早春(1956)のレビュー・感想・評価
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契約によって生じる義務と安定
戦争帰還者が現役サラリーマンをしている頃の昭和。
蒲田に住む杉山は、丸ビルに勤めるハンサムなサラリーマン。幼い息子を亡くしており、大恋愛の末に結婚した昌子との関係は冷えきっている。そんな中、通勤仲間の一人である派手な千代と不倫関係になってしまう…。
昌子の実家はおでん屋。
杉山は客だったのかな?
ともかく昌子からしたらエリートを捕まえたって感じなのかしら。
杉山夫妻を中心に、サラリーマン人生や結婚生活のあらゆる典型例が網羅されていました。
組織や他人と契約を結ぶことで得られる安定した生活の一方で、義務と退屈と不自由への忍耐が試される…。
隣の芝生は常に青いし、何でも思い通りに行くとは限らない。
儚く虚しい人生は、何も会社員に限ったことではないですよね。戦争が終わり無事生きて帰れて平和を味わっているけれど、待っていたのはこんな暮らしか、お国に従った次は会社に従うのか、と嘆いているのかも知れませんが。
いつの時代も、人生の春が過ぎるのは早いもので…。散ってから気付く春の花、乾いてから気付く青春の汗?
ほぼ毎朝駅で顔を合わせるからと、同世代の社会人らが職業の垣根を越えて学生のように仲良くなっていることに驚き。「通勤仲間」で日帰り旅行なんて、今ではちょっと考えられません。他人との距離がとても近いです。近過ぎて不倫にまでなるのだけれど、同じ最寄駅だからなかなかリスキーですね。
妻も不倫相手も「バカにしないでよ!」「何さ!」と男に噛み付きますが、結局折れて男の決断に従うのは女性側。こんな自己中男が愛され許されるのはイケメンだからなのか?!
妻が夫を懲らしめたい時に強制鑑賞させる映画は”Gone Girl”が最恐だと思っています(^^)。本作を夫婦間で活用するなら、なかなか許してくれない妻に観てもらう映画でしょうか…。しかし、昭和の価値観を押し付けないで!!とかえってブチ切れられる可能性もありますので、責任は持てません(^^)。
オリジナルでないものもありますが、名言(今や迷言?)がぎゅうぎゅうに詰まっておりました。
「人生からサラリーもらってるようなもんだよ。」
「間に合うってことはつまんないことね。」
「歴史は夜作られる。」(他作品)
「もう、これで男の子は一人もいなくなってしまいやしたもの。もう、誰も私に文句言ってくれる人はありません。」
「我が身をつねって人の痛さを知れだ。」
「つまり反省だな。Self-examination だ。」
「それがなきゃ人間、犬猫とおんなじだぜ。」
「Humanismってものはな、そんな時羨ましがっちゃいけねえもんなんだ。そういう風にできてるんだ。窮屈なもんなんだ。」
「女は三界に家なしだから。」
「古くたってね、人間に変わりはないよ、おんなじだよ。」
「折れべき時に折れないとね、取り返しのつかないことになりますよ。」
「色んなことがあって、段々本当の夫婦になるんだよ。」
「間違いは、お互いに努力して、小さいうちに片付けろ。」
「つまんないことに拘ってこれ以上不幸になるな。」
***
幸一と母親の、ずり下がった腰巻きのやり取りには大爆笑。
所で「アイスウォーター」は有料なのかしら(^^)。
…→氷が貴重な時代だから有料だろうとのこと!
夫婦の有り様よりもサラリーマンの物悲しさ、やるせなさが印象に残った...
夫婦の有り様よりもサラリーマンの物悲しさ、やるせなさが印象に残った。同じような毎日の繰り返しの中、岸恵子のように美しくハツラツとしたOLが相手なら不倫も仕方ないように思えてきてしまった。結局最後に妻は転勤先の夫の元に赴き、めでたしめでたしのようだが心の溝はそのままなのが表情にみてとれ、中年の寂しさが余韻に残った映画だった。
サラリーマンを憐れむ歌
表面的には浮気の話で、根っこは子どもを失った夫婦がやり直せるかどうかの話です。
しかし、本作はなぜかサラリーマンを徹底的にdisっており、そのインパクトが強烈すぎて本来のテーマを吹っ飛ばしているように感じました。小津ちゃんの執拗にして壮大なサラリーマンdis。これはなんなのか。
若くして死んだ後輩を前に、脱サラしたバーのマスターが「奴はサラリーマンの酷さを知らずに死んだ。幸せだ」的な言葉を吐いたり、バーで飲んでる定年前のサラリーマンが「ここまで生きてきても、少ない退職金を前に寂しい思いをするだけだ」みたいなことをのたまったりと、本作のリーマン諸氏は例外なく虚しさを覚えております。生きがいややりがいを感じている人は絶無。小津はサラリーマンを『無価値で無意味な存在』と明らかにバカにしています。
なんの根拠もありませんが、小津はサラリーマンを兵隊的な存在として見ていたのでは。意志を持たず(持てず)、大いなる力にただ従うだけの存在。人間を人間たらしめる情緒や主体性、伝統的な営みは存在しないと捉えているのではないでしょうか。
サラリーマン社会のような人間性を奪い去るシステムに対して、小津は強烈なまでの怒りを抱いていると思います。
しかし、本作はシステムdisでは飽き足らず、システムの中で生きる人までdisってますからね、ちょっとやり過ぎ感を覚えました。
登場人物の中で、情熱を持って仕事に取り組む人をひとりくらい出しても良かったのでは、なんて思いました。しかし、それだと一貫性がなくなるから難しいかも。とはいえ、本作での表現を借りるならば『窮屈なヒューマニスト』の小津ちゃんにしてはちょっと下手打ったように感じました。
物語もダラダラと長い。オチも笠智衆先生に正論っぽい一見良さげなセリフを語らせてシメるといった『晩春』パターン。このやり方は強引な荒技で丁寧とはいえないです。これは物語の推進力で話を決着できなかった証左でしかありません。私はこれを『笠智衆エンド』と名付けました。
とまぁ、今回は小津ちゃんをdisりまくりですが、観ていてかなり楽しめたのも事実です。あの構図、美人女優の説得力、オフビートギャグ(お通夜のBGMがのほほんとしていて不謹慎で最高!)の小津ちゃん三種の神器が効いていると、つまらん話でもそれなりに観れてしまう。小津調恐るべし、です。
また、本作で小津ちゃんが持つ『システムへの怒り』を実感できたのは収穫でした。小津ちゃん、上品で穏やかな作品のクセに、ボブ・マーリーとかレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンみたいなスピリットを持っているように感じ、グッと好きになりました。
ジャームッシュやカウリスマキら小津に影響を受けたインディ監督たちは、間違いなくスピリット面の影響も受けているでしょう。
麦秋では原せっちゃんが最強すぎてあまり意識できませんでしたが、淡島千景はすげー美人ですね。立ち居振る舞いの美しさにはため息。ただ、ヘビ顔なので迫力ありすぎで怖い。岸惠子は現代的なキュートさがありますね。尻軽に生きざるを得ない寂しい女性を見事に演じたと思います。
つまり反省だな、セルフ・エキザミネーションだ
映画「早春(1956)」(小津安二郎監督)から。
私の感性が低いのか、監督はこの作品を通じて、
私たちに何を伝えたかったんだろう、と考えこんでしまった。
当時の様子がわかる映像が散りばめられていて、
60年近くたった今見ると、楽しいシーンも多いが。
他の作品もそうだけど、時々、英語がぽっと台詞に含まれる。
そんな覚えたばかりのような英語を使うあたりが、
戦後間もない作品だなって感じて、メモをしてみた。
(違和感と言ったら失礼になるだろうけれど・・)
特に、働いている若者同士が一斉に手拍子で
「ツーツー・レロレロ・ツーレーロ・・」と歌いだしたり、
狭い部屋で1つの鍋を囲んで激論したり、楽しそうだ。
そんなワンシーンで使われた英語。(笑)
「つまり反省だな、セルフ・エキザミネーションだ」
「人道上な、ヒューマニズムだよ」とやたらと英単語が並ぶ。
女性の洗面所で「シャボン、もういい?」と言われた時は、
「石鹸」のこととは気づかず、メモしそこなった。
何かを意識して、英単語を使っていると思うのだが、
その意図がわからず、不完全燃焼で観終わった。(汗)
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