クラバートのレビュー・感想・評価
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時代背景もあるのかなー。
魔術学校に集められる腹を減らした貧しい孤児達。児童文学みたいだけど、この逃れられない厳しい現実をたんたんと受け入れる世界がブラックすぎる…チェコアニメの絵面がストーリーに合い過ぎて素敵…。
魔法使いの弟子はつらいよ。究極のブラック徒弟制を打ち破るのは、無垢なる愛の力!
新宿K’sシネマのカレル・ゼマン特集上映三日目の1本目、累計7本目の視聴。 とにかく、面白かった。 やっぱり、今回ここまでに観た9本の中では、最高傑作かもしれないね。 ゼマンにとっては晩年に当たる作品で、彼の映画としては珍しく、字幕もナレーションも、すべてドイツ語で作られている(クレジット上はチェコスロヴァキアの映画となってるけど。原作がドイツ語だから?)。時期の近い『ホンジークとマジェンカ』と似た感じの切り絵アニメだが、題材に合わせて、よりダークで中世的な絵柄を採用している。 原作は未読だが、1971年発売のオトフリート・プロイスラーによる同タイトルの児童小説に基づくとのこと(プロイスラーは『大どろぼうホッツェンプロッツ』シリーズの作者。子供の頃読みました。懐かしい!)ただこの原作自体、もともとドイツに伝わっている有名な民話を題材にとったものだという。 Wikiによれば、宮崎駿はこの小説およびアニメを大変気に入っていて、『千と千尋の神隠し』を作るときに大いに参考にしたらしい。なるほど、あれも「子供を強制労働させる魔法の徒弟制の物語」であり、「愛による世界ルール改変の物語」だもんな。 カレル・ゼマンにしては珍しく、オープニングの部分にこれが「紙に記された物語」であることを示すショットを欠くが、孤児クラバートの心の声が大人なのに、歌っている声が子供であることから、このナレーションが「大人になって過去を振り返っているクラバートの声」だろうことが察せられる。 いわば、「声」の仕掛けによって「過去を回想する物語」であることが暗示されているわけだ。 クラバートはカラスに誘われて魔法の粉挽き小屋に呼び込まれ、半ば強制的に「魔法使い見習い」にさせられる。1年の修業を経て、「魔法使いの弟子」に昇格したクラバートだったが、そこは究極のブラック徒弟制に支配された悪夢のような職場だった! 師匠となる魔法使いのマイスターのキャラが、とにかく濃ゆい。 狷介で、冷酷で、高圧的で、支配的。 しかも魔術師としては優秀で、容赦がなく、ずるがしこく、抜け目がない。 常に弟子を見張り、こき使い、忠誠を強制し、徹底的に束縛する。 これだけきっちり仕立てられた「悪役らしい悪役」もなかなかいないだろう。 (「片目」という記号的特徴をフルに生かして、さまざまな動物に変異しても、その実態が師匠であることがわかるよう作ってあるのもミソ)。 この職場は、単に「子供が脱走できないよう見張られ」「過酷な重労働を強いられている」強制労働施設であるにとどまらない。 徒弟にとっては「魔法の修練の場」であり、「成長すれば親方への道が開ける場」であると謳われながら、実際にはあらゆる意味で「弟子が師匠を超えることがないよう」徹底的に管理されている、きわめて歪んだ「人生の行き止まり」なのだ。 身寄りのない子供たちは、結局のところ奴隷労働の使い捨ての「コマ」としてかき集められているのであり、彼らに難しい魔法が教えられることは最後までなく、徒弟の最年長者は春が来ると実力不足の状態のまま師匠と決闘することを余儀なく要求され、あわれ討ち果たされることになる。 ワンマン社長がイエスマンのコマだけ集めて、優秀そうな人間が自分に迫ってくると、ああだこうだと理由をつけて追い出してしまう構図とよく似ている。 あまり成長されて自分を乗り越えられると困るから、芽が出ないうちに潰す。 師匠(経営者)は、徒弟から地位を揺るがされることがないよう、代替わり阻止を「正当化する制度」によって守られている。 この「搾取」の構図は、もちろんのことながら「資本家が労働者から搾取する」資本主義体制のわかりやすい縮図・戯画であり、当然、明快な政治的・批判的意図をもって物語に組み入れられたものだろう。 ただ、本作は単なる「左派的批判精神による風刺的寓話」には終わっていない。 もっと切実で、息を呑むような、観る者の胸をうつ少年の成長物語となっている。 虐待され、搾取されるばかりの少年たちが、いかに悪魔のシステムを打破し、「悪い家父長制」の象徴である魔法使いを超克できるかを、われわれは強い共感をもって見守ることになる。 それは、クラバートという少年がきちんと「人間」として描き込まれ、 悪い魔法使いが相応の強さと怖さをもってきちんと描かれているからだ。 犠牲になる可哀想な兄弟子たち。穴埋めに新たに連れてこられる幼子たち。 姦計にはめられて同士討ちすることになるユーロとクラバート。 すべての悲劇が、クラバートの心と力を強くさせる。 いつしか彼は、「実は優秀なのを隠していた」ユーロを仲間に得て、「なんとかして親方を倒す方法」をついに模索し始める。 魔法使いの親方が、きわめて悪辣で狡猾なキャラクターでありながら、「現行犯で捕まえない限りは当て推量では罰しない」とか、「罠をかける相手に逆転の可能性は常に与える」とか、「最初に決めたルールからは外れない」とか、意外に律儀というか、決めごとに厳格なのは印象的だ(ラストの「愛」の対決も、ある意味フェアプレイだ)。そのことによって、彼は単なるろくでなしというよりは、超克されるべき「父親」像として伝わってくる部分もある。 また、親方の示すある種の「厳格さ」は、彼が「魔法使い」というより、魔術書と結びついた「悪魔の眷属」である可能性をも示唆している。悪魔という存在は古来、常に「契約」によって動き、「契約」によって縛られるものであり、通常の人間以上に「融通が利かない」存在なのだ。 そして、親方打倒の「切り札」として最後に提示されるのが、「愛の力」だ。 実はクラバートは作中、ずっと、一人の少女を追い続けてきた。 カラスの姿のまま、粉挽き小屋を抜け出しては、何度も逢引していた。 (これってKeyの伝説的泣きゲー『AIR』の原型じゃないのか??) 終盤に至ると、彼女は悪魔の力を打ち破るためのキーパーソンとして扱われ、最終対決の場で大きな役割を果たすことになる(映画の終わり方自体は、えっと思うくらいあっけないが……)。 総じて、ダークファンタジーとしても、少年の成長譚としても、本当に魅力的な作品だ。 他のゼマン作品と比べてもとりわけ胸にずっしり残るのは、ゼマンがもともとキャラクターを「書き割り世界のなかのコマ」として扱いがちな映像作家で、登場人物に寄り添ってキャラを深めるということをあまりしてこなかったなかで、本作だけはクラバート視線で苦難の時代とそこからの脱出に向けての努力の過程をみっちり描いているからではないかと思う。 要は、他作以上に、「人間が描けていて」「主人公に共感できる」のだ。 その意味では、ゼマン自身にとっても、画期となった重要な作品だったのでは? あと、音楽の質が他の作品より良いのも、作品が胸に沁みる要因かも。 ヤナーチェクの『タラス・ブーリバ』やコダーイの『ハーリ・ヤーノシュ』辺りをちょっと想起させるような旋律が、凝った変奏形式でずっと流れていて、要するに東欧系の民謡をベースとした音楽が付されている。主旋律が憂いを帯びた良いメロディなんだよね。 鳥の群れや、雷鳴と稲光といった「ゼマン印」の呪物は再三登場するが、これまでほぼ「皆勤」で出てきていた「横スクロールで逃げていった先に断崖が待ち受け、その向こうには大海が広がる」という「お約束」は、森が舞台の物語なのでさすがに無理かな、と思っていたら、後半になってちゃんと出てきて驚いた(海ってよりは今回は湖だろうけど)。ほんとに、単にそういうシチュが好きってより、ゼマンにとっては「やるべきこと」「入れないといけないこと」――ある種のオブセッションなんだろうね。理由はよく知らないけど……。
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