ハッシュパピー バスタブ島の少女のレビュー・感想・評価
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少女が見た、世界の外側
昨年度アカデミー賞の作品賞ノミネート作品で、最も楽しみにしていた映画をやっと見ることができた。その期待を裏切らない、独創的で、素晴らしく感動的な作品であったことは言うまでもない。
物語の大筋はあらすじの通りである。だがここで重要になるのが、この映画はあくまでハッシュパピーの視点で進行していくという点だ。物語の多くの要素は詳しく語られず、台詞を口にするのもハッシュパピーと父親のウィンク、そして数人の大人だけだ。これが映画の魅力に大きく貢献している。
まず注目すべきは「文明と隔絶した社会を営む人々」を描いていることだ。彼らの生活は一見すると眉をひそめるようなものだし、頑に「バスタブ」に居座り続けようとする意図もはっきりとは分からない。もちろん自分たちの“故郷”だからだとは思うが。しかし監督が見せたいのは彼らの生活に対する讃歌やゴリゴリの「自然主義」でもない。そういった「文明対自然」の点における監督の立場は一貫してニュートラルであり続けている。そうでなければ、バスタブ島の住民が強制退去させられる場面などをもっと憎々しげに表現するだろう。
ではなぜ監督のザイトリンはこの「バスタブ島」を舞台にしたのか。それは彼が「人間」そのものを純粋に描きたかったからだ。ある意味での極限状態に置かれた人々の、彼らなりの哲学や生き方を見せる上で文明社会は逆に非現実的な要素となるからだ。子供であるハッシュパピーからしてみればなおさらだろう。彼女の世界は「バスタブ島」がすべてで、それ以上でもそれ以下でもない。その彼女の世界に「嵐」というリアルが舞い込むことにより、今まで目にすることの無かった「“非現実的”なリアル」と「“リアル”な空想世界」を目の当たりにする。
この現実と空想の曖昧な境界線が、また一つのこの映画の魅力である。それが幻想的な映像と合わされば、見る人の好奇心をかき立てることは間違いない。「オーロック」という巨大なイノシシのような古代の怪物がこの「空想世界」のメタファーであるが、その存在はこの映画を決して陳腐なファンタジーとはしない。彼らがどういった存在なのか、現実に存在しているのか、劇中では一切語られることが無い。だが「ハッシュパピーの成長」という観点から見ると、彼らの存在は必要不可欠であり、事実ハッシュパピーがオーロックと対峙する場面にはこみ上げるものがある。
だが何と言っても、この映画で最も心を動かされるのはハッシュパピーとウィンクの関係だろう。粗暴で「良い父親」とは言いがたいウィンクが、自分の病を必死に隠し、娘にありとあらゆる知恵を教えていく過程はそれだけでも十分感動的だ。だが彼の病が本格的に進行してから、私たちは初めて役者の底力を見ることになる。クヮヴェンジャネ・ウォレスとドゥワイト・ヘンリーはほとんどの場面で互いの本心をさらけ出すことは無いが、その眼差しが避けることのできない真実を語っている。一つ一つの表情がハッシュパピーとウィンクの複雑な感情を見事に表していて、この一種のファンタジーに独特の現実感があるのは彼らのおかげだ。
そして最後のシーンではきっと誰もが涙を抑えられない。食事のシーンが(ほとんどがカニなどを生で食べるようなものだが)印象的なこの映画は最後も食べ物で締めくくる。人間の豊かさ、生命の尊さ、親子の愛、子供の成長。このシーンにすべての感動が詰まっている。ここに唯一無二の傑作が誕生した。
(13年7月1日鑑賞)
小さな体がもたらした大きな奇跡
ハッシュパピーの小さな体から発信される大きなパワーに圧倒されました!
生きることとは、生活をすることとは、幸せとは、自由とは・・・
とにかく色々な事を考えさせられました。
ただそこに立っているだけなのに存在感のあるこの少女の姿を見逃すわけにはいかないでしょう。
そしてお父さんがまたイイ!
この親にしてこの子あり。
少女とお父さんが迎える結末に涙を流さない人はいないはず。
エンドロールで流れる音楽がずっと頭の中でリフレインし続けます。
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