考えているわけではない。
演技派の嘘つき、金の亡者、軽薄な遊び人、善人だけれど実は裏で悪人、ただの善人などなど。
四六時中、一種類でありつづけるようなステレオタイプの登場人物観が、揺さぶられる。
咄嗟の逆上。それによる、取り返しのつかない結末。
刻一刻と、人間は変わる。変わり続ける。
その点でも、人生のリアリティを色濃く反映している。
それでは、姫はなにが欲しかったのか?
映画の終わりに、姫は言います。
姫「私のせいでひどい目に遭った」
捨丸「何でもないさあんなこと」
姫「そうよ、なんでもないわ、生きている手ごたえがあれば・・・、きっと幸せになれた。」
姫が欲しかった大切なものは、生きている手ごたえ。
■女の一生
ジブリの女性へのエールは、もっともっと、日本に染み込んでいってほしい。
男児にも女児にも、日本語の分かる子供のすべてに、染み込んでいってほしいと思います。
次の人生があれば、きっとかぐや姫は、こう生きる。
「私は誰のものにもならない。私も走る。力いっぱい!」
■映画の根幹
帰りたい。あの山へ。生きたい。
帰りたくない。悟りの無へ。生きたい。
徹頭徹尾、生きたい、生きたかった。
でも、すれ違い、目を逸らして、生きてしまった。
「もう遅いのです何もかも!
ああ私はいったい
この地で何をしていたのでしょう」
「偽りの小さな野や山で
自分の心を誤魔化して
私がなぜ
何のためにこの地へ降り立ったのか
どうして見知らぬこの地の歌を
あの歌をずっと以前から知っていたのか
鳥虫けもの
ああそうなのです
私は生きるために生まれてきたのに
鳥やけもののように」
帰りたくないという悲痛な叫びは、
「死にたくない」と言う
今際の際の、人間の、普遍的な心の叫びになる。
人間は、死ぬ間際になって、悟る。
ああ、そうなのです。
私は生きるために生まれてきたのに、
自分の心を誤魔化して
私はいったい
この地で何をしていたのでしょう
死にたくない
死にたくない
生きたい
■わらべうたについて
鳥虫けもの
草木花
春夏秋冬連れてこい
まわれめぐれめぐれよ
遥かなときよ
めぐって心を呼び返せ
鳥虫けもの
草木花
人の情けをはぐくみて
まつとしきかば
今帰りこむ
媼「本当に私を待っていてくれるのなら
すぐにでもここに帰ってきます」
姫「ああ帰りたい今すぐに」
■竹山より都会、都会より竹山
帰りたい、生きている手ごたえのあった、私たちのあの山へ。
それが、高畑解釈のかぐや姫の願いでした。
天が生きたがった罰として下界に下ろした場所は竹取の翁の竹の中。
死のように静謐で澄み切った悟りの月世界では、
激情とともに生きることが罰になる。
よく生き切ることが最も、重い罰になる。
天が、最も重い罰を下せる場所に、最初から、かぐや姫を送り届けたのだとすれば。
かぐや姫の言う通り。
あなたとなら、ここでなら、よく生きることができたのかもしれない。
すべてが過ぎ去ってから、「いまなら分かる」と言わないで済むように。
自分の人生を注視したいと、思いました。
全てが高水準だったけれど
絵の1枚1枚、一瞬一瞬の音楽が美麗です。登場人物の心の動き、感情の表現も見事で、息を呑む出来でした。細部に至るまで作り込まれた映画であると思います。
この映画の唯一にして致命的な欠点は、かぐや姫であることです。
主人公はなんと月の住人で、クライマックスでは、驚くことなかれ、月に帰ってしまいます。何とも衝撃的な展開ですが、哀しいかな、大抵の人は知っている結末ですよね。これが本当にネックだと感じました。言ってしまえば、もう知っている話という高いハードルを越えられなかったというのが私の感想です。
誰もが知っている話を映画にしたのですから、それ以上のオチか、オチを知っていても楽しめる作りが欲しかったのですが、そこまでには至らなかった、惜しい作品と感じました。
巨匠の遺した功と賞。アニメ史に残る渾身の一作、そして60年のキャリアを総括する完璧な遺作!
日本最古の物語と言われる「竹取物語」を、新しい解釈に基づきアニメーション化した作品。
竹から生まれた少女、かぐや姫の深層を描き出すファンタジー・アニメ。
監督/原案/脚本は『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』の伝説的アニメ監督、高畑勲。
かぐや姫の幼馴染、捨丸の声を演じたのは『蛇にピアス』『ソラニン』の高良健吾。
第40回 ロサンゼルス映画批評家協会賞において、アニメ映画賞を受賞!
巨匠・高畑勲の最後の監督作品。
製作費50億円以上、製作期間8年という完全に頭が狂っている作品。
製作費の3倍稼いでやっと成功と言われる映画業界だが、本作の興行収入はたった20億円。DVD &Blu-rayの売り上げが加算されるとはいえ、まぁ完全なる赤字なのは間違いない。
正直なところ、高畑勲の映画がヒットする訳ないことぐらいジブリもわかっている筈で、ずるずると50億円も投資するくらいなら、途中で制作中止、あるいは監督交代をした方がスタジオのダメージは少なかったことぐらい素人でも想像がつくのだが、たとえ赤字になろうが高畑勲に映画を作らせてやろうというジブリの心意気には驚嘆するしかない。
完全に義理と人情の世界。とても資本主義社会に根ざして商売している一企業の判断とは思えない。
まぁ「利」よりも「個」を取るというのがジブリのバカなところかつ愛すべきところなんだけど😅
とはいえ、呆れるほどの製作の遅れや、それによって生じた膨大な製作費には、ジブリの金庫番である鈴木敏夫も流石にブチ切れたらしい。
制作スタッフに恐ろしく高いレベルの要求をし、心身ともにボロボロにしてしまうのが高畑勲流。「高畑勲の下について生き残った人間は自分だけ」というのは宮崎駿の言葉。
そんなわけで新しいスタジオを創設し、内部のスタッフを使わせずにほぼ外部のスタッフだけで作ったのがこの作品。
ほぼ全ての作品でプロデューサーを務めてきた鈴木敏夫が、本作では企画でしかクレジットされておらず、自分の部下である西村義明にプロデューサー業を押し付けているところからも、本作の制作がどれだけの修羅場だったのかが伝わってくるような気がする。
「竹取物語」を新しい解釈で描いた作品として、自分が思い浮かべるのはテレビドラマ『怪談百物語』という作品。
2002年のドラマで、1話完結というスタイルで古典的な怪談を描いていくというもの。「四谷怪談」や「雪女」などのお話があり、そのうちの一話が「竹取物語」だった。ちなみにかぐや姫を演じたのは女優のりょう。
このドラマが面白かった!20年前に観たきりなので、細かいところは覚えていないのだが、「竹取物語」を「怪談」として捉えるという斬新な切り口に驚いた記憶がある。この作品DVDとかあるのかな?
新解釈「竹取物語」の先行作品とも言えるこのドラマを観ていた自分としては、切り取り方次第で「竹取物語」はいくらでも面白くなるということを知っている。
なので「物語の面白さ」という観点から言えば、本作は想像の範囲内と言った印象を受けた。
可もなく不可もなく…というよりは「知ってっしー、このお話知ってっしー」という感じ。
捨丸というオリジナルキャラはいるものの、基本的には原典に忠実な話の筋なので、退屈しなかったといえば嘘になる…🥱
とはいえ、本作で大事なのは物語の内容ではない。
本質はアニメーションの質と新しい解釈にある。
まずアニメーションのクオリティ。これは誰が観ても驚くであろう、とんでもないことになっている。
特にアニメを体系的に鑑賞しているオタク気質の人なら、従来のアニメーションとは一線を画す本作のクオリティに驚愕する筈。
東西問わずキャラクターを描くという性質が強いのがアニメ。
セルアニメの制作方法とも相まって、背景美術とキャラクター、つまり静的なものと動的なものが別々に存在しているような感じがするのが従来のアニメ。これはデジタル制作に移行した現代においても変わらない。
この観念にNOを突きつけた高畑勲。背景もキャラクターも同じ温度で画面に映し出す。
絵柄は日本最古の漫画とも言われる「鳥獣戯画」的な、ふにゃふにゃした絵巻物風。
この絵巻物風の絵を動かすことの難しさは、絵描きではない自分にはわからないことだが、あえて手書きの線を残しているような荒々しい描線を持ったキャラクターを扱かっている作品は、少なくとも長編アニメーションでは観たことがない。おそらく、恐ろしい程の手間暇がかかることなんだろう。
この線の感じは時代劇である本作とマッチしているし、何よりあのかぐや姫の疾走シーン、あそこの迫力が半端ないことになってる💨
動きに特化したアニメという意味では、まぁ本作が日本最高峰でしょう。
そして何より大事なポイント。「竹取物語」の新解釈ですが、ここが素晴らしかった!もう涙ボロボロ😭
かぐや姫と翁、そして媼の描き方が、もうズルい。
悲劇的な最後を迎えたのは誰のせいか?子の幸せを自分の価値観に当て嵌めて考え、それを押し付けた翁か?その翁の間違いに薄々気づきつつも、それを窘めなかった媼か?流されるまま生きてしまったかぐや姫か?
現代に通じる親と子の問題として、この3人の関係は描き出される。
お人形さんのように扱われるかぐや姫。
本質としてのかぐや姫は虫や獣を愛し、野山を慈しむ「虫めづる姫君」である。
「虫めづる姫君」は「堤中納言物語」という平安時代の物語集の中の一編。ナウシカのモデルの一つとして、ファンの間ではよく知られている。
おそらく高畑勲の中では『アルプスの少女ハイジ』の頃にはもうこの「虫めづる姫君」が、理想のヒロイン像として存在していたのだろう。
少々乱暴な言い方をすると、ジブリ作品全てのヒロインは、この「虫めづる姫君」のキャラクター像の焼き直しである。
そんな「虫めづる姫君」を、ここにきてどストレートな形で提示してくるとは!
飢饉、飢え、疫病、争い…。当時の人々の暮らしぶりを考えると、かぐや姫は恵まれすぎているほど恵まれている。
お屋敷に住み、綺麗な着物を着て、好きなものを食べられる。貧しさとは無縁の世界である。
そして、誰もが魅了される容貌を持つ。最大権力者の帝ですら、彼女には骨抜きにされてしまう。
彼女は全てを持っている人物だといえる。しかし、それによりもたらされるのは終わりのない不幸。「虫めづる姫君」としての生き方を否定され、「かぐや姫」として生きることを強制される呪いでしかない。
これを今日的なフェミニズム論に落とし込むことも出来るが、もっと普遍的な問題を扱っているようにも思える。
すなわち物質的な豊かさと精神の幸福が釣り合うことはないし、表層的なものに対する他者からの評価では自己肯定感は得られないということである。
平たく言えば、自分自身を裏切り続ける限り、幸福は訪れないということか。
これをジブリヒロインの根源である「虫めづる姫君」に突きつけるのは、観客が求めるジブリのイメージに振り回され、評価されることを第一に考えた作品を作ろうとする宮崎&鈴木に対する皮肉である、と考えるのは深読みのしすぎかな?
終わることのない苦しみから逃れる術として、かぐや姫は月へ帰りたいと望んでしまう。
月からの使者の姿を見れば一目瞭然なように、月の世界とは「死の世界」を意味する。
月へ帰る=自殺というメタファーが、本作の深層には横たわっている。
一時の迷いで死を選ぶが、それが間違いであったことを今際の際で悟る。しかし時すでに遅し。一筋の涙を流してかぐや姫は死出の旅路へと…。
若年層の自殺問題が、「竹取物語」の中へそっと隠されている。
こうであったかもしれない過去、存在しない現在、もう訪れることのない未来、そういう思いは誰しもが抱えている。
そのことが生きることを諦めさせることもある。
だが、苦しみを生み出す心の汚れ、それこそが命の本質であり、その思いを胸に抱きつつ歩を進めることこそが生きるということである、という強烈なメッセージを、かぐや姫の「罰」を通して観客に教えてくれている。
60年に及ぶキャリアの中で、おそらくはコレが最高傑作と言って良いのではないだろうか?『ハイジ』『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『ぽんぽこ』etc…。
高畑勲作品のエッセンスが全て詰まっているまさに総決算的な作品だと思う。
生きるとはなんだ、愛するとはなんだ、自分にとっての本質とは何か、ただの娯楽を超越した学び考えるツールとしての映画を遺してくれた高畑勲に最大限の称賛を贈りたい。
天才の作った誰にも真似できない日本のアニメーション
ちょっと前に映画館でジブリを観まくったので、その勢いで連休中に観ていなかったジブリ作品を観てみよう個人的キャンペーン。というわけで「かぐや姫の物語」を観ました。
高畑勲ってちょっと苦手だったんですよね。「ホタルの墓」とかしんどいですし、やっぱジブリだったら宮崎駿かなっみたいな意識もあって。でも、この「かぐや姫の物語」はとても面白かったです。日本人ならほぼ誰でも知っている物語をこんなに面白くできるって高畑勲ってスゴい❗まさに天才の技です。
元々の「竹取物語」のかぐや姫ってなんと言うか無機質な感じがしてて、あまり好きなお話ではなかったんですよ。そのかぐや姫が本作ではちゃんと魂が吹き込まれてる感じがしました。泣いて、笑って、怒って、時には感情を圧し殺したりして。スゴく生きてる感がありました。最後に月に帰る別れのシーンはグッとくるものがありましたね。
そして絵が素晴らしく綺麗‼️かぐや姫が宴から逃げ出す時の迫力とかもうスゴい事スゴい事。墨で書いたような絵が動くとこんなに迫力のある絵になるって正直驚きました。日本画の力強い事よ‼️もちろん桜の木の下でくるくる舞うシーンもメチャメチャ綺麗ですし、空を飛ぶシーンもゾワゾワして。全体を通して恐ろしくレベルが高いです。
高畑勲ってホントに天才だったんですね。裏テーマとかいっぱいありそうですけど、表層のストーリーだけでも十分面白い。うーん、本作は映画館で観ておきたかったです。今度は本作とかラピュタを含めて「一生に一度は映画館でジブリを」をやってくれないかなぁ。
おじいさんが、都に連れていかなければ、かぐや姫は月 に連れて行かれ...
おじいさんが、都に連れていかなければ、かぐや姫は月
に連れて行かれなかったのに・・・。
天カラフルのさずかりものだといって、そこまでやって、姫にさせる(自分も高い位になる)のは、やりすぎじゃないかと思った。
バッドエンドではない。
5回くらい観てる。これからも事あるごとにまた観たくなると思う。本当に大好きな映画。
何回も観ていると、登場人物の誰にも感情移入しなくなる。冷静になって観てみると、クズだと思った男性陣の中にも、可哀想だと思ったかぐや姫の中にも、自身の内にある感情を見出すことができて、単純に人を善か悪かで区切る事自体が不自然に思えてくる。
また、登場人物の動作と物事の因果関係が矛盾なく、リアルに描かれていて、誰かを傷つけるという点で「こういった事はしない方が良い」とか、自身を傷つけないという点で「こうありたい」という姿を、この映画は静かに教えてくれる。
「生きているという実感があれば、幸せになれた」
この映画の肝はこの点だと個人的には思う。
大人になって、生きているという実感を得る事は少なくなった。半ば意識的に、半ば結果的に波風立てないように、乱されないように、面倒事に巻き込まれないように、生活している。
言ってしまえば、月の都で生活している。
映画の中で、悲しい場所、場合によってはあの世だと解釈されている月の都は、「無」のメタファーであって、決して遠い所では無くて、今この世界を生きる人々の、心の中の孤独であり、乾きであると思った。
最後の赤ちゃんの描写を観て思うのだけれど、たぶん、かぐや姫は月に行った後も、生きているという実感を思い出せたとしたら、もしくは思い出そうとしたら、いつでも地球に戻ってこれるんじゃないかな。また(月においては)罰として地球に降ろされるのだから。心の乾いた場所からの帰還の可能性を思った。幾ら心が乾いてしまっても、無になっても、いのちの記憶を思い出せば、思い出そうとすれば、いつでも戻って来られる…
「無」の否定は、あらゆる「有」の肯定であって、更にこの映画は、一度無になった心の、有への帰還までも、肯定してくれる。色々なものに感動したい、人の温もりを信じてみたい、と、そっと思わせてくれる。
この映画は決してバッドエンドではない。
昔話を描いてるわけじゃない
毎回緻密な隠しメッセージというか、言われてやっと理路整然としたロジックが見えてくる作品を作り出す高畑監督。
こっちも身構えて視聴。
●作品の物語やメッセージ性について。
【第一層】通常ストーリー
まず、かぐや姫の一般的なストーリーが第一層に流れています。ほぼオリジナルと同じです。
【第二層】アンチ女性差別と見せかけて
女性差別と思える扱いに【怒りを感じるかぐや姫】が描かれてますが、同時に【大喜びするかぐや姫】も描かれています。
その瞬間のかぐや姫は社会に従わなければいけない不満より、目の前の贅沢や特別な扱いに対して ただただ喜びを感じているのです。
そこを見逃してはいけません。
自分に取って得な事であれば女としての特別扱いを受け入れているのです。
女性差別の否定が今作のメインテーマでは無いことが分かります。
【第三層】人間讃歌
おそらくここが高畑監督の今回の落とし所だと思います。
この世の広さ面白さと、自ら手放した自由と可能性、叶わなかった夢への絶望。
人間界はなんと辛いのか、、でもこの世に生まれ落ちなければ、何も感じることすら出来なかった。
人生の失望や希望の全てをひっくるめて人の一生は素晴らしく、何物にも変えがたいものだと訴えてるように感じます。
【第四層】かぐや姫は結局なんなのか
自分が思う月の世界とは
【現代人の末路=自由主義の行きつく先】
として描いたように思います。
その理由としてはかぐや姫が自由主義のメタファーとして登場している節が作品中 いたる所にあるのです。
●まず自由主義とは
1970年中盤よりアメリカから世界中に広まった主義。
『人は皆 平等に価値があり。何にも囚われず自由に生きる権利がある』という主義。
個人の幸せの権利を追求出来る主義とも言われます。
自由主義がもたらした功績
◆社会主義や共産主義等の宗教原理国家や軍事主義、王族政治等の独裁権威からの個人の解放
(地位に関係なく発言、職業、住居を選択できるようになりました)
◆女性差別の打破(女性が政治に参加、結婚相手を選択できるようにもなりました)
自由主義の副産物
◆浮気や不倫、中絶の正当化
(自分の幸せを優先して良い主義なのだから、結婚相手や子供よりも、自分の幸せを追及するという考えの蔓延)
◆自己の幸せの為に他者へかかる不利益と、その責任の放棄。資本主義。
(自由を得る為の行動により、誰かが損をしたとしても責任は無い。という考えの蔓延
例えば、株で自分が儲けるために誰かが損をしたとしてもそれは仕方ない )
荒っぽく言えば 自由主義とは
『自分の自由(幸せ)を得る権利があるなら 何をやって良い』という考え方です。
勘の良い方は既にピンと来てるかも知れませんが
【かぐや姫は自由主義のメタファーだ】と考察する理由はここにあります。
↓
◆翁は成金の金で立派な御殿を立て、都に引っ越します。(住居の自由の権利) 翁を成金として描く所にも意図を感じます
◆かぐや姫は軍人、宗教、王族主義や富豪の全てを拒否し、否定します。
(権威からの解放)
◆社会から受ける女性差別(強制婚)に屈することはありませんでした
(女性の自由の権利)
◆自分が自由でいる為に若い貴族を死なせましたが、お婆さんは『あなたのせいじゃない』と慰めています。
(自由の権利の行使による被害への責任放棄)
◆さらにステマルという既婚者との不倫愛も一瞬の幻とは言え自分の物としています。
(個人の幸せの追及)
上記で書いた、自由主義の功績と副産物の全てをかぐや姫が体現しているのです。
特にステマルのくだりは、あの時点で かぐや姫は月に帰る事が決定していたのだから、ステマルが独身であった方が【掴み損ねた純愛】として効果的に悲恋を描けたはずです。
既婚者にした事により、『え?』と感じる人が増える事も分かっていながら、監督はわざわざステマルを既婚者として描いているのです。
ここからは映画外の話になりますが
現在提唱されている自由主義の行く先
【個人の自由(幸福)と権利を追求しつづけた未来】とは
AI技術や医学の発展により人と人とのコミュニケーションは無くなり、飢えや老いや病や労働からの解放された苦しみの無い分、喜びも無く、資本を持つ物がコントロールしていく世界が人類の行きつく先だと言われています。
子供も生むこともなく、死もなく、ただただ平穏な世界。
それはまさに月の世界と同じではないでしょうか。
つまり高畑監督が今作で仕込んだメッセージは
自由主義者として かぐや姫を描き
自由主義の末路として 完璧な月の世界を描いたのでは無いかと考えます。
『個人は自由に、心のままに、思った通りに生きる』ということが まるで素晴らしい義務のように言われていますが、自分を優先することを第1にした場合、
人間は人と関わる事が最も苦痛だと感じ人との関係を完全に閉ざしていく方向へ進んで行きます。
実際現代は既にそうなりつつあります。
しかし、人との関わりを持たなくなった人間はどうしようもないほど世界や人との繋がりを持ちたくなり、
自分優先の世界を捨てて素朴に生きる事を望むのですが、それでも目の前の贅沢や優越、楽を選んでしまう性を描いているように思えます。
●余談
なぜかぐや姫がアンチ自由主義なのかと考えたのには別の理由もあります。
高畑はアメリカ軍の空襲を受けたことが人生最大のインパクトだと言っていましたし、その後はアメリカとの安保闘争、学生運動が盛んだった世代で、高畑は主戦場となった当時の東大出身でアナーキーな世代です。
宮崎の方もアカデミー賞を取ったのに、日本男児がアメリカで賞を取ったからと行ってノコノコ行ってヘラヘラ出来ない。私はきっとヘラヘラしてしまう。だから行かない!とジョークまじりですが、そういう思想の二人です。
しかし、
彼らが若い頃に抱いた日本という国の理想は実現せず、一番嫌悪していたアメリカの資本主義(自由主義)が日本の政治体制と癒着し
社会主義や共産主義などのメッキも剥がれ幻滅して来た世代です。
余命を感じ取っていた高畑監督は自分が生きて感じてきた日本の問題点を改めて提示し「本当にそれでいいのか?」という問いかけを残したのではないでしょうか?
深い…
正直、好みがはっきり分かれる作品かなとは思った。
私は好きです。深い。
罰として月から地球におろされたかぐや姫。
月では、苦しみも怒りもない。無。
それは迎えに来た者達の無表情さが物語っている。
地球では喜怒哀楽があり、自然の豊かさを感じ生きていることを実感する。
ただ、生きるのが辛いような出来事もたくさん起こる。
それが現実で、実際に私達が生きる場所。
悲しや怒りがなくなったら、それに煩わされることもなくなるけど、生きている実感もなくなる。
つまり喜びも苦しみもあってこそ、生きることなのかと。
そう考えると、月は死の象徴なのかなとも感じた。
何も感じない無の世界って、死んでるってことでは…?
お迎えに来たのも8/15だったし。
そんな世界に連れ帰られると思うと、あのシーン怖すぎ。
音楽の軽快さが怖さ倍増。
最後、赤ちゃんが月に浮かぶシーンはかぐや姫の地球での記憶がなくなったことを表しているのかなと思った。
地球におろされたときの、まだこの地での記憶がない頃の姿=地球での記憶なない ということかなと。あくまでも私の解釈ですが。
後半の、帝の顎が長すぎなのにナルシストなこととか、捨丸にいちゃんとの不倫じみたシーンが強烈に印象に残ってしまいました…
それでも、私はこの作品が好きです。
全体的な絵の感じ、高畑勲監督が伝えたかったこと、総称して深いなぁと感じます。
かぐやかしい生き方とは
CGなしで1コマ何百枚単位で描き上げられた色の重なり合いや線の美しさが素晴らしく、特に竹が蓮の花のように開いて誕生するシーンに目を見張った。日本古来の自然溢れる光景もとても美しい。
外国人の方々にもぜひ見てもらって日本人の作品づくりの精神を伝えたいし、アニメやニンジャやサムライから入った日本文化でも、こういう作品を通して深めて貰えたら良いなと思う。
平安時代に書かれた作者不明のこの話だが、高貴な中年女性ではないかと想像した。「幼き頃、田舎の両親が頑張ったおかげで雅な世界に献上され数十年。籠の鳥のような中で、娯楽といえば月を見ながら想像する事くらい。いくら経っても出自は変わらないし、心求めるまま過ごせていたらどんな人生だっただろうか、本物の愛情を与えてくれる人と結ばれていただろうか。または、目の前の暮らしを謳歌すべく楽しんでいたらどんな人生だっただろうか。他の世界に自由を求め想いを馳せて過ごして数十年が経って、容姿も心も若さも失ってしまった。歳を取らないという月の世界に行けたらどんなにか良いだろう、でも、この世界に必死に入れてくれた両親を想うと心が痛い。」かぐや姫というお話はこんな気持ちが反映されているような気がする。
マイケルジャクソンやホイットニーヒューストンなど数々の成功者も、かぐや姫のような気持ちになった事があるんじゃないかな。物に満たされても、成功するほど真に心を満たしてくれる人は寄って来ず、孤独で満たされない気持ち。
違う世界に憧れたかぐや姫に与えられた月からの罰は、とても的を得ている。育つまでの楽しい時間はタケノコのようにあっという間に過ぎ去り、苦しむ時間が長い。
すてまるにいさん、あなた妻子持ちでしょうと言いたいところだが、彼は作中で、かぐや姫とは対照的に、現実の中を地に足付けて目の前の世界を自覚して生きている存在として登場している。
すてまるにいさんもかぐや姫も、2人して自分の立場を忘れ、スノーマン笑
でも、人間誰しも、違う人生への憧れはある。それでも、憧れを現実にすべく、または自分の生きている世界を受け入れて、心豊かに過ごす事の大切さを教えてくれる作品だと感じた。
映像もストーリーも美しい
竹取物語のお話は知っていたけれど
最後月へ帰ってしまう悲しいおとぎ話といった印象で
あまり興味がありませんでした。
でも、この作品は人情というか生き様というか愛をたくさん感じることができました。
花が咲いたり
虫が飛んだり
風がふいたり
カエルがないたり…
そういうあたりまえのことがとても感動的な描写で描かれていてじいいいんとします。
すべてのキャラが魅力的。
いつの時代にもプレイボーイはいるんだなあと思ったり
帝のあごに驚愕したり
すてまるそんなに妻子一瞬で捨てちゃうの!?と思ったり
冷静に突っ込む私も同時にいましたが、泣きました。
罪と罰ってなんだろう?
罪が地球にあこがれたことで
罰が地球へおくられたこと?かとも思ったし
多分それも間違いじゃないけど、
喜怒哀楽に興味を抱いたことが罪で、
それを味わされることが罰だったんじゃないかなあと個人的には思いました。
笑ってこらえてをみていたから余計に
ここでこの音楽やっぱりいいわーと再確認したり
ラストの悲しいのにパレードっぽい音楽に胸が痛くなったりしました。
とにかく、すんごいよかったです。
でももう1度みるには心の準備が必要かも。
映像がきれい
最初は絵に違和感があったのだけれど、だんだんそれが慣れていき心癒されるように。
野山の美しさや、野花や獣、小さな農家や田んぼの風景にはこの絵がぴったり合ってる。
日本人の心象風景っていうか。
赤んぼが裸なのもいいね。
好きなシーンはやっぱり…
てことでこのレビューの続きはブログに来てください!
映画・本があれば幸せ~HAPPYLIFE~
高貴な姫君だって、汗をかくし・・
映画「かぐや姫の物語」(高畑勲監督)から。
原作はもちろん「竹取物語」。
生まれてからの成長があまりに早いので、
一緒に遊ぶ仲間たちから「タケノコ」とあだ名されながらも、
自然を相手に朝から晩まで駆け巡る元気な女の子から、
都で高貴な姫君に変わるとき、眉毛を剃り、お歯黒を施すシーン。
姫君は、激しく動き回り、汗をかくこともないから、
額からの汗が目に入るのを防ぐ眉毛は必要もないから剃るらしい。
また、歯を出して笑うのは、高貴ではなく下品ということなのか、
お歯黒をするのは、そういう意味があるらしい。
それを知って、かぐや姫が「高貴な姫君は、人ではないのね」と呟く。
さらに続けてこう叫ぶ。「高貴な姫君だって、汗をかくし、
時にはゲラゲラ笑いたいことだってあるはずよ。
涙が止まらないことだって、怒鳴りたくなることだってあるわ」と。
公家など高貴な人たちが、眉毛を剃ったりお歯黒をする意味を、
とてもわかりやすく教えてもらった。(笑)
もう一度、図書館で「かぐや姫」を探して読んでみようかな。
桜のように綺麗な人の物語り
アニメーション映画は、幼い頃から殆ど観た事がなく、しかも一人で映画鑑賞したのも初めてでした。かぐや姫のお話しは、絵本、観劇を幼い頃に見ていました。
映画にある、かぐや姫の罪が気になり一人で映画館へ向かいました。はっきり言って何が罪か解らない部分も多かったんです。幼い頃は、ただ竹の中からお姫様が産まれ時期が訪れたから帰るべき月へ帰ったお話しだとしか印象がありませんでした。
今回、映画を観て少しだけ、自分と重ねてしまいました。血の繋がりや、親子関係、幼なじみとの関わり。何故か懐かしく涙が流れました。
産まれたばかりの、かぐや姫の成長は、子供を産んだ経験のある私には、とても愛おしく、懐かしく、ミルクの香りまで蘇り声を出して泣いてしまいました。かぐや姫は、どんどん成長してしまう。もっとゆっくり大人になってと、やるせないけど暖かい気持ちに成りました。アニメの動きの人間らしさには、驚きました。
かぐや姫の美しさから、我を忘れ財産に目が眩んだおじいさんも、私には、親の優しさとしても映る部分がありました。娘に幸せで生活に困らない環境を与えたかった部分もあるのではないでしょうか?私は、一概におじいさんを責められなかったです。
反対に、かぐや姫の気持ちを尊重したおばあさんも結局愛情面では、おじいさんと同じ思い、娘を思う愛情だと感じました。
かぐや姫は、おばあさんに心を開いていた感じですが、おじいさんの気持ちも理解していたと思うのです。ただ、結婚は大切な人としたかったと思います。故にプロポーズしてくる男性に、無理難題を伝えたのが罪なら、はっきり断れなかったかぐや姫には、当たり前の事に思えました。おじいさんの手前断れない。なら、出来ない事を伝えれば、本気出ない男性は逃げるか、卑怯な手段を使う。そんな事より、かぐや姫の心の中には、捨丸という、かけが得ない存在しか初めからいなかったんだと思えました。
愛した大切な存在を簡単に忘れる事など出来ないのが、かぐや姫だと感じました。少なくとも、かぐや姫には、地位も財産、財力そんなものに、目は行かなかっただけだと思います。産まれ育った場所の懐かしい景色の中に、思い出だけを重ねてひたすらに、あの頃へ帰りたいと願ってたのではないでしょうか?解らないのは、月で犯した罪が何か私には、解りませんでした。
ただ、捨丸との再会は、現実よりも、夢の中での再会のような感じを受けました。
それゆえ結局別れ別れになり、未来を見なかったゆえ月へ戻る時を迎えてしまったのではないでしょうか?月の世界へ必死に帰さないよう願うおじいさん、おばあさんの姿に、紛れもなく親の姿を感じました。わが娘を離したくない必死の姿に涙しました。
親子とは、血の繋がりだけでは、片付けられない絆を感じ涙しました。し、私も血の繋がらない祖父母、実の母親に、いつも優しい彼の母親や、育ての父親に、あまり記憶のない実の父親で育ちましたから、かぐや姫の気持ちが解る感じがありました。かぐや姫の記憶が無くなると話していましたが、私には、残ったように思えました。残っていて欲しいです。自分の記憶に鮮明に残る相手とは、それだけ過ごした時間ではなく、関わりの密度だと、例え1年でも関わりの密度が深ければ30年過ごした人間より勝ると思います。少なくとも、私は、そうです。
ピンクの桜や、ピンクの着物、無邪気なかぐや姫の印象の強かった映画でした。また、音楽がやはり懐かしく感じ、不思議な映画でした。
おばかばっか
映画館で観られずすごい期待していたから、余計に残念!
登場人物がみんな変すぎる。ってかバカ?
姫のことなど微塵も考えないで行動してるくせに「竹林でお前を手に取ったあの日から!」とか声高に叫んじゃうエゴの塊の爺。
姫の気持ちに気付きながら爺の暴走を止めようとも本気で姫の力になろうともせず(爺の目を盗んでちょっと前の森に連れてってあげるとかさ)、いい人ぶってニコニコしてる婆。
「月に帰りたくない!」という姫の気持ちも全然わからない。
だって置物みたいに飾られてるだけで本当に会いたい友達にも会えないし自分のやりたいこともできないし、ってこんなにつまんない毎日なのに帰りたくないわけなくない?
「生きるために地球に来た」とか言ってたけどこんな生活じゃ死んでるのと一緒でしょ、飼い殺しっていうの?
こんなこと言っていいのかわからないけど皇太子妃雅子様を思い出してた。
もっともっといろんなことができる人だろうに。
捨丸の声が高良健吾だったから内容つまんなくても最後まで見たかったけど、爺の存在がとにかく胸糞悪すぎてやめちゃった。
映画館行かなくてマジ良かった。
全83件中、1~20件目を表示