「インド映画の幸せな時代」スタンリーのお弁当箱 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
インド映画の幸せな時代
映画冒頭、スタンリー少年の登校場面。画面の高さと彼の背丈を合わせたショットが続く。次第にその顔をアップでとらえるようになると、数か所のあざがあることを観客は認める。
ここまでで主人公が弱く小さな存在で、しかも誰かから暴力を受けていることが分かる。この少年が学校にお弁当を持参しないことで事件が起きて、そのことがきっかけでスタンリーに思いがけない幸運もやってくるという話。
主人公以外の画面に映し出された人物の描写も、一つ一つが説得力があり、それぞれの個性や物語中の役割がしっかりとしている。特にスタンリーへの理解・共感と無理解・抑圧の役割を人物によって描き分けているところが明快である。
学校という場、子供の生活は同じことを毎日繰り返す単調さがある。映画はこの単調さを逆手にとって、登場人物たちの変化を描いている。
例えば、互いのひじがぶつかり合うことで喧嘩を繰り返す二人の子供。原因は利き腕の異なる二人が並んで座っていること。英語教師はこれに、互いの利き腕がぶつからないように左右入れ替わって座ることを提案し、この二人に安寧をもたらす。
また、食いしん坊でスタンリーに意地悪な先生はいつも顔の汗を拭っている。ところが、終盤でスタンリーへの暴言を悔いた時、彼が拭ったものは汗ではなく涙であった。この演出があればこそ、全ての観客の憎悪の対象であったこの国語教師が、心から詫びていることが分かるのだ。
このほか、毎朝教室から正門を見下ろすスタンリーが待っているのは大好きな英語の先生。しかし、彼女は結婚式のあとしばらく休暇をとるのだ。この休暇中の寂しさを、彼女が入ってくることない正門をじっと見つめる姿が表わしている。
挙げればまだある。スタンリーに弁当を分けてあげるために、昼食をとる場所を毎日変えるようになって、みんなが嫌いな国語教師はその本性をむき出しにし始める。そして、このことがスタンリーが学校へ通えなくなる事件へと繋がっていくのである。決まった時間に教室で食べていた昼食も単調な繰り返しなら、毎日通う学校へ通えなくなるということも、単調な繰り返しが破たんするという事件である。
くどくどとした説明ではなく、映像で観客をひき込める内容となっているのだが、その内容を言葉で説明してしまう歌唱がところどころに入り、このあたりがインド映画らしい。観客として想定している人々が映画に求めているものを考えて、こうした歌を挿入しているのだろうが、正直なところ必要ないと思った観客も多かったのではないだろうか。
貧しさ、境遇の辛さを補って余りある楽しさをスタンリーは感じて日々を生きている。
このような映画は、周囲の皆が貧しい時代には生まれてこない。そして、みんなが豊かになってしまった社会にも出てこないだろう。豊かになった者、豊かになった人々から忘れ去られようとしている者が分化し始めた場所にこのようなドラマは生まれる。
戦後から高度経済成長に入りかける頃の日本。90年代の韓国、台湾、中国、80年代の香港。映画制作国の多くが、素晴らしい作品を次々と世界に向けて出していた時代をそれぞれに持っている。