「真実と虚構のベール、その向こう側。」ゼロ・ダーク・サーティ 蒔島 継語さんの映画レビュー(感想・評価)
真実と虚構のベール、その向こう側。
心せよ
亡霊を装いて戯れなば
汝 亡霊となるべし
ゼロ・ダーク・サーティ。午前0時半を示す軍事用語。それはオサマ・ビンラディン襲撃作戦の決行時刻であり、この映画においても大きなターニングポイントとなる瞬間だ。
映画は闇の中から始まる。スクリーンを覆い尽くす漆黒の闇の中から、あの9月11日に交わされた無線や電話の断片が次々に聞こえては、消えてゆく。悲痛な声、励ます声、瀬戸際のギリギリのエッジを、遺された音声がまざまざと物語る。あの時、たしかに存在した、それぞれの物語、それぞれの感情、それぞれの痛み。
そして、沈黙。
その後に続くアルカイダの容疑者への拷問は、アメリカの執念の実体化であり、尋問を行う担当官は復讐の擬人化だ。
当初、主人公のマヤはその光景に強烈な嫌悪を覚え、目を背ける。「釈放は?」と問いかける彼女の立ち位置は、まるで容疑者の弁護士だ。そう、彼女はビンラディンを追跡する狩人、CIAの精鋭でありながら、この時点では容疑者に同情を覚え、その立場に立って発言しているのだ。
だが、諜報活動の困難さ、さらに苛烈を極めるテロ攻撃にさらされる中、彼女の意識は次第に変貌を遂げてゆく。彼女自身も生命の危険にさらされる中、ついに同僚がテロリストの手にかかる時、なにかが崩壊する。あれほど拷問を嫌悪していた彼女が、正気を疑われるほどに捜査に執念を燃やし、ビンラディンへと繋がるかすかな可能性を死に物狂いで辿ってゆく。アメリカという国家の憎悪、執念、妄執をまるでマヤ一人が全て体現するかのように。
そして映画は、運命のゼロ・ダーク・サーティを迎える…。
関係者への地道な取材を重ねに重ねて練り上げられた脚本は、映画のための脚色を含みながらも、真実のピースをふんだんに盛り込んでいる。驚くべきは、世界にその名を轟かせるCIAの、綱渡り的な危うい諜報手法だ。逮捕した容疑者への徹底した尋問。時には拷問をいとわず、自白させた情報から新たな獲物をあぶり出す。目の前の端役から連絡役へ、よりビンラディンに近い幹部へと繋がる糸を手繰るべく、情報を得ること。当然、嘘もガセネタも混入するし、目の前の苦痛から逃れたいがために事実を歪曲される恐れもある。しかし確たる裏付けのないまま(そんなモノをいちいち取っている余裕はない)、状況証拠や口述の情報をかき集め、ひとりの男を描いたパズルを完成させようとCIAの最前線は盲目的に突進を続ける。そのさまはまるで霧の中を手探りで歩いてゆくかのようだ。
テレビ、新聞、雑誌、さらにインターネットに囲まれ、進化したケータイからは手のひらに世界中の情報が届く現代。あらゆるものが自明のものであるかのように錯覚しがちな社会にあって、しかし諜報の最前線にあったのは、光を求めることも叶わないまま闇を歩き続ける人々の姿だ。なにが正しく、なにが間違っているのか、確かな手応えが存在しない世界。
興味深いのは、この映画もまた、虚構と真実を巧みに織りあげて作られている点だ。たとえば、ビンラディン襲撃の際に用いられたステルス・ヘリは存在するが、そのデザインや性能諸元は現在も公開されていない。似せて作られているが、本物ではない。登場人物達もまた、当然ながら本名は異なるし、実際には遙かに多くのスタッフが諜報活動に携わっている。
緻密な取材という強固な基盤はあっても、全てを知り得ているわけではない。シナリオの隙間を埋めるモノは、やはり虚構だ。映画製作そのものも闇の中を手探りで進行していったのに違いないし、鑑賞する我々もまた、この映画の何が真実でどこが虚構なのか、と疑いながら付き合うことになる。
つまりこの映画は、真実と虚構が作品・制作・観客のあいだに横たわる構造になっているのだ。それはメタフィクションであり、現実とはなにか?という問いに対するひとつの回答でもある。
ゼロ・ダーク・サーティを迎えてから、映画は怒濤の進撃を行う。果たして邸宅の深奥に待ち受けるのは本当にビンラディンなのか?幾重にも重ねられた闇のベールの向こうに見いだされるものは真実なのか。その問いは、作品完成の命題を背負った制作サイドのものであるし、真実を見極めようとする我々のものでもある。
だから、この映画が本当の意味で映画となるのは、実はここからであり、架空のキャラクターであるマヤがその答えを迫られるのもまた、この先にあるのだ。
実は主人公も、実在の人物をモデルとした架空のキャラクターだ。ビンラディンを特定した実在のスタッフは女性だが、名前はマヤではない。その虚構の名「MAYA」はサンスクリット語で「幻影」を意味する。仮の名を託する時、なぜこの名が選ばれたのか。これは単なる偶然なのだろうか?