「これもファンタジー」風立ちぬ 13番目の猿さんの映画レビュー(感想・評価)
これもファンタジー
前評価は色々あったが、やはりこの『風立ちぬ』も、従来の宮崎駿作品と同じくファンタジー映画だと言った方がいいだろう。ナウシカやラピュタ、ハウルを観て本気で戦争や文明社会のあり方を考察されることがないように、この作品も戦争や当時の日本の社会問題が本気で考察されるものではない。風立ちぬの詩にあるように、見えぬものを周辺の木々のざわめき感じ取るというコンセプトがあるようだが、当時吹き荒れていたのは暴風雨だったはずなのに、それを描くにしては今作はあまりにもそよ風ぎた。過去の作品としては、現実の大和朝廷のある日本を舞台にし、マイノリティへの差別や自然と人との相容れなさといった多くのテーマを詰め込んで、そして一言「生きろ」ととてつもなく真っ直ぐなテーマを投げかける『もののけ姫』がこれに近い。
しかし一方で、この作品にはこれまでの宮崎駿の作品と大きく異なるところがある。それは彼がインタビューで度々言及していた「失われた可能性」が存在していない点だ。これまでジブリの主人公たち、特にヒロインは圧倒的なシステム、権力の前に立ち向かう勇敢な女性ばかりだった。立ち向かい、乗り越え、そして些細であっても世界に変化をもたらし「失われた可能性」を取り戻すような、そんな健気で強い女性たちだったが、今作のヒロインの菜穂子は彼女たちとはまるで違っていた。彼女が選択したのはいかに立ち向うかではなく、いかに受け入れるかだった。彼女にとってすでに死が避けられぬなら、あとは死に方の問題だったのだ。死からの抵抗から死の受け入れ、いきなりこんな趣旨替えをされては、宮崎駿に長年連れ添った鈴木プロデューサーがプロモートとはいえ「宮さんの遺言だ」と発言してしまったのも仕方がないと言える。そしてこの「抵抗」するのではなく「受容」するという物語のあり方が、この作品の評価を大きく二分してしまっている大きな点ではないだろうか(庵野の声に関しては言われすぎているので自分はスルーするとして)。
なぜなら生き物にとって「抵抗」することは自然なことで、生命が脅かされたならどんな虫けらであってももがき「抵抗」するという、そこには無条件の必然性、リアリティが存在する。しかし一方で「受容」するということには無条件の必然性は存在しない。ゆえに観客がそこにリアリティを感じるためには、なぜ彼らがその選択をしなければならなかったのかという文脈が必要となってくるのだが、この物語にはその主人公たちが選択した「受容」にリアリティを持たせる文脈が不足していたのではないか。彼らが最後まで病気と戦う選択をしなかったのはなぜだろうか?結核は当時致死率の高い病気だったが、この病気から生還した人間もまた存在した。しかし彼ら、いや宮崎駿はそうしなかった。抵抗し続ける選択であっても、美しい人間の生き方を描けるにもかかわらずだ。確かに愛しい人と最も濃密な時間を過ごしたいという欲求は文脈の一つになりうるが、それが全てではあまりにも感傷的すぎるのではないか。結果として、宮崎駿の用意した文脈の一本に上手く乗ることができたならば、その人はこの物語にとことんハマることができるが、その網目からひとたびこぼれ落ちた人にとってこの作品はとんでもない駄作となってしまっているのだ。都合よく男女が再会し結婚し結核で死にかけで美しいという使い古されたツールを前面に押し出した根拠ない健気さを持つ女の横で好き勝手やっているメカマニア、そんな構図に落ちかねないのである。
それだけではない。果たして、この物語は堀越二郎と堀辰雄という二人の人間を組み合わせた形になっているが、その必要性はあったのかという疑問も残る。片方だけを重点的に描いたほうが、より説得力を持って描けなかっただろうか。飛行機製造のシーンは間違いなく美しかった。設計図から飛行の様子、事故へ至るビジョンを二郎がイメージする演出からは、きっと並外れた天才の風景はこんなふうに広がっているに違いないと思わせ、観客にその二郎と同じ天才の視点を共有させる演出のワクワク感は、決して飛行機マニアだけでなく楽しめたに違いないし、宮崎駿の独りよがりなどでは決してないエンターテインメント性があった。だが、その天才が作り出した美しい零戦が人を殺すという苦悩もより深く描けたはずなのに、それを最後に「一機も戻ってきませんでしたが……」と片付けさせているのが、この作品が他でもない「そよ風」に落ち込んでしまっているところだ。この作品のことをファンタジーだと前述したのは、ファンタジーならば許される文脈の不足と、戦争を「そよ風」で描いた現実感の無さがあったからだ。それが結果として、間違いなく美しく崇高なものと隣り合わせになりながらも、そんな文脈の不足から物語に乗れない、遠くで風でざわめく木々を眺めながらも、自分の体には風が一向に吹いてこない人たちに対し、ひたすらな後味の苦さを残す作りになってしまっているのである。
この『風立ちぬ』は時代と人の成長によってこれからも評価が変わり続けるだろう。受け手にも文脈があり、そしてそれは常に変化していくからだ。ある人は後々に素晴らしい作品だと言い、ある人は一時の自身の熱狂に首をひねるかもしれない。評価が良い意味で変動しないナウシカやラピュタと違い、そいういう点ではやはり宮崎駿の最高傑作だとして記憶されそうな作品ではある。
どういう人がこの映画が好きで、どういう人が嫌いかは判断しかねますが、最初にコメントしたように、何を大切にして生きてきたかはこの物語を受け入れる上で重要だと思います。私の女友達は、戦争の描き方が浅すぎると不満を漏らしていましたので(ちなみに彼女が好きな作品は『夕凪の街・桜の国』だったりします)。
また物語の工夫・構成とは、物語のテーマを伝えるための手段ですが、この作品はその構成が実に曖昧です。言うなれば容器に入っていない水のようなものでしょう。そのため、ある人にはあらゆる事象に結びつけることができる傑作になり、ある人には散慢な内容になるのでしょう。
技術者の話に興味がございましたら、プロジェクトXの「翼はよみがえった YS-11・日本初の国産旅客機」などお勧めですよ。もしかしたらもうご覧になっているかもしれませんが。
追伸
飛行機の設計のシーン。
了解です。
世の中の工業製品には、たくさんの部品が使われており、その部品一つ一つビス一本までも、それをデザインした人がいる。
私はね、そのような人々のエネルギーの膨大な積み重ねに対して尊敬し憧憬し尊重したいと思っているんです。
'作品における思想や工夫よりも、監督の感性が前面に押し出されている作品なのでしょうね。'
なるほど、
宮崎監督は今回、水戸黄門は作らなかったということですね。
予定調和、勧善懲悪、盛り上がる場面、印籠、そのようなものは最初から要素たりえなかった。
歌謡曲ではなく、協奏曲を
三田ではなくフィリップ・マーロウを、
宮崎駿の作品を
作った。
もちろん私はそれらに優劣をつけるつもりは毛頭ありません。
結局、
普段ジャズが好きで、パズルが好きで、押し付けが嫌いで、TVが嫌いで、
ファミレスが嫌いで、
「以上でご注文の品お揃いですか?」
と言われると
「貴女はどう思われますか?」
と思わず訊ねてしまい、
感動できるものを絶えず探しているようなこの私は、この作品の良いカモだったのかもしれません。
そしてTVの安心感が好きで、勧善懲悪主義の方々、社会を最初から自分の判断枠にキチッと嵌めて判断できる方、には評判悪いのでしょうね。
鷹さんも御考察ありがとうございます。
やはり作品における思想や工夫よりも、監督の感性が前面に押し出されている作品なのでしょうね。
自分はレビューでも書いていましたが、飛行機の設計のシーンが一番好きです。
理由も根拠もなく好きなものが好きというのは誰でも当てはまるフェティシズムですから。
年齢や職業欄はマイページのプロフィールにはあるのですが、あまり書かれていないようです。
御考察ありがとうございました。
なるほど、人生のある一時期において光を放つ作品ですか。
言い得て妙、至言ですね。
では、列挙してみますと
みる人の状況が、この作品に感動できるタイミングかどうか
みる人に風が吹いているか、もしくは吹いたことがあるか。
共有できる記憶の存在があるかどうか。
実はこの映画で私が一番印象深かったところは、列車の中の場面で図面に涙を落とす場面なんです。
ひねくれてるでしょ?
相手に対して何かしてあげなければならない。
しかし、自分には飛行機の設計ぐらいしか能がない。
でも何かしなくちゃならない。
何かをしていなくては気が狂ってしまう。
思わず手が何かを書いている。
見ると飛行機の設計書。
そんな自分がまた情けなくなる。
自分の無能さに絶望し、
でも手が止まらない。
あと、煙草の場面。
記憶違いなら申し訳ないですが、
他の煙草を吸う時には必ずマッチをする場面が映る。
執拗なまでに描写される。
ところが、菜穂子の傍で吸う時には
突然、”音だけ”
そして、喫煙場面は二郎の背中。
その背中に、冬の小さな部屋の中にいる二人の暖かさと
世の理不尽さと、周りを包む寂寥感が凝縮されて表現されている
この二つの場面。
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このユーザーレビューのシステムに
年齢や職業、性別の統計機能があると面白いような気がするんですけどね。
喫煙癖の有無。
陳謝弄駄文。
コメントありがとうございます。
貴方のおっしゃるように、共有できる記憶の存在の有無は重要だと思います。それ以外だと、人は知識やそれまでの人生で何を大事にしてきたかを基準に共感し物語を受け入れるのでしょう。
ただ、その共感というのは他の映画においても言えることなのに、なぜ今作はここまで評価が二分されてしまうのか、その理由としては「大切な人と生きること」と「戦争」という、あまりにもセンシティブであり、また感情的にならざるをえない問題を扱っているにもかかわらず、邦画興行成績1位が常のジブリ映画ということで作品に不向きな人も大勢に観てしまっているというのが挙げられるでしょう。例えば、劇場版『銀魂』や『ビル・カニンガム&ニューヨーク』などは、最初から客層が絞られているために評価は軒並み高いという状態です。
奥様が二度も観たくないというのもなんとはなく分かる気がします。私の周りの男友達の3人は絶賛しているのですが、女友達の3人からはかなり不評でしたので。もしかしたら、女性が共感しうる女性像というのが菜穂子にはなかったのかもしれません。もちろん、面白いという女性もレビューを見る限り大勢いますが。
私は鷹さんのように一本の文脈に乗れた方というのは非常に羨ましく思います。高評価の感想を見るたびにこれがとても美しい作品だということを思い知らされ、そしてそうであるが故に作品を受け入れられなかった人間には後味ばかりが残るのです。
もしかしたらこの作品は、『ライ麦畑でつかまえて』や『小さな恋のメロディー』のように、人生のある時期、瞬間において最高傑作になるものなのではないかという気もします。
素晴らしい分析、敬服いたします。
そこで、吾人も考えてみました。どうして、こんなにも様々な受け取り方ができるのかということを。
貴殿のおっしゃるところの文脈に乗る乗らないの部分へ大きな影響を与えていることのひとつに、導入方法としての”日本家屋の詳細描写”があると思うのです。
そしてその記憶が受け手にあるかないかということが、その人の意識の深いところで過去へのノスタルジーとともに受け入れるか受け入れないかの決定に大きく寄与しているような気がするのです。
いかがでしょうか、一つの可能性として御考察いただけましたら、うれしく思います。
また、”受容”への道筋に関しては、2時間では足りなかったのでしょうね。宮崎氏自身色々と足りないところはたくさんあるけれど....とおっしゃられていたのもそのあたりなのかもしれません。
私は”宮崎駿の用意した文脈の一本に上手く乗ることができた”一人ですのでラッキーでした。
もう一回見たくて、かみさん誘ったら”絶対イヤ”と言われてしまいました。
貴方がそう「思える」人であるのなら、それでいいのではないでしょうか。
しかし、私はそう「思えない」人が多い理由を書いたのです。
まず誤解があるようでして、私はレビュー中に一度も彼らが「諦めた」とは書いていません。
死を「受容」するというのは相当の覚悟のいる生き方で、また「生きながらえる」ことも貴方の仰る「精一杯」の生き方です。しかしそういった選択肢が他にあるのに、なぜかれらが作中のやり方を選んだのが伝わらないのです。
また、戦争の描き方ももっとあったはずです。堀越二郎そこらへんの兵士などではなく、他でもない多くを殺し、また殺させた軍用兵器を作った男なのですから。
「「戦争」と「死」が取り巻く中で生きていく若者」という深刻なテーマを持ち出していながら、「思わざるを得ない」のではなく、「思える」「思えない」という感想に寄ってしまっているがゆえに、この作品には反発が多いのではないでしょうか。
生きるということと、生命を長らえるということは、別だと思います。
菜穂子は、諦めたのではなく、覚悟して精一杯生きたように思いました。
死にかたを選択したのではなく、生き方を選択したのだとおもいます。