「文学という難問」共喰い R41さんの映画レビュー(感想・評価)
文学という難問
芥川賞の小説を映画化した作品のようだ。
エンドロールの最後に「in memory of my mother」とあるので、作家自身が見た母の記憶がベースだと思われる。
それが昭和という時代の終わりであり、暴力の終わりと性というものがどこか汚いものだと思われた時代の終わりを、この作品に託すようにしているのかもしれない。
女性に手を挙げる男は今でも一定数いると思われるが、少なくともそれが日常ではなく、また家族の間でも暴力は犯罪として認知されるようになった。
女を渡り歩くことが「男の甲斐性」などと言われた時代でも、女たちは我慢するしかなかったのだろう。
仁子の後悔は、夫を刺し殺そうと思ってできなかった事だった。代わりにしたのが第二子を中絶したことだった。
主人公のトウマは、そんな話を別居して魚屋を営む母から度々聞かされていた。
高校生のトウマは性の目覚めと同時に父という暴力的人物を重ねないわけにはいかず、その父の子だということに汚い血の流れのようなものを感じている。
この汚いという概念もこの作品のテーマの一つだと思われる。汚い精液 ごみが散乱する川 その中で生活する魚介も汚い
だからウナギを釣っても食べるのは父だけ。うなぎの肝をうまそうに食べる。
トウマも父が1年前に自宅に連れ込んだ琴子も、ウナギを食べようとしない。
トウマにとってウナギは性器に見える。二重に汚いもの。
でも性欲は止められない。社の倉庫に千草を連れ込むのが日常化している。
トウマの性欲と父の息子という認識は、父と同じ暴力へと向かう。この二つはひとつとなりトウマを苦しめる。
特に母が二人目を中絶したことを想像すると、トウマはどうしても自分が汚いものだと思ってしまう。
決定的だったのが父による千草へのレイプだった。
「社で待っているから」と言った千草を無視したこと、父にベランダの女とヤッたことと彼女に暴力を振るったこと、そしてそれを父が「よし」と認めたことに腹の虫がおさまらなくなったことで思わず「琴子さんはもう帰ってこない」と口走ったことで雨の中を飛び出した父が社の前で千草を見たことで起きた事件だった。
そのすべてはトウマに原因があった。
傷ついた千草を抱えるようにして魚屋に行くと、母はすべてを察知し包丁を持って出ていった。
母は、自身の後悔がこの事件を起こしたと認識したのだ。
しかし、父は生きながらえた。
刑務所の面会を終えたトウマは琴子を訪ねた。
琴子は性に目覚めたトウマを知っていた。
「したかったから来たんでしょ」
琴子はそう言ったが、実際トウマは生まれてくる父の子を殺しに来たと思われる。それほど父が憎かったのだ。自分が成すべきことを母が代わりにしたことで刑務所送りになったことの責任を取ろうとしたのだ。
幸い生まれてくる子は全然別の男との子供だった。彼女は暴力が怖かったから妊娠したのだ。誰の子でもよかったのだろう。
魚屋の自宅に戻ると、千草が仕事をしていた。
トウマはどうしても性欲と父とを切りはなせない。したいのと同時に首を絞めたくなる衝動に駆られる。
千草は「その手は私に暴力をふるうためにあるの? 優しくするためにあるんじゃないの?」
そう言ってトウマの両手を縛りSexをする。
女性が男を縛り上げる。
昭和が終わり新しい時代が来たのだ。
二人はそうして生きていくのだろう。
新しい時代は、女性が男性を矯正する世の中になるのかもしれないと、作家は考えたのだろう。
2013年の作品 よくまとまっていて面白いが、タイトルを「共喰い」としたのはなぜだろう?
実際にウナギも共喰いし、千草も琴子もベランダの女もそうだった。
それは時代を表しているのか、それともウナギも人間も同じだと言いたいのか?
インパクトのあるタイトルにしたかったのか、またはウナギと父を括りたかったのだろうか?
そこだけが理解できなかった。