無法松の一生(1958)のレビュー・感想・評価
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身分の違いが綾を成す。純情男の凄絶なまでの片想い。
午前十時の映画祭12にて。
14年を隔てて制作・公開された、稲垣浩監督執念のセルフリメイク。
製作会社が東宝に変わり、三船敏郎と高峯秀子というスターが主演したことが、この映画の完成度を高めたと思う。
撮影時、三船敏郎は30代後半、高峯秀子は30代前半だったはず。二人とも老け役に挑んでいるが、特に年老いた三船敏郎には堪らない哀愁が漂う。
三船敏郎は本作でも秀でた身体能力を発揮していて、人力車を引いて走る姿は軽やかで力強く、太鼓のバチ捌きは見事としか言いようがない。
高峯秀子は変幻自在の役者だから、三船敏郎とは対極の演技スタイルと言える。本作の彼女は清楚な未亡人で、物語の進行に沿って歳をとっていくのに、逆にどんどん可愛く見えてくる。これは、一目惚れ段階から時とともに片想いを募らせて苦悩するに至るまでの、松五郎の心の動きに共鳴した者こその見え方だろうか。
この映画は、始まるやカメラが効果的に移動する。日本家屋の構造を活かして人物を俯瞰で追う構図など、スケールの大きな演出が見られる。
芝居小屋の枡席での大立回りでは、枡を仕切る木枠が張られた不安定な足場で役者たちが入り乱れるアクションの振り付けがダイナミックだ。三船敏郎が、ガードポジションからの三角絞めという総合格闘技の技術を見せているのには驚いた。
やはり、オリジナルの坂東妻三郎主演版でカットされたという、居酒屋で美人画の広告ポスターをもらうエピソード、未亡人への告白、そして雪上での松五郎の最期、これらがあってこそラストシーンが涙を誘うのだった。
しがない俥引きの自分を自宅に招いて酒を酌み交わしてくれた吉岡大尉が急逝し、残された妻子を陰ひなたとなって守ってきた松五郎の原動力は、未亡人への一途な想いだ。
ボンが青年に成長し、自分の存在意義が薄れかけていた松五郎には、未亡人宅に数日滞在するボンの恩師の出現は脅威だったろう。未亡人は生涯未亡人のままで、自分は近くから見守っていられればよかった。が、その関係が崩されるかもしれないと勝手に怯えたのだ。
そして、抑えきれない自分を恥じて、大尉の遺影に詫びる。その思い詰めた松五郎には未亡人も怯むほどだった。
松五郎の想いに未亡人が気づいていないはずはない。だが、彼はその想いに蓋をしたまま献身的に自分達母子に尽くしてくれるものと考えている。そこには身分の違いが当然のように介在するからだ。未亡人に差別意識が強いのではなく、それが当然の時代だった。
自分の恋慕は汚れた想いだと自分を責める松五郎が切ない。
彼の死を知り、彼が残したものを見て涙する未亡人の胸に去来するものは何だろうか。
松五郎に対する感謝だろうか、それとも彼の想いを知りつつ寄り添うことをしなかったことの後悔だろうか…。
伊丹万作が自らメガホンを取れなかった無念も、このリメイクで晴らせたのではないだろうか。
本作の成功を受けてか、大映は伊丹万作の脚本を三隅研次監督で1965年にリメイクしている(未鑑賞)。
せつなかった
ひとり身の末路みたいなお話でつらい。人生の夏の終わりから秋冬まで。
しかも完全な階級社会を描いていて、身分の低い松を奥さんはまるで男として見ない。
自分は結婚なんてすごく嫌だったのだけど、今こうして家族が支えになって楽しい生活を送っており、本当に結婚できてよかった。
素晴らしい映像
稲垣浩監督による、セルフリメイク「無法松の一生」。
戦後のスター三船敏郎を迎えて製作され、素晴らしい出来でした。
やっぱり4kの映像は美しいですね。そこに古き良き日本がありました。
三船敏郎の存在感が圧倒的で終盤の祇園太鼓を打つ姿は様になってめちゃくちゃ格好よかったです。それから顔役の笠智衆、晩年しか見たことなかったので、非常にりりしかった。高峰秀子さんは綺麗でした。
今回TOHOスコープで上映されて嬉しく思いました。
午前十時の映画際には、今後も旧作邦画を増やして上映して欲しいです。
戦前と戦後を比べることで、日本映画から何か奪われたのか?分かる名作でもある
午前10時の映画祭で、稲垣浩監督の名作『無法松の一生』を戦前と戦後版を同時期に公開する粋な計らいがあり連続鑑賞。
1943年の戦前版は、製作会社が当時の大映になり監督と脚本は稲垣浩と伊丹万作になるが、主演はサイレントの頃からのスターでもある坂東妻三郎の代表作の一つになっている
1958年の戦戦後版は、製作会社が東宝になり監督と脚本は、同じ稲垣浩と伊丹万作になるが、主演は東宝のスターでもある三船敏郎になり撮影もカラーシネマスコープでロケ撮影にも凝ってエキストラも何気に大量導入した大作に近い。
有名な話ではあるが、戦前版は当時の内務省の検閲によって不適合と思われる部分をカットされており更に戦後に日本を占領したGHQからも検閲を受けて完成版から約18分程削除され短くなっている。
(自由の無い恐ろしい時代の証言でもある)
今回の上映ではその経緯も、含めた短編ドキュメンタリー最初に公開されるのも嬉しい。
個人的には戦前版の撮影を担当した宮川一夫の絵図作りに魅了されたのだが、なんと言っても、松が最後にみる走馬灯の場面は、複雑な多重露光を、繊細なカット割で美しく幻想的に仕上げて絵画にも劣らない出来映えであり、その点は戦後版のカラーの色鮮やかさを活かした冒頭の彩とりどりの小物やお菓子をタイトルバックに魅せるのも良いが、走馬灯部分は、多重のほかにネガの反転処理など導入して非現実性を強調してるが、その後に多くの作品に安易な形で多用された手法でもあり、やはり戦前の方が鋭く色褪せない(モノクロだけどね)
それ以外の撮影場面でも、凧を絡ませて途方に暮れているボンを見かねて仕事そっちのけで助け舟を出すと乗客が怒る一連の場面は、普通より動きが、車輪の回転なども含めゆったりとした絶妙なスロー感な動きになっており何処か夢心地な空間に誘われる描写があり目を引く。
松が子供の頃に父親を訪ねて森を歩く場面は、戦前版だけ観ると夜道に見えず、昼間に撮影されたのが、丸分かりだが当時の撮影条件や技術を考慮して戦後版も比較すると、明らか戦後版の方が暗い森になっており分かり易いが、幻想的にに森に現れる怪物達は、多重露光を使った戦前版の方が、風貌も含め不気味だと思う。
カメラワークなども冒頭は近い動きをしているが、戦後版の撮影を担当した山田一夫のオーソドックスで安定した職人技で健闘しているが、比較するとやはり物足りない。(宮川一夫は亡くなるまで頑なに戦後版を見なかったそうです)
配役はどちらも適材適所だが、戦後版は東宝映画なので、見慣れ人ならやや定番過ぎて新鮮味は薄いかも。未亡人役も実力も人気も申し分ない高峰秀子は見事な演技だが個人に幼さもあり可愛い過ぎる印象で、戦前版の園井恵子のしっとりとした色香も含め素晴らしい。(彼女はそのあとに巡業先の広島で原爆の犠牲者になり早逝された…作品に起きた戦争による悲劇もそうだが、本当に現実の戦争は善悪を問わずろくなモノではない)
結城組の親分は、迫力ある佇まいも含め断然戦前の月形龍之介だと思う。戦後版も志村喬あたりならまた違うかもしれませんが。
見せ場でもある太鼓打ちの場面は、戦後版の方が録音などの音響面の助けもあるかもしれないが分かりやすい。
それを踏まえて作品を観ても、どちらも優劣を付け難いくらいに素晴らしく、日本映画の名作として多くの人に観てもらいたい。
とにかく戦前版の時代を超えた優美さにウットリして、検閲から解き放たれた戦後版は、わかりやすいドラマになっておりどちら共に観るをオススメしたい。
カットして図らずも含蓄の増すオリジナル版
先週(3/14)観たのは「阪東妻三郎 無法松の一生」そして今週(3/22)観たのが「三船敏郎版無法松の一生」MOVIX三郷の午前十時の映画祭12である。オリジナルが1943年の戦時下に大映で制作されたものの軍人の後家への恋愛感情を描いた部分が時局柄検閲でバッサリとカットされ、さらに戦後GHQが提灯行列や喧嘩のシーンを切ったというのだからやるせなく15年後に稲垣監督が東宝で三船敏郎を起用しセルフリメイクして恨みを晴らした。一週間を置いてこの2本を見比べるとカラーになっているものの脚本がほぼ同じで演出的にも大きな変更はなく阪妻対三船、園井恵子対高峰秀子、月形龍之介対笠智衆という役者が入れ替わって同じ世界を生きるというちょっとしたデジャブー感覚と宮川一夫対山田一夫というカメラマン対決がかなり面白かった。宮川一夫というとどっしりと落ち着いた巨匠のイメージがあったが、早いパンと二重露光を多用する35歳宮川のカメラワークはとんでもなくアグレッシブで冒頭の少年の肩越しに二階の部屋の窓から外にクレーンで表の通りに降りて夕飯時に子供を呼ぶ母親のワンショットまで持っていく力技にまず驚かされる。対して三船版の冒頭は同じクレーン移動ながら夕暮れの路地風景から逆に木賃宿屋の中へとカメラが入って来る。対抗意識というのだろうか、すでに完成された映画を見ているのだからリメイク版のカメラマンは相当やりづらいことは想像に難くないが芝居小屋の分かりやすいカット割りといいい山田一夫は相当良くやっていると思う。編集でのオプチカル処理が出来なかった当時は絞りを抑えて撮影して巻き戻してWらせて撮ったりレンズの周囲にポマードを塗ってソフトフォーカスの効果を出していたりと映画の現場に職人がいた時代を想う。
一途すぎる「男の純情」というおとぎ話
午前十時の映画祭で鑑賞。
小倉の町で、知らぬ者の居ない人力車夫の松五郎。
なんで有名かというと、相手構わぬ乱暴者なのである。
相手構わぬ乱暴者と言っても、
自分より権力のある者への反抗心であり、
町の人々は彼をそれなりに愛すべき乱暴者という感じで、
暖かかく見守っているのかと思っていたら、
時に、後先考えずに直情的に飛んでもな行為を
やってしまう松五郎(笑)
このシーンなんか流石に三船敏郎、
大きな動きでもう無法者感が半端ないっす。
「七人の侍」の菊千代を彷彿とさせます。
それでも、自分が間違っていたことに気がつくと
潔く頭を下げるような、真っ正直な男。
映画の初めの方はそんな松五郎の性格を
昭和の名優、有島一郎や笠智衆などが出てきて
トントンと紹介してゆく。とっても楽しい。
そんな松五郎が、とある軍人さんの息子を助けたことから
その軍人さんの家に出入りするようになり
主人である軍人さんが早くに亡くなると
その息子を父親がわりに何かと世話を焼いてみせる。
陽性の三船らしい楽しいシーンが続くが、
小学生だった息子がそれなりの年齢になると
いつまでも子供扱いする松五郎が煩わしくなり
以前のように気安く行き来できなくなってしまう。
その寂しさの中には、軍人さんの未亡人と
会えなくなってしまった事も含まれていた。
いつも己を信じて自信満々な役が多い役者だから
己を抑えて切ない表情の三船敏郎はなかなか観られません。
で、月に八回ほど映画館で映画を観る中途半端な映画好きとしては、
いつも思うのだけど、古い映画であっても
名作と言われる作品はテンポが良くてダレないですね。
時間の流れが人力車の車輪の回転で表現されていて
観やすい流れでした。
昭和初期の名作映画ということで
なんと一途で、なんと切ない「男の純情」というおとぎ噺。
未亡人への恋心を耐えきれずに告白しそうになって
でも話しきれなくて、困った表情のまま
去ってゆく姿は本当に切なかった。
今でも目に見えない形で階級の差ってものが横たわっていますが
時代背景が明治ということで
軍人の未亡人と人力車夫、身分違いの片思い。
それを死ぬまで胸に抱えて生きていくなんて〜〜〜。
今はもちろん昔だってそんな人は稀有だったのでしょうから
おとぎ話として残っているのでしょうね。
ここのところ、何を観ても、ほぼ泣く様なことは無かったですが
久々に、少し泣けました。
最期の場所が。。!
せっかくのリバイバル上映なので見てみました。
松さん、そりゃ切ない気持ちになるよ〜と松さんの気持ちになり辛くなりました。
多分10年くらい、後家の奥さんとその息子に対し、
再婚しないのに男の子の学芸会に奥さんと出席
再婚しないのに庭手入れや鯉のぼりの棒を立てるなど折りに触れ生活をサポートする
再婚しないのに家で一緒に豆まきをする
。。。などなど、公認の恋人や再婚相手がするようなことをさせたままで放置して、いつまでもいつまでも松さんの好意に甘え過ぎじゃない??と後家の奥さんの気持ちがよく分からなくなりました。
何か困ったことがあったらすぐ頼む、すぐ相談するのに将来の夫に願い出るわけでもない。
かといって執事や使用人として正式に雇うわけでもない。勿論食事を出すとか謝礼金とかは
幾つも包んでいたようですが。。
子どもの学校行事に出席するのは一般的に家族しかいません。普通は父母、忙しいとか片親なら祖父母が普通です。親戚のおじさんですら、甥っ子の授業参観、学芸会には普通は行かないと思います。友人達から「おい、親父から声かけられたぞ~」って囃し立てられるのも無理ないです。
夫の死後、家のことが落ち着くまで2〜3か月程度何か助けてもらうくらいなら分かりますが、
小学1年くらいの息子が高校生くらいまでずーーーっと10年くらいは息子の成長も見守り銭湯にも行く喧嘩にも助けに馳せ参じてくれた人に
「これからは息子のこと、ぼんぼんじゃなく○○さんと呼んでください」って。。。
松さんの立ち位置、それじゃ使用人だよ!下男だよ!!何でそんな仕打ちするの?それならもっとずっと早い段階で頼るの止めときなよ奥さん!!!
。。。と、松さんにかなり同情しました。。。
小学校を卒業出来なかった松さんが、いつも小学校に足を運び、最期の時には小学校の敷地で倒れて亡くなるというのがなんとも。。なんとも切ない無法松の一生でした。
彼には大人になってからでも勉強と、そして元の旦那さんの死後せめて4〜5年後くらいには正式に奥さんと結婚してほしかったです。婿であの家はそのままでも彼は受け入れたと思います。
息子の学校行事をはじめ、小学校からずーーーーっと息子の成長を本当に見守っていた彼の父親は松さんだったと思います。
リバイバルのおかげでこういう作品が昔あったことを知ることが出来たことは、良かったです。
廻る人力車の車輪が語る無法松の運命
以前、阪東妻三郎版を観て感激しましたが、リメイク版の本作も非常に丁寧に作られていて、クラシックな日本映画の良さを再認識しました。ストーリーは、人力車夫と、軍人の未亡人と息子との十数年の交流のドラマで、無法松が老境に差し掛かって長年の未亡人への恋情に気がつき、激しく自己嫌悪に陥るシーンは圧巻です。阪妻版では、ここらへんが当時の検閲に引っ掛かったようですが、まさにここが無法松の美しいまでにストイックな男気が感じられる所であり、根本的な部分を見落としているとしか思えません。阪妻は歌舞伎役者出身らしくメリハリのある演じ方が魅力で、三船敏郎は豪快さが持ち味と、甲乙つけがたいです。また、未亡人役の高峰秀子の穏やかな佇まいや所作が美しかったです。土地の顔役の笠智衆が最初と最後のシーンで、いい味を出しているのも、またよきかな。
漢 三船松五郎の幸せな生き様
人力車の車輪と共に進む時の流れ。
知らない時代への郷愁と共に自らの人生すら顧みさせる映画。芝居小屋、掛け時計、小倉祇園太鼓、建物街並み。
今時あんなピュアな人はいないだろうけど、いろんな登場人物の人生を重ね合わせるキーパーソン。
どんな年代の人が見ても引き込まれる仕組みが見事。
最後の松五郎に近くなった私は各年代の登場人物に思いが至る。
吉岡の奥様は高峰秀子で良かった。やさぐれの若者からくだまく老人まで演じきった三船。当時の映画界の実力も感じる。
わしゃぁ・・寂しかったんぢゃっ・・
内容は福岡県小倉を舞台にした無法者松五郎『松っあん』と友人で急逝した陸軍大尉の吉岡家遺族(母と子)との交流物語『わしの心は汚いっ』は男女関係を卑下する所があり。それは自分の幼少期と被る所が原因であり、だからこそ弱い自分を強く見せたいと強くあろうとする振る舞いで自分自身に行動で言い聞かせていた様に感じさせ胸が締め付けられました。最後の雪のシーンは心象風景が冷たいが美しく車輪が止まる(死)シーンとボンボンの学生帽子を死装束としている辺りが、松っあんが幼少期に戻りたいと思え、そして戻れたのかもなぁと思います。
葛飾の欠落した『男はつらいよ』
無教養で豪放磊落だが人当たりと心意気の良さは一級品、しかし一方で意中の女性にはめっぽう押しが弱い、という松五郎を見ていて、私は思わず『男はつらいよ』の車寅次郎のことを思い出した。おそらく山田洋次も本作を踏まえたうえで『男はつらいよ』シリーズを制作していたと思う。
しかし松五郎は寅次郎とは違い、己のメンタルを支えるセーフティネットとしての家族や故郷を有していない。悩みや行き詰まりがあったとき「しょうがないんだから」と寄り添ってくれるものが決定的に欠落している。
頼るべきものが何もないが故に松五郎は、寅次郎にはない責任意識のようなものを多分に抱え込むことになる。未亡人に密かな想いを寄せる、というところまでは寅次郎と大差がないが、夭折した彼女の夫への背徳感に精神を食い潰され、「俺の心は汚い!」と懺悔しながら彼女の元から永遠に去ってしまう松五郎の背中には、寅次郎に対しては決して感じたことのない重苦しさがのしかかっていた。思えば松五郎の牽引する人力車というモチーフも、そのまま彼の責任意識の比喩と捉えることができるだろう。
未亡人と永遠の決別を果たした松五郎は、町を飛び出し一人ぼっちで雪道を歩いてゆく。このとき、彼はトレードマークであり責任意識の比喩でもあった人力車を引いておらず、小さなカバンだけを持っていた。
「町を出る」「人力車を置いてくる」という行為によって自己に巣食う責任意識からの脱出を図る松五郎だが、結局どこへも辿り着くことができず、誰にも看取られることなく雪上で絶命する。彼にとって責任意識とはおそらく、逃れるべき仇敵であると同時に、唯一の拠り所でもあったといえるだろう。外部に頼るあてのない人間は、責任意識に基づく自律によって自己存在を保持していくしか生き延びる術がないのだから。
そう考えると『男はつらいよ』はあまりにも救いのない本作に再びハッピーエンドの生を吹き込んでやったものと解釈できるかもしれない。
しかし恐ろしいのは、寅次郎もまた、松五郎と同じ境遇であったならば同様の末路を辿っていたかもしれないということだ。「環境が人の人生を左右する」というありきたりではあるが厳然たるテーゼが、改めて眼前に迫ってくるような息苦しさを覚えた。
「無法松」だから、もっと世間を困らせていると思ったら、案外小事件ばかり
1=松五郎は、冒頭、①警察の師範と料金の件で喧嘩、②芝居小屋で喧嘩
2=その後は、吉岡家の母子との交際が半分以上
3=松五郎の終盤の祇園太鼓は見事
4=もっと、ハラハラ、ドキドキを期待してたが、期待外れの感じ
5=楽しくないし、心は踊らないが、印象深い場面もある → 星3.5個とした
俺の心は汚い!
監督自身によるセルフリメイク。その旧作は後に観たのですが、TVの映画解説で何度も語られているので、本作はとても見やすかった。セルフリメイクした理由というのも、戦時中に検閲によって大幅にカットされてしまったことからだ。どこがカットされていた部分なのかと考えながら観ても、さっぱりわからんぞ・・・それもそのはず、未亡人に告白するシーンは前作でカットされながらも逆に心情を読み解くということで人気が出たため、リメイクでも描かなかったのだろう。
芝居小屋では車夫ということでいったん入場を断られたことに腹を立て、二度目に入ったときには升席で鍋料理をはじめて、ニンニク臭を小屋中に匂わせた(笑)。観客はたまったものではないのだが、ケンカを収拾させたのがヤクザの親分・笠智衆だ。そんなエピソードの後、吉岡一家との出会いがある。
吉岡小太郎の妻良子(高峰)に一目会ったときから恋心を抱く松五郎。しかし、そんな台詞も映像もさっぱり描かれていないのに、彼の心情がとてもよくわかる。小太郎が生きてさえいれば、心も変わることなかったのに、未亡人となった母と敏雄に一生懸命尽くす松。「俺の心は汚い」という言葉の発端は小太郎の死から始まっていたのかもしれない・・・
敏雄が成長し、熊本の大学に行ってしまった。この頃は軍国主義が闊歩していて、映像にもその名残が多く見られる。父親が酒のために死んでしまったことにより自らも酒を断っていた松五郎だったが、なぜか再び酒浸りになっていた。この気持ちの展開が描かれることはないが、敏雄が去った(とは言っても大学だから)のが原因か・・・それとも自ら死期を悟ったことが原因か。
大正3年、敏雄が帰省し、祭りでは松五郎が祇園太鼓を叩く。印象的な太鼓だったが、いつ練習していたんだ?!その後、花火を見ている良子のそばへ・・・感極まって、俺は汚い、二度と会うこともない・・・そして雪が積もる田舎道をフラフラと歩く松五郎。過去を思い出し、人力車の車輪が回る映像が映し出され、その車輪がピタリと止まる!止まった瞬間、泣けてくる。小学校も出ていない松五郎。倒れていたのは、その憧れの小学校の校庭だった・・・
身分違いの恋と言ってしまえば元も子もない。その根底には階級制度が根強い社会があるのだ。良子の言葉に、「あの人は運が悪く・・・」云々と、車引きがいかにも社会の底辺にあるような職業であるかのように語るシーンもあった。もうちょっとその社会派メッセージを訴えてくるようであれば、満点にしてもいい作品だ。
日本映画の名画の再映画化、監督稲垣浩の執念に胸打たれる
稲垣浩、執念の再映画化。前作の映像美に負けまいと、色彩を駆使したカラー映像で作り上げた稲垣監督の力量に衰えはない。主演の三船敏郎も伝説化された坂東妻三郎の名演に恥じぬよう熱演を見せてくれる。但し前作の詩情あふれる映像美に対して、今作のカラー映像が持つ明晰さが、内容と時代に合っていないように感じる。三船の演技は素晴らしのだが、やはり坂東妻三郎の方が主人公の役にぴったり合っているので、どうしても比べてしまう。ただ、この物語が持つ、純粋な男のこころを描いて美しいとしか言いようのない人情味あるドラマに、日本映画の良さと日本人の美しさが秘められているようで、どうしても感動してしまうのが本音ではある。
本作のオリジナル版がオールタイムベストの一覧に加えられている大きな理由とは
日本映画オールタイムベストに掲げられているのは1943年版の方です
本作は稲垣監督がセルフリメイクした1958年版です
物語は北九州小倉の人力車牽きの通称無法松の文字通りの一生です
大した事件も出来事もそうあるわけではありません
ヤクザものぽいですが全く関係有りません
確かに笠智衆が大迫力の顔役として登場しますが、それだけのことです
明治30年1897年から物語は始まります
1905年の日露戦争祝勝会、1909年とおぼしき小倉工業学校の運動会、1914年の第一次世界大戦でのドイツ領青島攻略の祝勝提灯行列、途中1870年の明治初年頃の主人公の子供時代の回想、最後は1919年頃と思われる小倉祇園祭りでの有名な祇園太鼓のシーンと同年の冬の主人公の死によって終わるものです
彼は貧しく不幸な境遇に生まれ無学文盲です
彼は決して頭が優れてはいないのですが、大きな人間性を持っていました
IQに対してEQ(心の知能指数)が優れていた人であることを沢山のエピソードで語られます
決して政治性を持った内容では有りません
左右どちらにも政治に関しては全く関係の無い内容です
しかし本作のオリジナル1943年版は二度検閲を受けいくつものシーンカットさせられていることで有名です
一度目は戦前の体制によって
二度目は戦後のGHQの指示によって
そのシーンとは決して公序良俗に反する淫靡なものでは有りません
今となれば何のことの無いシーンです
戦前は戦争未亡人に対する無法松のプラトニックな想いが伺えるシーンを問題視され、戦後は戦前の各々の戦勝祝勝会シーン等を問題視されたのです
本作はその悔しさから、改めて監督が当初の内容で撮り直した作品になります
今風に言えば再撮影完全版というものでしょうか
皮肉なものです
人間性豊かな人物を讃える映画が、戦前と戦後の二つの体制両方から圧力を受けたという、正に戦争は人間性を窒息させる真空地帯ということを地で行っています
その点が本作のオリジナル版がオールタイムベストの一覧に加えられている大きな理由のひとつかと思います
三船敏郎は魅力的ですがもっと弾けて見せても良かった気はします
高峰秀子34歳
歩兵大尉の上品な奥様という役柄がピタリとはまっています
しかしラストシーンでのカタルシスまでには至りませんでした
彼女の演技に問題があった訳ではなく、そこに至る脚本と監督の演出の問題であったと思います
肝心のハイライトたる祇園太鼓のシーンも盛り上がりに欠け正直拍子抜けなのは残念でした
純真な愛の物語
第19回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作。
DVDで鑑賞。
稲垣浩監督が1943年に製作した同題作品をセルフリメイク。旧作は軍部の検閲により恋愛のシーンを削除させられ、戦後はGHQによって軍国主義を想起させる場面がカットされてしまうと云う憂き目に合いました。その悔しさからリベンジのつもりで製作された背景があるためか、稲垣監督入魂の一作と讃えるに相応しい傑作だと感じました。
松五郎(三船敏郎)の良子(高峰秀子)への想いが切な過ぎて、胸がギュッと掴まれたように痛くなりました。豪放磊落に見えて実は繊細で、人情に厚い人柄に惹かれました。
良子への恋心を自覚し、そんな気持ちを抱いた己を「汚い」と罵り、二度と会おうとしなかった松五郎の心情を思うと、純粋過ぎるが故の男の悲哀に胸が苦しくなりました。
死に様がなんとも物悲しく、良子と敏雄(芥川比呂志)の慟哭に貰い泣きしました。亡くなってから気づく、松五郎の人と成り…。親子への無償の献身に胸が熱くなりました。
※以降の鑑賞記録
2023/03/18:午前十時の映画祭12(4Kデジタルリマスター版)
※修正(2022/12/14)
こんな男を許容する時代の雰囲気
総合:70点 ( ストーリー:70点|キャスト:75点|演出:65点|ビジュアル:70点|音楽:65点 )
おおらかな明治・大正期に、豪快に生きた男の生涯を綴る。自分の思う道を進む彼はもめごとばかり起こす反面、何事にも負けない強さや人の良さを見せて快い男である。こんな男が現在に生きているとうっとおしいかもしれないが、時代のせいか違和感がない。こんな男も許容してしまうという時代の雰囲気がある。
一方で、不幸な家に生まれて教育を受けられずに文字すらも読めないが、子供好きで学校に憧れる姿がだんだんと明かされる。ちゃんとした家で生まれてさえいれば将軍にもなれたかもしれないと言われた大器が、その一生を町のしがない車引きとして伴侶を持つことも無く独り身のままひっそりと生涯を終える。彼の気持ちを斟酌すれば、そのせつない生き方がしんみりと残された。
前半は必ずしも洗練された演技や演出ばかりではなくて、大仰な演出や子役の稚拙な演技もある。でも三船の演じる松五郎の若い前半の豪快さと、歳を経た後半の寂しさが印象に残って、この時代を自分なりに精一杯生きた松五郎の生涯にひきつけられた。
映画の制作も古くて時代背景と大きく離れていないからまだまだ当時の面影を残しているようで、当時の社会における人々の生活が覗けるように思えるのも嬉しい。時々は美術の作り物感が出てしまう場面もあるが、この時代に総天然色で撮影していていい色を出しているのも良い。
物語も映画も、現代とはとても異なる。この時代ならではの日本だしその時代の価値観を反映した作品という感じがする。でもそれだからこの時代のことを垣間見ることが出来て良かったと思える。何度も再映画化されていて、この作品自体も二度目の映画化である。だがもし21世紀の現代で再映画化されても、この作品なみに当時の雰囲気を出すのは難しいのではないかという気がする。
らっきょうと小学校
三船敏郎の豪放磊落な男臭い演技はいかにも芝居じみて、そのせいもあってか、彼がスクリーンに登場すると、途端にそんな彼をどう見つめてよいものやら分からなくなる。つまり、観ているこっちが気恥ずかしくなるのだ。
しかし、この作品での三船は、ひょっとしたらこの人の仕事を離れた素の姿は、この松五郎のような人物なのではないかと思わせる。それはきっと、脇を固める高峰秀子や笠智衆らの演技によるものでもあろうが、やはりここは三船の素朴な人間性が演技にも出ているのだと思いたい。
運動会の徒競走に飛び入り参加した松五郎を見つめる高峰の気色ばんだ瞳を見れば、このあと松五郎との間に何かが起きることを期待しない観客はいないだろう。松五郎の疾走に男の精力を見出す寡婦の、慎みを忘れてしまったかのような姿を無言で演じて見せている。
街の顔役を演じる笠も痛快な演技である。ぶっきらぼうな松五郎を、生真面目に理路整然と諭す親分の人物造形は独特で笑いを誘う。
小学校の窓から子供たちの様子を見ることを愉しみにしている車夫という設定そのものがすでに涙を誘う。自らが辛く淋しい子供時代を過ごしたからこそ、抑えきれない楽しい学校生活への憧憬。
松五郎と同様に幼くして生母を亡くして継母に育てられ、若くして家を離れて旧制師範学校を出たのち小学校教師となった人物を身近に知る者としては、映画の中の松五郎とこの個人的に知る小学校教師とが合わせ鏡のように見えてならない。その私の祖父である小学校教師もまた、竹を割ったような気性であり、子供たちが好きだったと、生前の彼をよく知る者から伝え聞く。
このように観客が現実の生活の中で知っている人物と映画の登場人物とが重なり合うとき、物語の内容や登場人物の印象は通常の者とは全く違ってくる。物事の解釈や認識に強いバイアスがかかっていることを自覚しつつも、そのバイアスに身を委ねたいという欲望。ノスタルジーや同情に浸る快楽。このような映画への触れ方も良いものだ。
さて、松五郎が吉岡少年にらっきょうを勧めるシーンが忘れられない。少年の口では一口で頬張れないほどの大粒のそのらっきょうの美味そうなこと。ペコロス玉ねぎほどの大きさもあるあのらっきょうはどこで食べることができるのだろうか。大正の北九州小倉へ行かなければ食すことのできないものだろうか。
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