「美というものは五感で感じる具象だけではないのです」利休にたずねよ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
美というものは五感で感じる具象だけではないのです
石田三成がどうして利休を危険視するのか、そして秀吉は利休に切腹を命じた苛立ちの内面が分かりにくく、この点は断片的に描きすぎたかもしれません。しかし、美術面でのこだわりは素晴らしく、映像にずっしりとした重みを感じます。
演技面も主演の海老蔵が各年代の利休をきっちり演じ分けるなど、それぞれの出演者が熱演。骨太の時代絵巻に仕上がっていました。
しかし、自分が数多くの邦画作品の中でも5本の指に入れている勅使河原宏監督の『利休』に比べて、本作の「美」の世界観は遠く及びません。『利休』では、わずか一輪の朝顔を利休が秀吉に活けて見せ、自らの不退の決意と「美は揺るがない」という信念を画面で見せつけました。それに比べて田中光敏監督は、単なる美しさと捉えているのに過ぎないのです。
利休は、当時の名物を尊ぶ既成の価値観を否定して、侘び茶を確立しました。その辺のところにも絢爛さを愛でた秀吉との対立があったのかもしれません。その背景には、快楽や名声をうたたかの刹那とする仏教感が色濃くあったのでしょう。「美は揺るがない」という利休が悟り得た境地とは、生死を超えて貫いて存在する仏法真理の普遍さ、そのいのちの輝きの素晴らしさであったものと思われます。
その象徴として創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としていたのでした。
勅使河原監督作品には、そりが色濃く反映されていたのに比べて、本作では利休が悟り得た世界観を感じ取ることはできませんでした。だから秀吉に侘びを入れようとせず、死に急ぐようにも見れる利休の気持ちが掴めなかったのです。
利休は、枯淡の茶聖ではなく、実は情熱の人だったという大胆な発想の山本兼一の直木賞受賞作が原作の本作。その利休にも、かつて異国・高麗からさらわれてきたクララという女と一緒に逃げようとした秘密があったこと。その情熱的に恋したことは悲劇に終わるのだけど、その体験は諸行に有情有りと利休のこころを潤し、彼独特の洗練された美意識の基になっていくというのが原作ならではの世界観を生み出しています。ところが本作では、肝心の利休の恋というテーマが、時間配分の関係からか、ついでのエピソードのように押しやられていて、晩年の利休にリンクしていないのです。
それでも、色町に入り浸り、色恋に目醒めた青春時代。茶の師となる武野紹鴎の指導を受け、宗易の名で茶の道に邁進した修業時代、そして茶道を完成し、何者にも動じない茶聖と崇められる存在となった姿。その三つの異なる利休像を完全に自分のものとして、存在感を示した海老蔵の演技が素晴らしかったです。
特に海老蔵の父・団十郎が演じた武野紹鴎との体面シーンが印象的でか。死期を悟った団十郎が、演技を超えて、愛弟子としての海老蔵に、今後の芸の道を言い含めるかのような重い語り口で諄々と説く姿に、涙が溢れてきました。最初にして最後の父子共演映画となったこのシーン。もっともっと見たかったです。
加えて、海老蔵を引き立てるのが、利休を陰で支える妻、宗恩役の中谷美紀の受けの演技。夫の死を静かに受けとめる姿には、非情な最後へ至る悲劇に、一輪の暖かみをもたらせてくれました。
本作一番の見どころは、秀吉の威光を天下に示した北野大茶会を完全再現してことでしょう。北野の森に若党、町人、百姓を問わず居並ぶ大群衆。北野天満宮の拝殿に設えられた黄金の茶室や待庵などの茶室を本物と見まがうばかりに作りだした美術が素晴らしいのです。
また小道具も執念を感じるほど本物に拘っています。実際に利休が使用したという「長次郎作 黒楽茶碗 銘 万代屋黒(もずやぐろ) 利休所持 万代屋宗安伝来」(楽美術館所有)などの茶器の大名物を使って、茶をたてるシーンで使われているので、茶道を心得ている人がご覧になれば、目を丸くして驚かれるでしょう。その他、千利休の木像が置かれた大徳寺の国重要文化財、金毛閣や、一般公開されていない裏千家の今日庵などで撮影するなどの入念さです。
さらに、色鮮やかな衣装、繊細な工作が設えれてある小道具などを見るにつけ、まだまだ邦画には、職人の技が受け継がれているなと心強く感じました。