ぼっちゃんのレビュー・感想・評価
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加藤智大をモチーフにしたコメディー映画
初鑑賞
2013年の作品
監督と脚本は『ゲルマニウムの夜』『まほろ駅前多田便利軒』『さよなら渓谷』『日日是好日』『タロウのバカ』『MOTHERマザー』『星の子』の大森立嗣
ないないづくしの非正規雇用労働者梶和之に水澤紳吾
梶くんと同じ職場で友だちになるすぐに寝ちゃう田中さとしに宇野祥平
梶くんと同じ職場に勤める危険人物で本当の苗字は黒岩の岡田に淵上泰史
病院勤務でなぜか田中サトシの彼女になるユリに田村愛
広報の失敗
秋葉原連続通り魔事件の加藤智大死刑囚をモチーフにしているらしいがそれを全面に押しすぎた
さえない派遣社員2人のうわべだけの友情をメインにした北野武風コメディー映画だとわかっていれば映画館でも観ていた
秋葉原の殺戮シーンはない
そのずっと手前で終了
そこは重要ではないのだ
水澤紳吾初主演映画
大胆な大抜擢
期待に応えて見事な役作り
だけど水澤紳吾は顔が生理的に無理
本郷奏多と同じく仙台出身
比較的地元が近いので応援するべきなのだが2人ともあまり好きではない
でも今回の作品は今までと違い水澤紳吾がそれほど気持ち悪くない
彼が面白いと感じたのは初めて
基地外は「ブサイク・彼女いない・友達いない・非社員」
基地内はその真逆
そういう世界
仙台育英高校野球部出身にも関わらずキャッチボールも全くできない惨状を見事に演じた水澤紳吾の芝居が面白い
名前は知らないけど比較的美人の全裸姿が出てくるが普通の人は興奮しないはず
レイプシーンは嫌い
やめて!と言われてますます興奮するタイプではないのでただただ嫌悪感がこみあげる
でも田村愛はそこだけ迫真の演技だった
どうやら入ってなかったようだ
即実行しないで焦らすタイプかもしれない
イケメソは傲慢だから殺します
からの意気投合
ジャンプの友情漫画かよ
なんかよくわからないけど可哀想な人たちって面白い
秋葉原連続通り魔事件は単独犯じゃないとネットで主張しているバカはこの映画に影響を受けたのかな
『ジョーカー』っぽい。
秋葉原通り魔事件の犯人がネットに書き残した大量のつぶやきを元に大森監督が犯行に至るまでの物語を描いた話。
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まずこの映画見る時に注意しないといけないのはあくまでフィクションだということ。大森監督がこうだったかもしれないと考えた話。
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この映画の評価が低いのって、秋葉原通り魔事件っていう私でも記憶にある衝撃的な事件で、そんな事件で加害者に寄り添った映画を作るとなると賛否両論あるのはしょうがない。実録犯罪ものは、『罪の声』みたいに事件を追う側がメインの方が誰にでもウケは良いはず。
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この映画、事件より社会の隅っこで生きる男がどのような末路をたどっていくのかっていうプロセスがメインなので、日本版『ジョーカー』みたいでもあった。しかも『ジョーカー』と違って、そこにはちゃんと現実の友情があったりするので余計悲しい。
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そして最後、サイドブレーキを上げたことがこの映画がフィクションだということを再確認させられる悲しい終わりだった。
差別意識について
容姿にもコミュニケーションにも難あり疎外感を生まれてこのかた感じてきた、と自分で思い込んでいるような人間の頭の中がどうなっているのか、もちろん一人一人の話でしかないし、自分以外なんて想像するしかない。本当は誰にも分かりようがない事に一つの仮説を投げかけるような映画。インターネットへの呟きは非常にリアリティがある。差別される側の複雑さというのは、自分と同じような人間にも同族嫌悪を持つという所で、この描写もリアル(何をもってリアルと言うのか、普段意識しないようなその境界すら揺らがせる強さがある)。差別される側だってわざわざ自分や他人を差別している。
疑問なのは、差別というものを差別する側の意識として明確に悪意として表現している序盤。
この時代であれば、そういう事がないとは言わないが似た者同士で固まるという穏やかなコミュニティのあり方が存在するのではないか、無関心社会への移り変わりの時期だったのではないかと感じた。主人公が受ける差別が(そんなに悪い奴ではないように見える故もあり)若干作為的に見える。
差別意識というのはもっと人の無意識のなかにある、差別している側も差別していると思ってないような事が当事者には差別に感じられるという事が痛々しいのではないだろうか。経験的にも、自分と違うものを異化したことで人を傷つけた事はあるし、無自覚にも無数にあるだろう。開き直るわけでは決してないがそれは気をつけても起こってしまう事だと思う。
逆に差別されたこともあるが自戒込めて、被害者意識というものがとかく気持ちが悪いのは、そのような人間の無自覚の仕方の無さに想いを馳せる想像力を人から奪うことだ。人は人を憎むことをやめられないのかも知れないが、憎しみはなにも生まない。
想像力を奪われた人間は醜い。孤独を受け入れられない人間も醜い。仕方がない事だけど、自分のためにもそんなふうに自分を終わらせるのは損でしかない。頭ではそう思っても、全然できない事ばかりだ。
そんな自意識の甘さ故の痛々しさにまでこの映画がしっかりと到達できていたのかどうか、一見ではハッキリとは分からなかった。分かりようのないものに対して分かろうとして、分からなくてという到達しようという作り手の誠実さはとても感じられた。
賛否あろうがこんな風に観客を怒らせる映画が存在するべきだと思う。人は自分の悲しみしか感じる事は出来ない。だから他人の悲しみは想像するしかない。誰かだって誰かの子供なんだよ、と言っても通じない時がある。そんな彼でさえ誰かの子供である。けれど、ラストシーンの後に殺戮が起きるのなら自分はこの映画の主人公の事を赦せないと思う。
友だちという共同幻想
2人の主人公が、やたら「ひとりぼっちは寂しい」と叫ぶけど、羨ましい。友だちいて。
ゆりちゃんが クロイワに犯罪まがいのことされそうになったところを助けた2人。
恐ろしい思いをしたばかりのゆりちゃんに対し、隠そうともせず「女性」を求める2人に嫌悪感。その後ゆりちゃんが田中を好きになる展開とか関係なく、2人が心までブサイクなのを描いてしまった。ま、2人が最低な人間でも、この映画は成立してます。
「ブサイク」は、人間が勝手に線引きしてるものだから、本当はマイナスポイントにならないし。
心まで何もかもブサイクでも、幸せは欲しいものだし。
ゆりちゃんが、いつまでもクロイワを「しんちゃん」と呼ぶところも共感できない。わざとかな。深刻になり過ぎないよう、どこかコミカルにするための。
秋葉原うんぬんは、着想を得ただけで、別のものを見せられていることにはすぐ気づける。
カジは、田中くんに彼女ができたことで自分から離れていく。
田中は、ゆりちゃんが襲われた時にも気絶してしまって悲しい。
助けてという田中に「犬ではない」と上下関係を持ち出す田中。と、スタンガンを手渡すカジ。田中がゆりちゃんの仇をうつ手助けを、という、これも友情?
自分よりさらに屈折し実際に凶悪な殺人を犯すクロイワを、刺すことで成敗しつつ、赦しを与えるカジ。
カジが「友だち」という共同幻想を抱けるのは、もうクロイワだけだから。気持ちの上で同罪の男を殺せなかったから。
架空の「映画の中の話」なら、犯罪者でも、共感や同情感じる人物に描かれることが多いが、特に無差別の実際の殺人事件名を出した映画だから、簡単には共感できる人間を描くべきではない。(と、わたしは思ってる。)
この映画の制作者たちは、はたしてどんな思いで脚本や人物を作り上げていったのか。
念のために...事件を知らない構成の方!
これは秋葉原の事件をそのまま描いたものではないですよっ
疑問ばかり
完全実話ではないと思いますがどこからどこまで実話なのか疑問ばかり残ってしまいモヤモヤしています。
実際はレイプ魔の同僚はいたのですか?
山に人を埋めたのですか??
実在する人物をモチーフにするなら紛らわしい内容にしないでほしい映画。
結局どうなの?
モテ・非モテ問題に集約してんなぁ
秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大をモチーフにした作品。
主人公が自身の不遇をブサイクに生まれたことのせいにしたり、初めて出来た友人への態度が酷かったりには共感はできないものの彼の感じているであろう生きずらさついては完全否定は出来ない。
大嫌いなタイプの映画
大嫌いなタイプの映画だ。
「現代の甘えた孤独な若者」とか「あなたにも似てる部分がある」とか言わせたいんだろうけど、何をどう見ても共感できないし、っていうか、これ監督も主人公の性格の悪さと社会性の欠如を軽蔑してるよね。
軽蔑してるなら、ちゃんと突き放した演出をすべきなのに、社会に媚びたのか、実際の事件なんで配慮したのかわからんが、ところどころ変なフォローが入る。それも「本当はフォローなんて入れたくないんだけどね」みたいな妙なスタンスで(笑)
最後の絶叫も、主人公の理解不能さよりも、「さぁ、この絶叫の意味を観客みんなで考えてくれ」的なあざとさや小賢しさが見えて不愉快。
社会の不満とか自我と現実の差異とかそんな小理屈じゃなく、単にバカだから大声出しただけだろ(笑)
リンチ好き必見
デヴィッドリンチ先生の傑作エレファントマンをモチーフにした現代邦画です。
それぞれの事情でエレファントマンになってしまったおっさん二人が映画の舞台で見世物になります。
ハッピーエンドのエレファントマンが終盤にみせる浪花節はまさに現代語訳。
邦画の旺盛華やかかりし頃、件の秋葉原通り魔事件をモチーフにした作品と期待して観ると残念に感じるかもしれません。
逃げ腰
凄惨な事件を題材にしている割には、あまりにも作り手が逃げ腰である。
物語のそこかしこに言い訳が用意されている。
最大の言い訳は、事件の直前で話が終っていることだろうか。
現実の事件と同じことが起きるのか、観客に判断を託すのである。
事件そのものの描写が観たい訳ではない。
ただ、ラストまで観客に任すその逃げっぷりに、ただただ唖然とするばかりである。
そのラストを、逃げとみるか斬新とみるかは、また観客に委ねられている。
観客に「こう読み取ってください」と押し付けてくるベタな描写もあり、逃げとベタのバランスが甚だしく悪い映画であった。
それに比べてたら非常に瑣末なことで指摘するのも恥ずかしいのだが、出演している女性陣(特にエキストラに近い女性達)がなぜか小綺麗で、作品の底辺感とそぐわないのも残念であった。
全く別な話として観た
作品の作りが可成りフィクションなので、現実にあった事件と結びつける事に、抵抗を感じてしまった。
なので秋葉原無差別殺傷事件とは無関係の、全く別物の映画として観た。
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この映画の主人公の梶は、本当に非リア充なのかな…。孤独なのかな…。
友達らしき者(田中)も居るし。喫茶店で話したりドライブ行ったり彼女取り合ったり。
映画の前半では、ガラケーから何かのサイトにことあるごとに心の叫びを書き込んでいたけど、後半は忙しくてそれどころじゃなくガラケーから書き込む事も少なくなっていたような。
梶、なかなかの充実ぶりじゃないか?と思ってしまった。
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梶と田中は不細工という共通項があったが、
梶と岡田(かなりイケメン)は、「強烈な自意識にとらわれた狂気」という共通項があった。
梶と田中の友情物語というより、梶と岡田との友情物語に見えてしまったのだが、それは私の勘違いだろうか…。
エルロイの「キラー・オン・ザ・ロード」を思い出した。
無差別殺人犯を描くなら、もっと練り上げなくては説得力は無い!
私はこう言う映画が大嫌いだ!社会の片隅に追いやられてしまった可哀相な若者。
衝動殺人を起こしてしまった人間にも、きっと彼なりに、それまでの人生で、人に言えない辛い過去が有り、恵まれずに苦しんで来た人生があるのだと、そんな様を描き出す。
「泥棒にも3分の理屈」と言う諺がこの場合正確に当てはまるかは知らないが、日本のドキュメンタリー映画や、決して日本に限った事では無いかもしれないが、アートに関わる人間は時に、社会の底辺で苦しむ人々にスポットを照らし、こう言う不幸な人々の気持ちをもっと理解せよと言わんばかりのメッセージを観客に付き付ける事が多い。
そして、それらの作品を観た人々は何となく、居心地の悪い思いを皆一様にするのだ。
やはり、私達の暮らす社会に問題が有り、そんな社会にしてしまっている我々大人の自分にも責任が有ると考え込んでしまうのだ。
確かに、いじめは絶対に有ってはならない事である。そして、いじめが無くならない今日の社会の現実を一日でも早く変える必要も有る。
しかし、この作品でも田中君が語っているが、梶君が殺意を起こした時「駄目だよ!」と気弱な田中君が、力を振り絞って止めていた。
自分がたとえどんなにいじめられようとも、誰か他の人を傷つけてしまえば、自分が憎んで来たいじめっ子と同じ人間に成り下がるのだ。否それ以下の本当の人間の屑になってしまう事を知る必要が有るのだ。
何故なら、自分が傷つけられた辛さを知っているにも関わらず、その辛い思いを報復と言う形であっても、誰か他人にしてしまったら、分かってやる分だけ罪は重いと私は思う。
時々本当に、いじめっ子の中には、いじめられている人の気持ちを理解出来ないでいる人間が存在しているのも事実なのだ。普通に考えれば、相手の気持ちは解りそうなものなので、いじめられっ子の気持ちが理解出来ないと言う事自体が、私には不思議なのだが、現実には、いじめられっ子の気持ちが、どれ程苦痛な事なのか、気付きもしない奴がいる。そして、そのいじめられっ子の気持ちを何となく分かっていても、更に面白がっていじめを止めない、本当の屑人間もいるのが哀しい現実でもある。
しかし、いじめられっ子は決してどんな事があろうとも、人をいじめて喜んでいるそんなバカな、人間に負けてはいけない。そして本当は、いじめっ子程、心の底では自分をコントロール出来ない程に人間的に壊れて、病んでいる人間で有る事を知る事が大切である。自分をいじめる相手に対して、もしも自分で抵抗するだけの力が無ければ、誰か第三者の助けを得られる様に考え、その為の行動をとる事が必要だ。
この作品も、梶君の救いようの無い劣等感の塊を、強烈な芝居でみせるのは良いが、そこで終わって欲しくは無かった。それでは、あの無差別殺人の被害にあった遺族が浮かばれないではないか!!生れつき、病弱で、勉強も不得手で、異性にモテない人間も星の数程存在している。孤独死してしまう、身寄りの無い淋しい思いに苦しむ人もこの世の中にはいる。それでも皆歯を食い縛って、日々懸命に耐えながら、命を繋いでいるのだ。
こんな作品を観ると、本当に冗談はいい加減にしろと怒鳴りたくなる!
イジメの辛さに耐えられずに、不幸にも自死の道を選んでしまった人々にも、申しわけ無いではないか!
彼らは、決して他人を犠牲にする事を選ばずに、他人の人生を苦しませる事を選ばずに、一人寂しく旅立っていったのだ。そんな想いで、辛い一生を閉じてしまった彼らも、決して梶君の行為を喜びはしない筈だ。そして彼の行った行動に賛成もしない筈だ。
確かに、いじめを苦に自殺をされた人を家族に持つ遺族には、いじめを行った犯人を殺してしまいたい程に、無念で有るだろう。しかし、その様な遺族も、自分達のやり場の無い怒りの矛先をじっと抑え込んで、耐え忍んで、1日1日を何とか、生き延びているのだ。
この映画は、梶君や、岡田と名乗る両人が、何故あんな屈折した人間になったのかを描ききれていない。
彼らの生い立ちや、家族との関係をもっと丁寧に描がいていかなくては、映画作品として上出来とは言えないと思う。確かにインパクトは充分にあるが奥深さに欠ける。
しかし、いじめられている人の気持ちを取り上げる事は尊い事である。だが、もう一歩踏み込んで練り直して、映画を多面的な視点で描いてみる必要があったのではないだろうか?
最後に、ここに昨年2012年の自殺者数を記す。
昨年は、27858人で、3万人を下回ったのは1997年以来15年振りの事だと言う。そして孤立死(孤独死)死者数は昨年の統計がネットでは未だでていないので、2011年の調べで発表されていた数は、2304人であった。
両親から梶君は、人間は一人で生れて来て、一人で死んでいく事を家族に教わらなかったのだろうか?基本的には、人は誰でも皆孤独な生き者なのだ。そして孤独なままで、一人では生きられないからこそ、人を大切に想い、愛するのだ。どうしてこんなに自己中心的な梶君が生れてしまったのか?
もっともっと、その背景を映画は描いて欲しかった、あの事件の犯人を折角、描いているのだから誠に残念でならない。
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