伊豆の踊子(1963)のレビュー・感想・評価
全14件を表示
身分の差を超えた純粋さが伝わる
総合:75点 ( ストーリー:85点|キャスト:70点|演出:70点|ビジュアル:70点|音楽:65点 )
この時代に旅芸人というのはまともな仕事がなくて芸で日銭を稼がないといけない貧困層であり、蔑まれた身分の人たちであった。一方で一高生の主人公は未来を嘱望された花形であり尊敬を受ける身分である。劇中にも旅芸人に対する侮辱的扱いが幾度も出てくる。
それほどはっきりとした格差がある中で、そんなことを気にもせずに若い2人が純粋に惹かれあっていく交流が瑞々しい。そしてやはり自分たちの立場から別れを受け入れていく姿が、純粋な2人だからこその美しさがある。
この作品の独自性として高齢となった現在の主人公が出てきて、自分が実現できなかった身分違いの恋愛を若い学生が自由に実現しようとする姿を認めるところだろうか。これがあって主人公とのかつての経験の対比が生きていて良いと思う。
前回は1974年制作の三浦友和と山口百恵版を観たが、それがいつだったか思い出せないくらい前なのであまり良く覚えていない。今回は1963年の高橋英樹と吉永小百合版である。この2人の若いころを良く知らないので、現在の姿とあまり一致しなかった。有名女優だがあまり薫役の吉永小百合に何故は引き付けられはしなかった。なんでだろうかと思ったが、あまり苦労をしている所帯感がなかったせいか、原作では14歳の設定が実年齢で公開当時18歳程度だったうえにさらに年上に見えて幼さを感じなかったせいだろうか。
この当時の街並みと社会情勢と人々の姿とはまずまず上手く描かれていたように思う。1974年版での感想には音楽が合っていないと記録していたが、今回はそんな違和感がなくて受け入れられた。
吉永小百合バージョン
2024年7月2日 映画 #伊豆の踊子 (1963年) #吉永小百合 #高橋英樹 バージョン これまでに #美空ひばり (1954年) #鰐淵晴子 (1960年) #内藤洋子 (1967年) #山口百恵 (1974年) と立て続けにあったようですが、最近はやってないみたいですね 高橋英樹ってやっぱり男前だな
薫にリンクする吉永小百合の純粋さ
Amazon Prime Videoで鑑賞(レンタル)。
原作(伊豆の踊子,温泉宿)は既読。
吉永小百合の放つ、持って生まれたとしか思えぬ純粋さは、原作の薫そのままであり、撮影現場を訪れた川端康成が「懐かしい親しみ」を感じたと述べたのも納得の佇まいでした。
子供って、急に走り出したりと云うような、突発的な動きをする特徴があると思いますが、吉永小百合の演技もその特徴を捉えたものになっていて、上手いなと思いました。
伊豆地方のロケーションの素晴らしさが作品全体に格調を齎していたし、原作からの換骨奪胎も上手いと感じました。
回想形式を採用し、現代とのブリッジを行っているのが見事です。現代はモノクロ、回想がカラーなのも面白い。
別れのシーンも青春の痛みに溢れていて抒情豊かでした。本作が名作と言われる所以を堪能し心地良い余韻に浸れました。
切ない青春の思い出
高橋英樹扮する高等学校学生の川崎は下田へ行く途中雨宿りしたところで吉永小百合扮する旅芸人の薫一行に出会った。 旅は道連れという事で上手い事取り入って一緒に旅するなんていいね。それにしても吉永小百合の可愛さ無邪気さがとてもいいね。吉永小百合とふたりで遊べるなんてね。切ない青春の思い出としては最高だね。
吉永小百合さんの一筋の涙
吉永小百合さんの輝きを放つような美しさは言うまでもないのですが、最近の高橋英樹さんしか知らない身からすると、かっこいいなぁ〜!と単純に思いました。 踊り子の薫が、学生さんと活動に行くのを楽しみにしていたのに行けなくなったときの、一筋の涙が作り物かと思うほど綺麗。その後のお座敷での踊りの、笑顔ながら心ここに在らず感がすごいなと感じました。
純愛映画としてとてもよい。原作とは異なる作品。
川端康成の小説を映画化した作品です。Wikipediaによると、過去に6回も映画化されていて、本作品はその4番目、日活の制作です。他の作品は松竹と東宝です。
作品を鑑賞した後で、改めて小説を読んでみました。
映画の冒頭部分は、大学教授が教え子から相談を持ち掛けられるシーンで始まります。相談内容はダンサーである彼女との結婚についてです。ここから教授の回想シーンへとつながっていき、伊豆の踊子の話が幕をあけます。この導入シーンは小説にはないものです。
回想シーンに入ってからは、およそ小説を忠実に再現していると思います。向かいの風呂場から薫が裸で手を振るシーンや、一緒に碁を打つシーン、49日の法要の話をするシーン。どれもが、違和感なく描かれています。ただ、二つ大きく異なる点がありました。
ひとつは、活動(=映画)に行く約束をした「私」と薫でしたが、薫の母が行く事を許さず、結局母に従う場面です。小説では、「おふくろが承知しなかったらしい。」という一文でしか表現がありません。一方、映画では、「旅芸人の娘が学生さんに惚れたってしょうがないよ。」という母の言葉を薫が聞いてしまい、活動に行くのを自らあきらめるという具合に丁寧に描いてありました。これは、時代背景や当時の価値観がわからない観客への配慮による演出なのでしょう。公開された当時に旅芸人がどれくらい一般的であったのは知りませんが、蔑む価値観があったことを知らない人たちが多くいても不思議ではありません。
もうひとつの異なるシーンは、船が港を出た後のシーンです。映画では、港で白いものを振る薫に気が付いた「私」が、薫に向かって学生帽を大きく振ります。お互いに懸命に布と帽子を振っていましたが、薫は突然しゃがみこみ泣き出してしまいます。それを見た「私」は、「おーい」と大きな声で呼びかけます。しかし、船は港から遠ざかるばかりで届くはずもありません。そこで回想シーンが終り、冒頭にある現在のシーンに戻ってくる、というものでした。
小説では、この別れのシーンは極めてあっさりと描かれています。
「ずっと遠ざかってから踊り子が白いものを振り始めた。」
映画のシーンとマッチするのはこの一文だけです。その他に描かれているのは、「私」が船の中で少年と知り合い、少年に泣いているのを見られても平気だったことや「私」の心情がつぶさに描写されています。一部を抜粋すると、
『すがすがしい満足の中に静かに眠っているようだった。』
『どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持だった。』
『頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぼろぼろに零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。』
これらの心情を映像で表現するのはなかなか難しい事は容易に理解できます。ただ、「伊豆の踊子」という作品のクライマックスは薫との別れのシーンではなく、別れた後のこの「私」の心情描写にあると思うのです。せめて、船内で涙を流すシーンくらいつけても良かったのではないか、と思いました。
伊豆の踊子は川端康成の実体験をもとに書かれた私小説です。同性愛やバイセクシャルへの目覚めなどの切り口で解説されている人もいます。映画はそれらの要素を割愛して、シンプルにすることで完成度を高めることに成功していると思います。ただ、オリジナルの作品とは異なるものになっているとは思います。
純愛映画を楽しみたい方におススメです。
吉永小百合がとても美しい
川端康成原作の、淡い恋心と悲しみと喜びの物語。 OPの歌のタイポといいすごい古き良き時代って感じです。 また吉永小百合がとても美しく、無垢な踊り子をそのまま演じていました。 作品はモノクロでスタートして、途中回想に切り替わる展開にはびっくりしました。 原作にアレンジを加えた演出なんでしょうけど、色調も現代らしくカラーになる構成は実にうまいですね。 淡い恋の物語、すごい良い作品でした
川端康成の文学の世界を再現する それだけでなく現代パートとの対比で伝えようとした監督のメッセージこそが主題だったのです
ノーベル賞作家川端康成の初期の同名小説の映画化 特に人気があり6度も映画化されています 本作は4度目の映画化 テレビやラジオでも、アニメでもドラマ化されているようです 映画での主演はこのような顔ぶれ 田中絹代、美空ひばり、鰐淵晴子、吉永小百合、内藤洋子、山口百恵 その当時の若手随一の演技派、超人気歌手、超美形という若き注目女性が現れると、企画される題材ということかと思います 吉永小百合はその条件を全て満たしているので、本作主演は当然かと思います 本作はほぼ原作に忠実ですが、大きく違う点が一つあります 現代からの回想で40年昔の思い出を振り返る構成になっていて、冒頭とラストシーンのみ1963年の現代になっています しかも現代は白黒、回想の本編が美しいカラーになっています 現代に登場するのは主人公の40年後、大学の教授となって老人になった私です 宇野重吉が枯れ果てた老人を演じます 現代の主人公の無味乾燥な日々が白黒で表現されています そこに教え子の大学生とダンサーという現代の踊り子の吉永小百合が、結婚したいと登場して、主人公の回想のシーンに変わり、色鮮やかなカラーになるのです 失われた青春の美しい日々の色彩の美しさです この構成をとるのは何故か? 宇野重吉を登場させるのは何故なのか? 当時と現代との比較で、過去の差別的な社会構造を感じて欲しいということ それが本作での監督の主張であるのだと解釈しました だから、夢で踊り子が汚されるシーンだけでなく、それが現実になるかもしれないという暗示のシーンを追加しているのだと思います 1986年の大ヒット曲「天城越え」 カラオケやスナックでお姉さんがよく歌ってるあの曲は本作とは関係ないのですが、舞台は同じです 天城越えの九十九折り、天城隧道、新緑の伊豆の山々、谷の美しいシーンが楽しめます 但し滝はでて来ますが、浄蓮の滝は登場しません 吉永小百合は出演当時18歳 踊り子は16歳、今の高校1年生の歳 まだ無邪気な子供の部分を沢山残しているという役所はそのまま表現できています 何より目が彼女に吸い寄せられるのは間違い無いところです 現代パートの交差点は駿河台下です すずらん通り入り口のアーチの端っこだけ写ります 現代パートの吉永小百合が、あっけらかんと大学生と交際し結婚できる幸せそうな姿 身分の違いとかを全く考えることも無い社会が実現されたのだ (本当に?) それが宇野重吉が出演している意味だったと思いました 川端康成の文学の世界を再現する それだけでなく現代パートとの対比で伝えようとした監督のメッセージこそが本作の主題だったのです
・16ってこんなに無邪気なんだなぁ。純粋無垢を体現してた ・たった...
・16ってこんなに無邪気なんだなぁ。純粋無垢を体現してた ・たった数日しか会えないと分かっていたらもっと話しておけばよかった ・一瞬一瞬を大事にしなきゃいけない
淡い恋心と別れの切なさに感動。清純な踊り子を吉永小百合が見事に演じ...
淡い恋心と別れの切なさに感動。清純な踊り子を吉永小百合が見事に演じている。ラストの手を振るシーンでは思わずもらい泣きしそうになった。色々な女優が演じてきた役どころだが、可憐さはピカイチ。
泣いてしまうだろう。
高橋英樹と吉永小百合の共演。天真爛漫な少女が成長するにつれ、大人社会の性的な危険な揺らしの合間に、学生と邂逅する。旅情、慕情、そして淡い悲恋。大阪志郎の演技も作品を本格的に添えている。名作。
吉永小百合の可愛さと差別の露骨さ
踊子と結婚したいから仲人を頼みたいと相談された大学教授の淡い恋の回想録。 未舗装の峠道、今となっては新鮮 撮影地は伊豆なのかな?道路の舗装も含めて人工的な物は砂利道くらいというのが。車が普及する前の街道はこんな感じだったのかなと、想像。 峠の茶屋の人のいい婆さんが旅芸人をあんなものと言う。高等学校、学生にはうやうやしい態度。差別意識と偉い人へのへりくだり方の差。現代は芸能人の地位が上がって、大学生は馬鹿の代名詞みたいになってしまったなあw 小百合がおぼこい。学生と一目で惹かれ合うが、薫は目も合わせられない、が一旦仲良くなると結構積極的。ちょこまか動き回って学生のためにあれこれしてやったり、小動物のような可愛さ。 学生が宿の風呂で一緒になった爺さんと部屋で碁をするハメになるが、その最中の会話がゲスい。去年かわいい16、7の踊子のお初をモノにしようとやり手ババアと交渉したが、折り合わず逃したとか普通に学生に話すセンス。差別意識とか人権意識とか、現代との差を感じる。 大坂志郎と兄弟役はちょっと歳が離れすぎでは?原作でも歳が離れている設定なのかな?どう見ても親子。 今でも潜在的にはあるけど、職業差別の露骨さと人権意識の低さがすごく感じた。
全14件を表示