「零戦のような男の物語」風立ちぬ mahochunenさんの映画レビュー(感想・評価)
零戦のような男の物語
一、 歴史的事実とリアリズム
冒頭の夢想的な飛行シーンと、分厚い瓶底眼鏡が少年期の堀越二郎を象徴的に表現している。彼は田舎の豪邸の蚊帳の中で夢を見ている。外界から何重にも守られた温室の中でまっすぐ育つ、夢見がちな少年として描かれるわけだ。関東大震災は、そんな夢と現が交錯する大正末期の少年と、九十年後の我々とをつなぐ架け橋として機能する。誰もが知っている関東大震災という歴史的事件のディテールを、この映画は詳細に復元していると思われる。道幅が狭すぎて将棋倒しに倒れる民家、火事によって発生した竜巻の遠景、神社で倒れる灯篭、俯瞰視点で描かれる都心部の混乱。堀越青年と菜穂子はその中を駆け巡る。
この映画は基本的に堀越二郎を中心に描いており、映像の中でも最も多いのが堀越二郎の顔だろう。そして、その堀越二郎が惹かれ続けた飛行機もまた、たくさん描かれている。しかし、そのどちらでもないにも関わらず、関東大震災の描写は細かく、細部まで描かれている。また、汽車が爆発すると早合点し逃げる乗客や、避難先の神社で倒れる灯篭に驚く人、荷物を持って都市の中を逃げ惑う人々など、堀越青年と菜穂子を離れてそこに暮らしたその他の人々がクローズアップされている。この映画は観客を作品世界に没入させるための道具立てとして、関東大震災に見舞われた東京のディテールを描いている。そうしたディテールへのこだわりは、その後も飛行機を牛で運ぶといったユーモラスなエピソードや、シベリアパン、二郎と菜穂子の結婚シーンにおける婚礼の儀式など、当時の風俗を描く描写で所々に発揮されている。引き込んだ作品世界を最後まで支えるのもまた、歴史的事実を元にしたディテールの描写なのである。
二、堀越二郎の人物造形
主人公の堀越二郎は、夢を一途に追う男である。それは、魚の骨に飛行機の部品を想起してしまう程に徹底している。周辺にいる家族や友人に優しさは見せるが、あくまで自身の飛行機に乗りたい、目が悪くてそれが不可能だと知ってからは飛行機を設計したい、という夢を優先し、そのためには他のことを犠牲にするところがある。
妹と遊んでやらない少年時代、一度も実家に帰らない学生時代、早く学校に行くために名も明かさず立ち去ってしまう菜穂子との出会い。軽井沢での静養以外では関東大震災後に一度だけ上野を訪ねたのが唯一の例外で、それも実にそっけなく語られる。結核で喀血した菜穂子に会いに行く途中でも、仕事の手を休めることはないし、家で結核の末期患者である妻が待っていると知っていても、誰よりも遅くまで仕事をしている。作中、彼は少年時代に魅せられた夢に向かって進むことを基本的には止めない人間として描かれている。
まるで、冒頭の分厚い瓶底眼鏡ごしに見る歪んだ堀越少年視点が、堀越少年のライフコースだけでなく人生に対する姿勢までも決めてしまったかのように、堀越二郎は歪みを伴いながら夢という焦点に向かって進み続ける。
三、美しい風景
そんな人生の全てを飛行機に捧げる男が、一敗地に塗れて訪れるのが軽井沢である。カストルプが言うように、軽井沢は「全てを忘れさせてくれる」「魔の山」である。ここでも最初堀越は親切さを見せはするものの、簡潔でそっけない。
その後急速に堀越と菜穂子の恋愛は進展するが、それは軽井沢の美しい自然の風景の中で進行する。カプローニの夢の風景は美しさと陽気さ、そして少しの残酷さを伴って描かれるが、恋愛の風景はそうした夢の風景ともまた少し違ったトーンで描かれている。それは堀越二郎の人生でおそらく最も幸福な時間として設定されているからだろう。
他にも後に結婚し、棲むことになる黒川の家の庭、庭先から訪れる菜穂子の実家など、恋愛に関連したものを中心に美しい風景描写は多く見られる。視覚的な美しさだけでなく、仕事場で当時の先進的な技術に目を輝かせる若い技術者達や、夫婦が一晩中手をつなぐシーン、零戦の成功など、理想的な人間関係や仕事の成功も描かれる。逆に、仕事の失敗、スポンサーやクライアントとの打ち合わせ、結核患者の菜穂子の闘病シーン等は描写的には一瞬ほのめかされるだけである。
この映画は基本的に美しいもの、堀越の人生における美しい経験だけを抽出してつなぎ合わせている。
四、ほのめかされる存在
しかし、少年期の夢の中で既にカプローニによって言及されていたように、堀越の夢は戦争に直結している。半分は帰ってこないだろうというカプローニの冷静な判断は、飛行機作りという夢の残酷な一面をほのめかす。また、軽井沢でカストルプが言ったように、降りたらもう戻れない魔の山・人生の絶頂期の軽井沢のあと、菜穂子の雪が降る孤独な結核療養所での治療シーンがわずかに描かれる。このシーンは、美しいところだけ見せたい=美しくないところは見せたくない、と黒川婦人に解説される菜穂子の失踪後の人生を想像させずにはおかない。
飛行機作りの残酷な側面を「呪い」として何度も語るカプローニ、戦争へと突き進む日本やドイツの世相を軽口で語るカストルプ、重度の結核患者でありながらそのことを意識させないように毅然と振舞う菜穂子と、そのことをはっきり二郎に伝える妹。この映画は人生や世界の暗部を決して無視してはいない。むしろ、そうした暗い部分が、堀越二郎の夢に向かって邁進する姿、最後まで青年期の容姿を保ち続ける美しい青年の一途さによって逆照射される。
この映画は存在をほのめかすことによって観客の想像を掻き立て、直接は描かれない暗部を含んだ歴史の世界へと我々を誘おうとしている。
五、極限まで無駄を省いた美しい人生
堀越二郎は夢を追う。そして、その夢の一つの到達点である零戦は、作中ではエンジンが非力なために「極限まで無駄を省いた」機体として説明されている。この説明は、この映画で描かれている堀越二郎の夢に向かって邁進する人生そのものである。最後のカプローニとの夢で、無数の戦闘機の残骸を踏み越えた二郎は「地獄かと思った」と呟く。決して直接焦点は当てないが、ほのめかされる巨大な歴史の暗部もまた彼の人生の一部であったことが、ここで明確に描き出される。だが、それをもってこの作品は、堀越二郎の人生を否定することはない。恋人に美しいところだけ見せようとする菜穂子のように、美しいところばかりを描きつつ、そこにできる影の存在をほのめかすこの映画の構造自体が、美しい青年が描いた美しい夢であり、同時に誰も帰ってこない死地に人々を送り出す兵器でもあった零戦と、それを作った堀越二郎の人生の両義性を浮かび上がらせている。
この映画で描かれる堀越二郎は、極限まで無駄を省いた、美しさと残酷さを同居させた青年なのである。