「最古にして最新、そして最後の……」かぐや姫の物語 13番目の猿さんの映画レビュー(感想・評価)
最古にして最新、そして最後の……
「はっきり言って間違いだと思ってる」
高畑勲は『もののけ姫』に対してこう言い放った。そして作り上げられたのが『ホーホケキョとなりの山田くん』であり、テーマは『もののけ姫』の「生きろ」に対して「慰め」であった(その当時の「癒し」ブームへの反発もあったのだろう)。そしてそれから14年、『かぐや姫の物語』は我々の眼前に現れた。夏に公開された『風立ちぬ』のテーマが「生きねば」に対して、この物語にはテーマがなかった。ただ地にあるものを体全体で受け止めれば、自ずと生きる理由になるということを伝えるため、高畑監督はただひたすらに美しい地上と、それを真正面から享受するかぐや姫と子供たちを描いたのである。これは作品の根底に流れる思想の違いとも言える。宮崎監督が自分の内面へ意識を集中させ(恐らく)最後の作品を手がけた一方で、彼は外部に意識を開放し(多分)最後の作品を作り上げたのだ。なんというか、いい加減還暦などとうに過ぎているというのに、心枯れずにここまで激しいライバル関係を続けていること自体に恐れ入る。しかし、この二つの作品に優劣を付けることは簡単にできることではないだろう。両作品には「生きる」美意識における方向性の違いがあるのであって、これはあくまで観客の好みの問題にもなってくるからだ(興行収入に関してはゴニョゴニョ)。だがただ一点、声優起用に関しては断然にこちらに軍配があったのではと思う。この作品で用いられたのは、あらかじめ俳優に演技をしてもらいその後に絵をつける「プレスコ」という、海外では割と多用されているものらしいのだが、この手法で作られた本作はとにかく絵に生命力が溢れていた。聞き覚えのある声のはずの地井武男の声はちい散歩してるそれではなく、間違いなくスクリーンの翁の五臓六腑から発せられた声であり、そして気持ちの悪かった帝(顎)はパンフレットの中村七之助の写真を見るなり二重に説得力を帯びた。もし『風立ちぬ』がこの手法で製作されたならば声優に対する批判の一切はなかったのではないだろうか(あの声の堀越二郎なら、容姿は猫背で動きももっさりしてて若干目が鯖みたくなってるはず)。
また高畑監督の本作へのこだわりとして、声優と同時に音楽の存在も見逃してはならない。本作の音楽は挿入歌や主題歌というくくりには収まりきれない、まさに作品の必須要素として歌が存在し、高畑監督が作詞作曲した劇中歌の「わらべ唄」はこの歌なくしては作品が成立しない、というよりも、見ようによっては映画自体が歌の壮大なPVですらあるのではないかという趣すらあるのである。かぐや姫は歌によって四季を愛で歌によって成長していくのだが、その時々の風景によってそれが懐かしい童心をくすぐるものであったり、過去の悲しい思い出を喚起するものであったりと、同じものでありながらその歌は常に表情を変え続けるのだ。その歌の存在価値が最高潮に達するのが物語の最後、月の民がかぐや姫を連れ去ろうとするシーン、月の民が奏でる機械の打ち込みのような胡散臭い音楽を、女童(めのわらわ)が声だけで奏でるわらべ唄で迎え撃たんとする時だ。女童が歌うのはわずかたった数秒の唄だが、地上の美しさと穢に苦しむかぐや姫をそばで見続けた彼女がその唄を歌うその瞬間に、二時間の物語が圧縮されて観る者にフラッシュバックされるのである。具体的な風景は何も出てこない、ただかぐや姫が地上の世界で何を感じ続けていたか、それが荒波として押し寄せてくる、静かだが激しいクライマックスは是非とも劇場で観覧してほしい。
日本最古の物語をもののあわれの美徳を失わず現代の鑑賞に耐えうる作品として完成させた高畑勲、宮崎駿とは違う形で(きっと)最後の花道を飾るに相応しい作品を残したのではないだろうか。