「純愛映画としてとてもよい。原作とは異なる作品。」伊豆の踊子(1963) ねりまっくまさんの映画レビュー(感想・評価)
純愛映画としてとてもよい。原作とは異なる作品。
川端康成の小説を映画化した作品です。Wikipediaによると、過去に6回も映画化されていて、本作品はその4番目、日活の制作です。他の作品は松竹と東宝です。
作品を鑑賞した後で、改めて小説を読んでみました。
映画の冒頭部分は、大学教授が教え子から相談を持ち掛けられるシーンで始まります。相談内容はダンサーである彼女との結婚についてです。ここから教授の回想シーンへとつながっていき、伊豆の踊子の話が幕をあけます。この導入シーンは小説にはないものです。
回想シーンに入ってからは、およそ小説を忠実に再現していると思います。向かいの風呂場から薫が裸で手を振るシーンや、一緒に碁を打つシーン、49日の法要の話をするシーン。どれもが、違和感なく描かれています。ただ、二つ大きく異なる点がありました。
ひとつは、活動(=映画)に行く約束をした「私」と薫でしたが、薫の母が行く事を許さず、結局母に従う場面です。小説では、「おふくろが承知しなかったらしい。」という一文でしか表現がありません。一方、映画では、「旅芸人の娘が学生さんに惚れたってしょうがないよ。」という母の言葉を薫が聞いてしまい、活動に行くのを自らあきらめるという具合に丁寧に描いてありました。これは、時代背景や当時の価値観がわからない観客への配慮による演出なのでしょう。公開された当時に旅芸人がどれくらい一般的であったのは知りませんが、蔑む価値観があったことを知らない人たちが多くいても不思議ではありません。
もうひとつの異なるシーンは、船が港を出た後のシーンです。映画では、港で白いものを振る薫に気が付いた「私」が、薫に向かって学生帽を大きく振ります。お互いに懸命に布と帽子を振っていましたが、薫は突然しゃがみこみ泣き出してしまいます。それを見た「私」は、「おーい」と大きな声で呼びかけます。しかし、船は港から遠ざかるばかりで届くはずもありません。そこで回想シーンが終り、冒頭にある現在のシーンに戻ってくる、というものでした。
小説では、この別れのシーンは極めてあっさりと描かれています。
「ずっと遠ざかってから踊り子が白いものを振り始めた。」
映画のシーンとマッチするのはこの一文だけです。その他に描かれているのは、「私」が船の中で少年と知り合い、少年に泣いているのを見られても平気だったことや「私」の心情がつぶさに描写されています。一部を抜粋すると、
『すがすがしい満足の中に静かに眠っているようだった。』
『どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持だった。』
『頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぼろぼろに零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。』
これらの心情を映像で表現するのはなかなか難しい事は容易に理解できます。ただ、「伊豆の踊子」という作品のクライマックスは薫との別れのシーンではなく、別れた後のこの「私」の心情描写にあると思うのです。せめて、船内で涙を流すシーンくらいつけても良かったのではないか、と思いました。
伊豆の踊子は川端康成の実体験をもとに書かれた私小説です。同性愛やバイセクシャルへの目覚めなどの切り口で解説されている人もいます。映画はそれらの要素を割愛して、シンプルにすることで完成度を高めることに成功していると思います。ただ、オリジナルの作品とは異なるものになっているとは思います。
純愛映画を楽しみたい方におススメです。