嘆きのピエタのレビュー・感想・評価
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今回のギドクは優しいぜ!!
「うつせみ」「春夏秋冬そして春」「絶対の愛」を観てきて、こっりゃおもしれえなあ、と見ていった後「弓」にぶち当たり、その展開を予見できた俺は、たぶんギドク以上にショックを受け、もう絶対ギドクの映画は見ねえ、って誓った。
なので、新作「嘆きのピエタ」が公開、ヴェネチア映画祭金獅子賞を取った時、そりゃいつかギドクはとるだろうな、と思ったし、もっと言うと、取れるぐらい「観易い映画」を作ったのだろうな、とも思ったが、結局怖くて行けなかった。
自分の否定したくなる部分をつらくとも笑える吉田恵輔作品ではない、見た事を本気で後悔させてくれるのがギドク。
海外の評価とは全く関係ないかのように、忌み嫌われるギドク。
キム・ジウン、パク・チャヌク、そしてポン・ジョノ。
こんなに娯楽作品を作るのに長けた人たちがいるのだ。
ギドクの作品は寓話としてそれはとても素晴らしい。
しかし、韓国を、ありのままに、またその暗部を陰鬱な印象で撮ってきたギドクはそりゃ韓国国内で嫌われもしよう。
日本人の俺だって、どんなに優れた、面白い作品であっても、心底心が衰退する映画は見たくない。娯楽として心が落ち込むのは、心のリセットとして受け止めることもできるが、ギドクのそれは俺には無理だった。
ところが、この「嘆きのピエタ」レンタルの回転率がとても良いらしい。
変人が増えたとは思わないが、「金獅子賞」はやはり「観易い映画」であるということなのだ、と判断した俺はついに手に取る。
うーん、一人で、DVDで、良かった。
いろんな意味で映画館で観なくてよかった。(いや、周りの反応を見たいという意味では、映画館で観るべきだったか)
このクソみたいな主人公への、心の救済。
ギドクの精一杯の優しさに満ち溢れている。
誰も見たことのない、あり得ない方法で主人公が許しを請う姿をギドクは選択し、それを優しく見守る視点で映画は終わる。
今回も実は結構予見できたのだが、これは、そもそもギドクの本質であり、また進化でもある。それはまた同時にオレの「優しさの理解の進化」だと思っている。
ちょっとだけ、おっさんの俺はまた人の優しさに触れたのかもしれない。うーん、いい話だ。
追記
「優しいギドク」といったそばから今から旧作「悪い男」を観ようとしている。
大丈夫か、俺?
ストーリーは良いのに組み立てが下手すぎる
物語の舞台になっている清渓川周辺の町工場エリアというのは、首都ソウルの中心に近い場所にありながら開発が取り残されたエリアだ。
昔ながらの雰囲気を残すべきとの声もあるらしく、ここを開発する是非はわからないが、作品内では、見捨てられたエリア、荒んだエリアの写し身として主人公ガンドがいる。
つまり、発展した母ソウルから見捨てられた存在、息子清渓川周辺の母子の物語であるが、これはまあ具体的なメッセージ性に欠けるので無視していいだろう。
街のメタファーとしてミソンとガンドがあり、その二人にはうなぎとうさぎというメタファーがある二重メタファーは面白いと思ったけれど、使い方が良くない。
生きた動物をしめて食べる、いわゆる血肉をむさぼる悪魔の表現として何度か登場する。ガンドがしめずに飼い始めた生き物がうなぎで、うなぎはミソンであるから、ガンドがミソンを母として受け入れた事を示す。が、比喩表現としてのうなぎは、まあここでは良いとして、いくらなんでもガンドが母に陥落するの早すぎるだろ。3回あったくらいでもう受け入れ始めちゃう。
それで次が一番の問題なんだけど、うなぎとうさぎがミソンとガンドなのはちゃんと観てれば誰でもわかるわけで、そうなるとうなぎとうさぎがどうなったか、うなぎはミソンの手でしめられ調理される。うさぎは車にひかれる。二人のこれからがモロバレすぎてサスペンスらしいハラハラ感が全く持続しないのはツラい。
物語の真ん中くらいでミソンが自死することがわかってしまえば、ミソンが何をしようとしているのか全部わかってしまうのだからもう少し考えるべき。
うなぎはミソンが死ぬ直前くらいに、うさぎはガンドがテントに行ったラストシークエンスの直前くらいにするのが最善だと思う。
あとは、母子関係のあり方とかその他、文化的、思想的な違いは理解していても、さすがに気持ち悪い。
これが映画の中だけではない事実もまた気持ち悪い。
良い面は大いにあり、そこだけ見れば星5。しかし悪い面も多く差し引きで星3だろうか。
あまり良いものがない韓国映画の中でも光るものはあった。
ピエタ:亡きイエスの骸を抱く聖母マリア
ネタバレ
見終えてなるほどのタイトル。これも一つのピエタ像(イメージ)だったわけだ。。
韓国工業団地底辺層。高利の借金に苦しむ債務者から情け容赦なく金を取り立て、払えなければ文字通り〝かたわ”にしてまで保険金をせしめる過酷な借金取り立て屋。
幾人も彼に手や足を駄目にされ、残された家族ともどもさらなる絶望の最下層生活に追いやられる。
ところがそんな一人身の彼にいきなり母親と名乗る女が現れ、最初は相手にしなかったものの、次第に彼女の言い分を信じ、本物の母親として受容するに至る。
そのせいか暖かい人間味が彼の中に生じてしまい、非常冷酷な借金取り立てができなくなる。
逆に身内の存在を知った〝かたわ”にされた債務者が彼の「母親」を人質に取り、彼に復讐を果たそうとする・・・・
というのが途中までの流れ。
まるで六道輪廻・餓鬼道の世界を垣間見るような絶望的気分に陥る映像。ここまで救いようのない徹底的な無慈悲の世界は初めて見たような気がする。
そしてかなり訳アリと感じさせる「母親」の出現が悪魔と罵られる「彼」に及ぼす微妙な影響、心理の柔軟化はこちらが痛々しいと感じるほど。
その「弱点」を見透かし彼に仕返しをしようとする彼の被害者の登場はまさしく因果応報。
ついに「母親」の真の目的が明かされオープニングシーンと結びつくわけだが、ここで種明かしが早すぎるのではないか? と感じてしまったものの、そこから更なるクライマックスで監督が〝ピエタ”と名付けたタイトルの意味がおぼろげながら浮かび上がってくる結末、全体構成になかなかの感銘を受けることになる。
ただラスト。あれがもし「刑場に牽かれるイエス」を模したものだとするなら、それは違うだろうと感ず。あれでは自動車の運転手が単なる殺人犯として処罰を受けることになってしまうだけだから。(遺書でもない限り言い訳や釈明は認められそうもない)
被害者やその家族が「彼」に対する恨みを清算できる別の相応しい手立てがあったはずとそこが惜しまれる。
しかし、自作自演をしながら「彼も可哀想・・・」とかりそめの母親が慈悲心(又は罪の意識か)から涙ながらに語る場面こそ、私にとってのクライマックスでしたね。
総評四つ星
2008-2
すっとぼけた美しさ
キム・ギドクは韓国のたけしと一部で言われていましたが、個人的にその通りだと思っていて、それは暴力描写ではなく、すっとぼけたシニカルさ、その際の間が似ていると思っています。
うなぎが落ちてピチピチいってるシーン、ギターがド下手なシーン、そしてラストシーンと、隣で芸人さんがツッコミを入れれば笑えるようなシーンだと思います。
これをサスペンスだと思って見たら2流3流になってしまうと思います。現実感の調整でも冷めてしまう方がいるのはうなずけるんですが、「うつせみ」のキム・ギドクですから、そうしてでも描きたいものがあるんだろうと思って見てました。
それが、僕が映画史に残ると思っているラストシーンの美しさです。ここでプラス10点ぐらい加算されました。
サマリアの運転シーンもそうでしたが、泣けるとも笑えるともつかない、今まで味わったことのない色の感情を与えてくれました。
そこでは想像もしたくない凄惨な事が起きてるわけですが、それを俯瞰的に見せて深入りさせず、なんならクスッと、笑いを20倍に薄めたような成分と、陽の登らない早朝の爽やかな空気と、あり得ないし胸糞な色であるはずなのにストレートに美しく感じさせる映像は圧巻でした。
悪魔を人間にしてしまう…
ギドク監督らしいエグみ、これぞ韓国映画。借り手を障がい者にして借金を保険金に代えて取り立てる借金取りイ・ガンド。客は町工場の人々で次々と機械で手を落としたり、ビルから落としたり、情けを一切かけず、悪魔の所業。しかし、生まれて30年天涯孤独で育ち、人の愛情を知らずに育つ。そんなところに母親と名乗る女性が現れ、生活が一変する。最初は疑うも、次第に心を開き、共に暮らすようになり、母親無くしては生きていけないようになってしまう。しかし、それはガンドに息子を自殺に追いやられた母親の復讐だった。悪魔に初めて愛情を与え、それを自ら自殺という手段で一気に奪い去る。これほど恐ろしい復讐はない。もはやガンドは抜け殻、生きる糧を無くし、自殺するしかなかった。2時間切るスピーディな展開ながら、色濃く、後味が悪い。ガンド役が巨人の岡本和真にしか見えなかった。
復習の仕方が凄い
ガンドの前に現れた母親という女。でも実は、、、。ミソンの考えた復習の方法が凄い。母親の愛情を思い知らせ、有頂天になったところで奈落に突き落とす。ガンドの目の前で死ぬ。確かにガンドがしてきたことを体験させるべくピッタリの方法だけど、観ていて辛い。
ガンドのケジメのつけかたもまた凄まじい。
あの奥さんに言われた、お前を車で引きずって殺してやりたい〜を実行させた。でもあれだと奥さんに殺人容疑がかかってしまいそう、と余計な心配が沸いた。
私が初めて観た韓国映画で、面白く、韓国映画を見始めるきっかけになった映画。久しぶりに観たけれどやっぱり面白い。
ピエタ、母への愛と母の愛がすべて
韓国映画の、母子間の愛情はとてつもなくて愛が深すぎて暗闇に突き進んでしまうようなのが時々ありめんくらう。これはそれより複雑パターン。途中でそうか、とわかってしまうのだが、ガンドの、極悪非道人から親孝行に前のめりになる様がとにかく異様だ。図らずも、母の策略により、自分が加害者となり危害を加え人生を変えてしまった人々ひとりひとりに贖罪をしていくことになる。
母の死、策略のラストステージで復讐完成に燃える母の背後には、また予定外に別の母。韓国映画王道の強い母たちの物語。
それにしてもいきなり冒頭のシーンの衝撃。
ラスト、それでもセーターを奪い返してしまうほどの、誰かに愛されていたかった、信じるものが欲しかったガンドの姿に衝撃、その最後の贖罪の衝撃。
処女懐胎だろうが演技だろうが、子にとって母は母。
むき出しの心をヤスリで削られるような苦しさと
観る人の予想だにしないストーリーテリングにはいつも感動させられます。
久しぶりに観たキムギドクでしたが、やはり素晴らしい!
子のためであれば何でもなし得る母親の強さを
描いていました。
いや、母(を名乗る女)ミソンのすさまじさといったら
いっそファンタジーなくらいで、
本当の女心・母心を知るべくもない男である監督の
想像と憧れの姿の現れかも知れないと思いました。
母と息子の関係には、親子以上に別の特殊な感情も
付随しがちなのではないかと思えてきました。
劇中、ミソンがガンドを慈しむ姿は恋人のそれのようでもあり。
また、よくアメリカのギャング映画でも描かれているように
残虐な悪人であっても母親だけは大切にしたり、
あるいは母親には頭が上がらなかったりして。
暗くて重い復讐譚の中に見える母と息子の愛
ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した韓国のキム・ギドク監督の作品。
バイオレンスや復讐はどちらかといえば苦手な方なのに、最近、韓国のそちら系に走ってしまっています。
天涯孤独で母親というものを知らないまま生きてきた、冷徹な取り立て屋のガンドの前に、母親と名乗る女性(ミソン)が現れて、家に入ってきて、いきなり台所にたまった皿を洗い出すのです。不信に思ったガンドは何度も女を追い出そうとするのですが、女は何度もガンドに謝り、たびたび涙を流すのです。でも何だか怪しすぎる。しかし、母を知らないガンドは女を慕うようになり、女(母親)に首ったけになってしまいます。
ガンドを抱きしめ、よしよしもするのですが、ガンドの夢精を手伝って、手を汚し、顔をしかめて、水で洗い流すシーンから、「本当の母親じゃないんだ」とわかります。
この作品の「復讐」は、屈折しているというか、手が込んでいるものでした。
母性愛を知らない男に
母の愛を植え付けて
愛を失わせることで
悲しみのどん底に突き落とす
衝撃の事実を男が知る
そして贖罪として男は・・・
復讐のためにガンドに近づいた女もガンドを憐れみ、慈悲のような気持ちが芽生えていました。凄まじい映画なのに、優しさも残っていて、気持ちが和らぎました。
女と一緒に植えた松の木の下に、母の亡骸を埋めようとしたときに、ガンドは事実を知るわけですが、女の息子が着ていたセーターを自分が着て、3人並んで横たわっているシーンが、不気味なのに美しく見えました。
多少、笑えるところもありました。
女が置いていった、うなぎにタグのようなものがついていて、そこに女の名前と電話番号が書いてあったり。笑えるシーンかどうかはわかりませんが、ガンドが女の股間に手を突っ込み、「俺はここから産まれたのか?」と叫び、「ここにまた戻してくれ〜」ということころ。母と息子なのに、ここで、2人は結ばれたのか・・・? 背徳的なにおいもしました。
仕事の合間、寝不足の時に観たのですが、ある意味、魂を揺さぶられました。
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自宅にて鑑賞。原題『피에타(英題;"Pieta")』。題名のピエタ(聖母)は本作に登場しないし、少なくとも("C.ミンス"とクレジットされた)J.ミンスの“チャン・ミソン”はそう思えない。時折フラフラ揺れるアングルやズームイン、ズームアウトを繰り返す落ち着きの無いカメラは昂った感情の現れだろうか。ラスト近く、罵倒し拒み続けた障碍者となったW.ギホンの“フンチョル”の抱擁にソッと手を添えるその妻、K.ウンジンの“ミョンジャ”とそれを屋外から見守る孤独な男の対比に本作のテーマが隠されている。65/100点。
・J.ミンスの“チャン・ミソン”に食べさせた物は翌朝、L.ジョンジンの“イ・ガンド”のズボンの左腿の辺りが汚れていたのがヒントだと思う。
・撮影は二台のデジタル一眼レフCanon製"EOS 5D Mark II"で、フルデジタル撮影され、その内、一台は監督自身が回したらしい。
・監督は10日間でロケハンを及び準備を進め、20日間で撮影を終え、その後の30日間で編集とポストプロダクションを施し、完成させたと云う。尚、予算はたったの13,000ドルで済んだらしい。
・鑑賞日:2016年7月2日(土)
引き摺られ
母親と偽り復讐の為に近づく女が原田美枝子に似ていてたまに岸本加世子がチラリ!?
主人公は吉川晃司みたいな骨格に体格!?
早い段階で母親では無いことや息子がワンスターなのが解ってしまうが敢えて解りやすい演出にしているのか?
180度様変わりな主人公に違和感すら感じてしまうがデートの場面での彼が可愛くも思える。
殺したい程に憎い相手なのに手でヌイてあげるのは理解に苦しむ!?嫌な顔して洗う訳だし。
ラスト母親の心情が揺れ動いている風にも捉えられるが本来の目的を行う。
嘆きのピエタ"復讐の為に行動する聖母マリア"は最後どちらに嘆いていたのか?自分自身にか!?
悪魔を憐れむ歌
負債者を障害者にしてその保険金で借金を返済させる非道な取り立て屋のガンド。天涯孤独に生きてきた彼の前に、突然母親と名乗る女性が現れ…。
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞に輝くキム・キドク監督作。
当然信じられず、邪険に振る舞うガンド。
が、母親という女性は赦しを乞い、献身的に世話をする。
初めて知った母の温もり。次第に心を開き始める…。
年甲斐もなく母親に甘えたり、二人でデートしたり…。
負債者から悪魔と恐れられている男の童心のような一面。
序盤の取り立てシーンは胸糞悪いにせよ、“母の慈愛”をテーマに、あのキム・キドクが優しい映画を…?
いやいや、やはりパンチの効いた鬱映画だった。
中盤辺りで、ひょっとしてこういう展開じゃないかな、と少し察しがついた。
母が息子の取り立て先を記してあるノートを見て涙したり、息子の○○を激しく拒絶するように洗い流したり、何より息子の前で微笑みを見せた事が無い。
これは壮絶な復讐劇。
愛を与えて与えて、正体も明かさず、その愛を目の前で絶ち切る。
…その筈が、悪魔へ芽生えていた憐れみと慈愛。
悪魔も愛を欲していたのだ。
最後に知った衝撃の事実。
それでも母親の愛を欲す。
愛を知り、失った悪魔はもう…
嘆きたくなる
天涯孤独で生きてきた男ガンド(イ•ジョンジン)の仕事は債務者に重傷を負わせその保険金で借金を返済させるという取り立て屋。ガンドの前に母を名乗る女が現れる。始めは疑っていたが徐々にかけがえない存在になってゆく。でもそれは女の計算しつくした演技だったのだ。
実は女ミソンはガンドに障害者にされて自殺した男の母親だった。狙いは自分を母親と信じこませ、そのうえで、ガンドを恨んでいる債務者に殺されたように見せかけて自殺して愛する人を失った苦しみを味わわせるという復讐劇だったのだ。
ミソンが誰かに殺されそうな一人芝居を見てガンドは自分を殺してくれと土下座までして偽りの母親をなんとか助けようとする場面はよかった。そんなガンドに息子を殺されたミソンも同情するが飛び降りて死んでしまう。
ミソンの遺言とおり松の木に遺体を埋めようとすると手編みのセーターを着たミソンの本当の息子の遺体が現れる。
愛を知り、ガンドは障害者にした男の家のトラックの下に潜り引きずられて死ぬことを選ぶのだ。
暗く悲しい話なのに見終わっても不思議に見てよかったと思えたのは、根底に母親の無償の愛の深さを描いているからか、と思う。
タイトルのピエタはミケランジェロのピエタをモデルにしていて、十字架から降ろされたイエス•キリストを抱く聖母マリア像であり、慈悲深き母の愛の象徴でもある。
映画中債務者の母達の嘆き悲しむ姿が多く見られた。タイトルも良いと思った。
最後のシーンは本当に心がえぐられる思いだった。
母と息子の変奏曲
母親は娘を亡くしたとしても、ここまでして復讐しようとするだろうか?
冷酷な取立屋で荒んだ暮らしをする息子は自分を捨てた母親をこうもあっさり(それなりのテストは課すものの)受け入れ依存するようになってしまうのだろうか?
誰かの息子でもなく、息子を持つ母親でもない私には、母親と息子の間の愛と憎しみについて理解することは難しい。
本当の母親だと信じた女は自分が自殺に追い込んだ男の母親だった。
復讐を誓う母親は、生まれてすぐに男を捨てた母親だと名乗って男の前に現れる。
母親を知らずに生きてきた男。
母親の存在を知り、彼の他人の母親と息子、家族に対する見方も変わっていく。
この作品では様々な母と息子の関係が変奏のように描かれる。
取り立て屋と復讐を誓う母親の擬似関係。
借金と不自由な身体を苦に命を絶つ息子と残された母親。
借金を抱えてビニールハウスで暮らすようになる夫婦。障害者となり妻に依存する夫。この二人の関係も母と息子の変奏なのである。
この作品には、現代社会の拝金主義、人間とお金の関わりに対する批判も込められているようだが、これはまた別の話ではないかと思う。
これは、残酷で普遍的な大人のための寓話。
観客がピエタ。
「ピエタ」とは
十字架から降ろされたイエス・キリストを抱く聖母マリア像の
ことをいい、慈悲深き母の愛の象徴であるらしい。
いやいや、慈悲深いとかそういうレベルの映像ではなかったが、
不思議と残酷さは(映像の実態とは別に)物語には流れていない。
どちらかというなら悲劇だ。借金苦に喘ぐ工場主たちの実態と、
暴利で保険金を稼がせ返済させる主人公と被害者たちの関係。
どうにもならない、二進も三進もいかないという状況が観てとれて、
冒頭から胸糞悪い、気持ち悪い、悲惨、と、こちら側も堪らない。
非常に分かり易い映像で今作は見せているが(時代物のように)
不況に喘ぐ日本や諸外国のどこかで同じようなことが起きている。
保険金で償う。とは聞こえがいいが、障害者になってどう働く?
そんな手足でこれからどう生きていくんだ?が見てとれる状況に
まったく辻褄の合わない凄惨な選択が債務者の人生を狂わせる。
30年間孤児という天涯孤独を生きてきた主人公ガンドは、何を
考えるでもなく、債務者を取り立てては、家に帰って食事をする。
浴室の血生臭い映像は、彼の食事用の小動物の残骸である。
そこへ突然「あなたを捨てた母親だ」と言って現れる女。
物語に特異性はないので、この女が一体誰なのかは察しがつくが
しかしどこまでもこの女はガンドに尽くしまくるのである。
ガンドの心は孤独から解放され、母親に傾き始めるのだが、
物語はガンドより先に女の正体と今回の事件の真相を観客に示す。
ラストに向けて、各々の心が動き始めるのはここから。
天涯孤独。も、子供を失った遺族。も、やり切れない想いは同じ。
悲劇を背負った者同士が心を通わせるかと思いきや、図らずも
決して相手には伝わらないままで終わる。
真相を知ったガンドが最後にとる行動は、債務者(被害者)の妻が
彼に向って放つ言葉通りになったが、あまりに救いのない結末。
嘆くのは観客。監督は、観客をピエタに据えたかったのかしら。
(あぁ無情。哀しくてやりきれず。何をどうすれば良かったんだか)
荒みすぎ
金属加工の工場ばかりを相手にした借金取りの話。韓国では障害を持つと簡単に保険金が出るという仕組みなのか、町工場でそんな事故が立て続けに起こっていれば保険会社が怪しむのではないかとちょっと腑に落ちないところがあった。現金の10倍の利息が付くシステムがおかしいし、韓国大丈夫かと心配になった。
そして腕をなくしたり歩けなくなった人が、工場で働くこともできなくてみんな悲惨な人生を送るようになっていた。怪我を負わせる場面がとても怖い。演出だし、映画だから絶対に安全な方法で撮影しているに決まっているんだけど、内臓がギュッとなるほど怖かった。
それで、ひどい目に合された人が主人公に恨みを持って「法律がなかったら殺してやりたい」と述べる。ひどいことになっていても順法精神があるところが立派だと思った反面、恨みの程度がそのくらいなのかと思った。捨て身でくる人間が一番恐ろしい。
その捨て身の人間がお母さんに成りすましているおばさんだった。みんなお金と借金の制度と保険金のシステムの被害者だと思う。みんな幸せにしてくれる社会にして欲しいと思った。とにかく荒んでいて暗い映画だった。
人間って、そこまで悪くない・・・
人間の体液の量…
そんなふうに考える方もいるんですね!
私には、あのラストシーンは、人間の罪をすべて背負って十字架にかけられたイエスキリストの血と涙の象徴だと思え、そして、それは終わりのないもの、人間とはなんと罪深いのかと感じさせられて、涙が止まりませんでした。
重い、暗い、とばかり言われているようですが、母と息子として痛ましいほどに嬉々として買い物を楽しんでいる場面、電話番号付きのウナギとか、ちょっと笑えるところもあり、
なにより、冷酷な男に優しさが生まれ、復讐の鬼と化した母にも、男に対する愛情が芽生えたり、やっぱり根っからの悪人なんていないんだ、と思わせてくれました。
今村昌平監督の重喜劇のような趣きもありましたね。
キム・ギドク監督、他の作品も見たくなりました!
崇高なる映画への慈愛
これ程 感銘を受けた映画は近年ありませんでした。
ル・シネマの火曜サービスデーにて鑑賞。
ベネチアの評価から劇場は混み合うと予測するも懸念に及ばず。
国内においてのアートシネマが軽視化されている現状を追認。
さらに、憂慮すべきは本作の主題が性や暴力の描写によって曲解される事。この側面によって「気持ち悪い」「難解だ」と評せられる事はキム・ギドク監督自身も承知の筈。それ故に、これらの描写を必然と容認できる方のみが本作の真意に触れられるといえる。
逆に言えば、「気持ち悪い」「難解だ」と感じる方は、幸福な日々を営んでいるのだともいえる。現代社会に順応できて、日常生活を当たり前に過ごしている人には不必要な映画。「人間ドラマ」で感動を得るため本作を観ようと思っている方は、きっと裏切られます。監督もそのような鑑賞者を前提にしていない筈。
現代人がタブーとする人間の獣性を示し、人間性の真意を描き切ろうとしている監督の意図が理解できるという自信のある方のみに観てもらいたい。
自慰や肉体の切断等のシーンは決してダイレクトな描写ではない。が、これがかえって、鑑賞者に嫌悪感を抱かせるのだと推察。その嫌悪感からこれらのシーンの必然性を否定したくなる気持ちもわかる。が、それに向き合わないと作品の主題が霧散する。
これら人間の獣性を白眼視するのは現代人が持つある種のエゴ。
人間性の復元・魂の浄化・無償の慈愛といった宗教学的テーマに取組むなら、人間の本能を真摯に描写し表現しなければ映画作品としての成立はない。キム・ギドク監督の強い意志を痛感。
作中の人物がとる言動を単にエキセントリックだと解するのは容易い。借金返済のために自らを不具者となる事を余儀なくされる工場主、愛する夫の健全な身心の保全のため自らの貞操を悪の権化に捧げようとする妻、母性の枯渇から夢精が日常化している冷血漢、我が子の死に直面し倒錯した復讐を遂行する母親。他にも愛くるしい笑みをたたえる老婆や無垢な瞳の少年も奇行に走る。
作中にはこのような市井の人々を苛む試練が断片的に続き、鑑賞者に詰問する。何故、罪なき人々が贖罪の羊とならねばならないのか。このキム・ギドク監督の問いかけは、安穏とした日々を過ごす現代人を、唐突であるが故に戸惑わせる。
単なる奇行に過ぎないと一蹴するのは容易い。が、人間の本質を歪めている元凶は何なのかを探求する義務まで我々は放棄してもよいのかと、この映画は詰問する。
また、この映画の主題でもある母性原理の回帰について言及せざるを得ない。我が息子を死に追いやった男に復讐を挑む母がとった行動は綿密で冷酷。が、ここで思慮して頂きたい。この計画の完遂に不可欠なのは、どのような冷血漢にも母性愛を求める人間の本能が存在すという確固たる信念に他ならない。このことから、母性愛とは、唯一無二の真理であり、すべての人間に備わる本能であるのだと雄弁に語らしめている。
この崇高な真理を具現するために、あえて現代人が忌み嫌う人間の獣性をモチーフに据えるのは最も妥当な表現手段だといえる。
映画というメディアを映画産業の経済の中にカテゴライズするなら、本作は興行収入の見込みが乏しい作品となるが、それを周知しながらこの表現手段を貫く監督・これを容認する製作者に敬意を賞したい。
これが金獅子の評価だと私は解した。
現代社会(アジア)の内包する矛盾(暗部)を訴求するという伏線もあるが、それに気をとられては作品の根幹を見失う。設定は近過去のソウルだが、あくまでも本作の主題は人間の内面世界。設定がどこであろうと揺るぐことのない崇高な主題ともいえる。
ラストシーンで「人間の体液の量」に関心が向いてしまうような方もいるようだが、私にとってこのシーンは作品の真意を詩情豊かに表現した重要なもの。
こんなにも 美しく 静謐な ラストシーンを私は観たことがありません。
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