ゼロ・ダーク・サーティのレビュー・感想・評価
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忠実にただ忠実に。これがハリウッドだ!!
見終えた後は、ただその細部までにこだわったシーンが焼き付き脳裏から離れなかった。事実はその場にいないとわからないと思うが、この映画は見るものにその場を巻き戻して見せてくれる錯覚を起こすような映画だと思います。実際報道でしか断片的に情報がはいってこなかったのですべてを把握している訳ではなく、本作を見たが、はっきりいって衝撃を受けない人はいないと感じた。なぜなら、時代の大転換期の終焉と始まりを告げるできごとだからだ。IT革命の幻想と形あるものが一瞬にして崩れてしまった9.11は、これまでの希望を打ち砕いた。一瞬にして。この事件を受けて世界はより身近にそれぞれが影響されあって相互依存しなければ成立しない時代がやってきたと思う。その時代の大変換期のエピローグを本作は忠実にただ忠実に再現、描写している。しかも驚いたことにここまで細部にこだわっている職人気質の映画であることも個人的には驚いた。うん。素晴らしい出来だと思う。
佳作
ミリオタ向けでは無い
渾身の演技と渾身の物語
傑作。
まず物語に言及するよりも兎に角、先に触れておくべきが主演のジェシカ・チャステインでしょう。凄いです。渾身の演技ってのはこのことを云うんじゃないですかね。
正義と呼ぶには拷問やら殺人が横行する血濡れた稼業。悪と呼ぶにはその大義が意味する処を思えばグレーの世界。
そんな只中に放り込まれた新人CIA。彼女がビン・ラディン暗殺を画策する凄腕エージェントに成長を果たすまでの一大エピック。
見事に演じ切っておりますよ、ジェシカさん。
物語冒頭の拷問に閉口しつつ、やがてそれも『毒を喰らわば皿まで』的に受け入れてく、否応なしで身に付けるタフネス耐性。
何度も命を狙われながら、決して任務遂行の手を弛めぬ、ある意味で意地にも似た狂気的信念。
あまりに不甲斐ない上司に激昂し顔筋歪めてキレる心情吐露しまくりの鳥肌モノシークエンス。等々。
素晴らしいです彼女。あんだけの登場人物、アンサンブルなキャスト揃えてるにも関わらず、主演ジェシカ・チャステインの一人勝ち。独壇場。
―な、安定(?)した主役を据えての、肝心の物語の方なのですが。
これもこれも。ストーリーも秀逸。
終わりの見えない、気が遠くなる程に長い年月の追走劇。
掴んだ証拠はどれも霞の如く手指をすり抜けていく。不透明で空虚な証言の数々。
諦めムードも許されない精神疲弊の孤独な環境。
しかし。
それでも着々と、着々と首謀者ビン・ラディンに近付き行くアプローチ感。
結末は世界中の誰もが分かってるのに、この固唾を飲まされる緊迫感。
恐らく今年度で1番強いられたであろう、切迫した緊張感。
どれを取っても一級品。
このブロックを一段づつ積み重ねるが如くの丁寧な物語運びが、エンターテインメント性を廃しつつ、だけどこれこそ寧ろエンタメだったんじゃないか、という映画的カタルシスを用意されたラスト。
非常に面白かったです。
傑作。
長い
失敗で失うものより、やらずに失うことの大きさ
世界中の誰もが知る2001年の反米テロ組織アルカイダによるニューヨークの9・11同時多発テロ。その首謀者・ビンラディンは行方が掴めないまま年月が過ぎるが、2011年5月11日、パキスタンの地方都市アボッターバードの潜伏先を急襲した米軍特殊部隊によって殺害される。この極秘作戦をクライマックスに据え、作戦実行に至るまでのCIAによるビンラディン捜索活動を克明に描いたのがこの「ゼロ・ダーク・サーティ」だ。タイトルは深夜00:30を意味する軍事用語。
ブラック・サイトと呼ばれる米軍秘密基地での拷問や、CIA組織内での攻防、中東諸国の何を見て何を信じればいいのか右も左も分からない雑多とした拒絶感など、キャスリン・ビグロー監督の演出は相変わらずシャープだ。
手持ちカメラを故意に揺らしたり無駄に顔をアップするような小手先の描写がなく、第三者のクールな目で捉えられたような映像はドキュメンタリーを見ているようだ。
突然の爆発や心理戦など、映画的な描写をつける技もクリント・イーストウッドなみだ。
映画のオープニング、9・11同時多発テロ事件での死を迎える直前の被害者と家族や警察との電話の肉声が真っ暗ななか交錯する。スクリーンにあのときの映像を流したりはしない。何もない真っ黒なスクリーンに、観客は皆、頭のなかのあのツイン・タワーの映像を想い描いたに違いない。観る者を信じて作品から贅肉を削ぎ落とすキャスリン・ビグローの思い切りのよさが出ている。
監督の緻密だが潔い性格と主人公のCAI情報分析官マヤのしたたかさがリンクする。周りの男たちがビンラディンが潜伏する確率に100%を求めるのに対し、失敗することよりも何もせずに失うことを恐れるマヤは、作戦の実行を上に対し強引に進言する。
マヤの分析能力と何年にも及ぶ執念が実を結ぶわけだが、そこには条件を引き算していくだけではない彼女の決断の大胆さがある。
作戦は成功するが、マヤは世界の至る所に見えない敵を作ってしまったに違いない。今もCIAの任務に就いているようだが、いつこれまでの人生を断ち身を潜めなければならない事態になるか分からない危険を抱える。
たったひとり、C-130輸送機のドロップゲートが閉じても彼女の髪の毛が揺れ続ける。任務完了の開放感にそよぐ風というよりは、行くアテもなくぽっかり空いた心の穴に吹き込む隙間風に見える。
観て良かった!!!
観てよかったのかな?
2001年9・11起きた同時多発テロこんな事がアメリカで、ありえない、あのツインタワーが本当に衝撃でした。
関連した映画ユナイテット93はドキメンタリーを観ているのかと錯覚するほどで、
テロリストに立ち向かう乗客たちの混乱と勇気、最後のメッセージに嗚咽しました。
映画終わってもほとんどの人がすぐ立ち上がらなかったのを覚えています。
そして今回はその首謀者オサマ・ビンラディン暗殺に関わった人々。
ただ淡々と事実?だけを写していく、拷問や多くのテロシーン悲しむ暇もない。
作戦決行の日のオサマ・ビンラディンの住む現場は子供たちの泣き声、女性達の死、達成感など何処にもない。
CIA女性分析官マヤと決行部隊の心情は? すべてを観客にポーンと強く投げてくる。
これを映画にした事で、マヤ(仮名)は普通の女としてこの先の人生を送れるのだろうか。
英雄として持て囃される訳もなく、報復に怯えながら密やかに生きなければならないのなら、
彼女も被害者なのかも知れない。専用飛行機に乗った時の彼女の涙は決して誇らしげでは無かったもの。
‘ハートロッカー’に続きズッシリ。
ストーリーはご存知の通り。
ビンラディンを見つけたCIAの女性情報分析官のお話。
とにかく、派手なアクションシーンとかほぼないのに、全編緊張感とすごい張り詰めた空気が続きます。
これは、実話だから?
ワンシーンワンシーンのつなぎ方やひとコマひとコマの映像全てがピーンっと張り詰めているからだと思います。
とても女性監督とは思えない。ガッツリ男映画になってます。
主演のジェシカチャスティンもすごくよかったです。
高卒の何の功績もない彼女が執念でオサマを追い詰める。
ひしひしとその感情が伝わってきました。
ラストシーンは喪失感?絶望感?の涙?
9.11テロで多くの人々が犠牲になったけどどこからスタートしてこうなってしまったのか。
ビンラディンを見つけ出したことで問題は解決したのか?
この話にしても‘衝撃の実話’ということだけど、あくまでも‘証言にもとずいて’出来上がったお話だし…。
どう考えるかは人それぞれなんでしょうね。
とにかく‘必見!’と僕は思います。
「社会現象」ではなく「社会問題」を引き起こした映画
CIA局員の活動を描く実話に基づいた作品と言うところだけを取れば「アルゴ」と同じ種類の映画.
証言に基づいたノンフィクションということだったので「アルゴ」のようにCIAの功績をたたえる映画なのかと思ったが,まったく違った.
この映画は決して特定の人物に感情移入させるような方向に観客を誘導するような作り方はしておらず,あくまでもCIA局員の女性の様子を中心に事実を淡々と描写することで,ビンラディン殺害作戦という世紀の大捕り物の全貌を明かしていく.とくにクライマックスはスリル満点.作戦の結果は既に知っているのに,思わず見入ってしまう.クライマックスだけでもチケット代の元は取れる
そして最後まで作り手の作戦に対する明確な主張が打ち出されることはなかったように思った.それでもビンラディン殺害作戦とは何だったのか,正義とはいったいなんなのかなどなど,見る側に提起された問題は結構多かったように思った.158分と長尺の映画だが,見終わってからも考えることが多く,非常に長時間味わえる映画だった
PS.ニュースでは既出の通り,この作品,拷問描写が大きな議論を巻き起こしアメリカ議会でも問題として取り上げられました.当事者へのインタビューに基づく映画であればこそできる,社会に向けた問題提起なのかもしれないとおもいます.
「社会現象」になる映画はすくなからずありますが,作品それ自体が「社会問題」となって議論の的となるような映画は珍しいなぁ.
真実と虚構のベール、その向こう側。
心せよ
亡霊を装いて戯れなば
汝 亡霊となるべし
ゼロ・ダーク・サーティ。午前0時半を示す軍事用語。それはオサマ・ビンラディン襲撃作戦の決行時刻であり、この映画においても大きなターニングポイントとなる瞬間だ。
映画は闇の中から始まる。スクリーンを覆い尽くす漆黒の闇の中から、あの9月11日に交わされた無線や電話の断片が次々に聞こえては、消えてゆく。悲痛な声、励ます声、瀬戸際のギリギリのエッジを、遺された音声がまざまざと物語る。あの時、たしかに存在した、それぞれの物語、それぞれの感情、それぞれの痛み。
そして、沈黙。
その後に続くアルカイダの容疑者への拷問は、アメリカの執念の実体化であり、尋問を行う担当官は復讐の擬人化だ。
当初、主人公のマヤはその光景に強烈な嫌悪を覚え、目を背ける。「釈放は?」と問いかける彼女の立ち位置は、まるで容疑者の弁護士だ。そう、彼女はビンラディンを追跡する狩人、CIAの精鋭でありながら、この時点では容疑者に同情を覚え、その立場に立って発言しているのだ。
だが、諜報活動の困難さ、さらに苛烈を極めるテロ攻撃にさらされる中、彼女の意識は次第に変貌を遂げてゆく。彼女自身も生命の危険にさらされる中、ついに同僚がテロリストの手にかかる時、なにかが崩壊する。あれほど拷問を嫌悪していた彼女が、正気を疑われるほどに捜査に執念を燃やし、ビンラディンへと繋がるかすかな可能性を死に物狂いで辿ってゆく。アメリカという国家の憎悪、執念、妄執をまるでマヤ一人が全て体現するかのように。
そして映画は、運命のゼロ・ダーク・サーティを迎える…。
関係者への地道な取材を重ねに重ねて練り上げられた脚本は、映画のための脚色を含みながらも、真実のピースをふんだんに盛り込んでいる。驚くべきは、世界にその名を轟かせるCIAの、綱渡り的な危うい諜報手法だ。逮捕した容疑者への徹底した尋問。時には拷問をいとわず、自白させた情報から新たな獲物をあぶり出す。目の前の端役から連絡役へ、よりビンラディンに近い幹部へと繋がる糸を手繰るべく、情報を得ること。当然、嘘もガセネタも混入するし、目の前の苦痛から逃れたいがために事実を歪曲される恐れもある。しかし確たる裏付けのないまま(そんなモノをいちいち取っている余裕はない)、状況証拠や口述の情報をかき集め、ひとりの男を描いたパズルを完成させようとCIAの最前線は盲目的に突進を続ける。そのさまはまるで霧の中を手探りで歩いてゆくかのようだ。
テレビ、新聞、雑誌、さらにインターネットに囲まれ、進化したケータイからは手のひらに世界中の情報が届く現代。あらゆるものが自明のものであるかのように錯覚しがちな社会にあって、しかし諜報の最前線にあったのは、光を求めることも叶わないまま闇を歩き続ける人々の姿だ。なにが正しく、なにが間違っているのか、確かな手応えが存在しない世界。
興味深いのは、この映画もまた、虚構と真実を巧みに織りあげて作られている点だ。たとえば、ビンラディン襲撃の際に用いられたステルス・ヘリは存在するが、そのデザインや性能諸元は現在も公開されていない。似せて作られているが、本物ではない。登場人物達もまた、当然ながら本名は異なるし、実際には遙かに多くのスタッフが諜報活動に携わっている。
緻密な取材という強固な基盤はあっても、全てを知り得ているわけではない。シナリオの隙間を埋めるモノは、やはり虚構だ。映画製作そのものも闇の中を手探りで進行していったのに違いないし、鑑賞する我々もまた、この映画の何が真実でどこが虚構なのか、と疑いながら付き合うことになる。
つまりこの映画は、真実と虚構が作品・制作・観客のあいだに横たわる構造になっているのだ。それはメタフィクションであり、現実とはなにか?という問いに対するひとつの回答でもある。
ゼロ・ダーク・サーティを迎えてから、映画は怒濤の進撃を行う。果たして邸宅の深奥に待ち受けるのは本当にビンラディンなのか?幾重にも重ねられた闇のベールの向こうに見いだされるものは真実なのか。その問いは、作品完成の命題を背負った制作サイドのものであるし、真実を見極めようとする我々のものでもある。
だから、この映画が本当の意味で映画となるのは、実はここからであり、架空のキャラクターであるマヤがその答えを迫られるのもまた、この先にあるのだ。
実は主人公も、実在の人物をモデルとした架空のキャラクターだ。ビンラディンを特定した実在のスタッフは女性だが、名前はマヤではない。その虚構の名「MAYA」はサンスクリット語で「幻影」を意味する。仮の名を託する時、なぜこの名が選ばれたのか。これは単なる偶然なのだろうか?
最高級のノンフィクション
世界が変わって見えてくる
ビンラディン殺害まで何があったのか、それを知るためにこの映画を見る必要がある。テロ首謀者とされるビンラディンを見つけ、殺すことにより、CIA、つまりアメリカは次々と起こるテロ事件を終わらせたかったはずなのだが、それはテロ事件への報復としての「殺害」といった形に見えてしまう。テロを終わらせたいはずがテロ集団への復讐、そしてテロを行う奴らへの憎悪、それは憎しみの連鎖でもあるのではと思わせられる。ぼんやりと知っていたオサマビンラディン殺害事件をこの映画を見ることで、その意味するものについて見る者に様々な感情を引き起こす。テロ首謀者ビンラディン殺した後に見えてくるものは何か?それを観客一人ひとりにつきつけてくる。2度、3度と見たくなる映画ではない。しかし、見た後では自分を取り巻く世界が必ず変わって見えてくるはずである。必見の映画。
テロ戦争の現実を直視
迫真を体感。
ビグローの追うもの
アルジェリアの人質事件のように、中東・アフリカの爆弾テロも
他人事だとは考えられないようになってきた。
アメリカ9.11事件に端を発したアメリカと中東アルカイダの暗闘を
描いた作品であるが、なんともやりきれない気分になった。
幕開けは、9.11の被害者の言葉の録音テープだろう。
これで怨念に火をつける。
その犯行の首謀者ビンラディンを追うドラマがはじまる。
追跡劇といってもカッコいいもでは全然ない。
それは拷問であり、情報のだましあいだし、同僚の死である。
それでも、いや、だからこそ追跡するのだろう。
自分が自分でなくなる、訳もわからないまま、ただひたすら追うのだ。
キャサリン・ビグロー監督は前作「ハート・ロッカー」でも、
善悪を問うことはなかった、事実を描いていった。
なるべくその心情も出さないようにしていた。
この作品でも同じだろう。その代わり、より綿密な取材と、
その情報による事実を映像にしていく、積み重ねていく。
正義とはなにか?
そんなものは神のみぞ知る。
人間とはこんなに不完全なものであるということを
僕らの目の前に突きつけてられたような気がした。
目的を達成した後、流したエマの涙はなにを意味するのか?
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