劇場公開日 2013年9月21日

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「ノンフィクションをフィクション化して伝えたかったこと」凶悪 R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5ノンフィクションをフィクション化して伝えたかったこと

2024年6月10日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

知的

随分前にTVで見た記憶があるものの、それを忘れて再度見た。
これは、ノンフィクションを作品化したことで何が本当の「凶悪」なのかを明確にしているのだろうと思った。
それは木村が藤井に向かって言うセリフ「私を殺したいと一番強く願っているのは、被害者でも須藤でもない」
それはつまり人に対する「断罪意識」そのものであり、それこそがこの作品が伝えたかった「凶悪」の正体であり根源なのだろう。
作品のこの主張を広角的視野で見れば、それはマスメディア全体について言えるのかもしれないが、作中のメディアが追いかけているのはゴシップばかりで、おおよそジャーナリズムというべき要素は見当たらない。
しかし、藤井記者一人に絞りこめばそれは、彼自身が持つ「脅迫的概念」であり、それこそが凶悪の根源だと思われる。
生活資金の問題のある牛場一家。彼らは借金の原因の父に保険金を掛け自然死を待ったものの、しつこく生きているので保険金を掛け続けられなくなったことで、「先生」に依頼した。
この構図と母を施設に入れる構図はそんなに違うのだろうか? この部分はオブラートに包みこむように作品が訴えていることのように感じた。母を施設に入れることができない藤井の考える「正しさ」の境界線のようなものがそこにあるのを感じる。
視聴者的俯瞰で見れば藤井の仕事、家庭、それぞれ天秤にかけているのが伺える。思っている以外のことはしたくないのだろう。それが正しい、自分は正しい、妻の限界を超えるまで手を付けない。記事が売れたのは良かったが、「まだ事件は何も終わってなんかない」とデスクに吠える始末だ。この彼の脅迫的使命感こそがこの作品が伝えたい「凶悪」の根源だ。
実在した事件、死刑囚が告白した未認知事件。その凶悪性と匹敵する「根源」があることを制作者は気づいたのかもしれない。
そこにある違いは単に「法律」だけだ。
法があるから法治国家だが、その法を根拠に人を「断罪」することができる。
木村は確かに高齢者を「油田」に見立て、金を産む道具にした。人を何人も殺した。殺させた。彼は自分のしたことを理解しているし、それがどれだけ「凶悪」なのかも理解している。
そして、それを暴き出し断罪しようと血ナマコになって追いかける藤井の執念を見て、それを自分と同じ「凶悪」だと言い当てた。言い当てたという言い方が正しいように思う。
木村にはない種類の「凶悪」さを藤井に見て取ったのだ。同時に法のあるなししか違いのないことも汲み取ったのだろう。
藤井には痴ほう症の母がいる。その面倒を四六時中見ているのは妻だ。
藤井は妻に言う「この記事で犯人が逮捕され刑を受ければ、亡くなった方々の魂が報われる」 しかし妻は言い返す「私は生きているの!」
妻は言う「ずっと前からお母さんを殴っているの。もう罪悪感を感じない。自分だけはそんな人間じゃないと思っていたけど」
仕事という正義 誰もが家族に対していい訳に使う言葉「仕事だから」 記事を読んだ妻が「こんな取材が面白くて仕方なかったんでしょ」
妻の言葉に大声で怒鳴る藤井。
藤井家族の中に法に抵触することはないが、それらをすべて誰かに押し付け棚に上げ、家族・知人にまったく関係のない出来事を発掘するようにあぶりだし、法を武器にその誰かを断罪するという行為は、もしかしたら「凶悪」なのかもしれない。
あの木村の最後のセリフに込めらたことこそがこの作品のテーマであるならば、凶悪は昨今頻繁に取り上げられる「視聴者動画」の中にこびりついているような気がしてならない。

R41