オペラハットのレビュー・感想・評価
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ゲイリー・クーパーの荒くれイケメンぶりを堪能。逆『ローマの休日』的...
ゲイリー・クーパーの荒くれイケメンぶりを堪能。逆『ローマの休日』的な展開とラストの法廷劇は観るものをワクワクさせる。原題 Mr. Deeds Goes To Town が『スミス都へ行く(Mr. Smith Goes To Washington) 』に似ているので設定も被るが、こちらが先。二人が奏でる『スワニー河』と『ユーモレスク』は印象的。キャプラがアカデミー賞監督賞受賞。
子供心を忘れない純粋さ
『スミス都へ行く』に続き、フランク・キャプラ監督の作品ということで鑑賞。段々この監督の作風が分かってきた。
今作は主人公ディーズの人物描写がよくできていると感じた。ディーズは子供心を忘れない、人一倍純粋な人なのだ。消防団の消化活動に勝手に途中参加したり、気に入らない人間を躊躇なく殴りつけたりするのは、自分の感情に素直だからだろう。毎回階段の手すりに乗って滑り落ちるのも、彼の子供心ゆえの行動だ。その純粋さ故に、新聞記者の女性ベイブに利用されているのに気づいた際には、物凄く傷つき落ち込んだ。そんな彼の傷ついた気持ちを、俳優のゲイリー・クーパーが、悲しそうな表情と佇まいだけで表現できていたのが秀逸だと感じた。
ベイブのドラムに合わせて歌うディーズとのセッションも微笑ましかった。ただ、二人の恋愛関係への発展が、尺の問題もあるだろうが早すぎる印象。欲を言えば、もう少し時間を取って二人の心の変遷を丁寧に描いて欲しかった。
シンデレラマン‼️
人間の善意の素晴らしさを謳い上げる事に長けた名匠フランク・キャプラ監督が、その本領を発揮した名作‼️突然大富豪になったディーズは、貧しい人たちのためにその財産を使おうとして、金目当ての悪党の策略により審問にかけられる。しかし、最後の最後に一発大逆転の鮮やかな弁舌で撃破する・・・‼️大富豪の自動車事故から、歯切れのいいテンポと巧みな技術でドラマの設定を観る者に伝える‼️ディーズが邸宅の手すりを滑って遊んだりするシーンやチューバを吹くシーン‼️ディーずとデートする新聞記者のベネットが夜の公園のベンチで「スワニー河」を歌う情感あふれる名場面‼️ディーズを騙したことを後悔するベネットの前にディーズが来て、自作の詩を詠んでプロポーズするシーン‼️そして小さなカタルシスが連発される大詰めの審問会‼️その緩急自在の軽妙な語り口と、辛辣で温かいユーモア‼️「或る夜の出来事」もそう、「スミス都へ行く」もそう、「素晴らしき哉、人生!」もそう、キャプラ監督ってなんていい監督なんだろう‼️人を信じる心とか、誰かを助けたい、奉仕したいと思う気持ち‼️いわゆる人間の善意‼️キャプラ監督の作品を観てると人生で何が大切なのか教えられます‼️ディーズに扮した若き日のゲイリー・クーパーの爽やかさはもちろん、ベイブに紛したジーン・アーサーも極めて魅力的‼️
キャプラの魔法
まだそこまで何本も観ているわけではないので断言はできないが、フランク・キャプラ監督の作品は、基本的に人情ロマンスコメディだ。
作品が古いこともあるだろうが、その内容はわざとらしくて大袈裟で極端である。
例えば主人公ディーズはどこまでいっても真っ直ぐで正直な男で、腹黒い人物はずっと腹黒い。つまり、キャラクターに二面性や葛藤などがないのだ。だが、これでいい。
近年の作品であれば浅く単調なキャラクターは退屈な物語しか紡がないが、漫画的でオーバーなキャプラ作品のキャラクターは多くの人が考える限界を超えてくる行動をとる。その限界突破が物語を牽引するのだ。
極端であっても単調なキャラクターは単調な物語を生む。現に内容が薄いという意見も聞こえる。
しかし、ある意味で確定しているエンディングへ向かうだけの確定しているストーリーテリングは、観ている者に気持ちよさを届け続ける。
この気持ちよさだけで映画一本仕上げてしまうのがキャプラの魔法。
少なくとも私はキャプラの魔法による陶酔をただ求めている。
一本の作品にあれもこれも求めるのには無理がある。観ることに負荷がかかるような作品は別作品に、社会問題について考えたいなら別作品に、人の葛藤を観たいなら別作品に。なのである。
つまり私は、フランク・キャプラ監督の魔法が大好きなのである。
ばかじゃない
ディーズに人々が群がったのはかれが大金持ちになったからだが、つけこんだのは、無欲で正直だったからだ。ひとは、無欲すぎるひと、正直すぎるひとをばかだと思う。億万長者になってさえ、富者らしい驕慢がみえないなら、ばかに見えてしまう。ばかと見なされたら、財産を狙って審問にさえかけられる。風刺だが、現実もそのとおりだと思う。
しかし、ディーズは無欲で正直だが、ばかではなかった。無欲で正直なのに、とてもかしこいキャラクターだった。そこに超凡の価値がある。
いっぱんにキャラクターは無欲で正直(どちらか一方でも)ときたら、かならずばかに描かれる。ばかはかわいそうにつながり、かわいそうは同情につながり、同情は簡便な客寄せとなる。
人は欠けた者にシンパシーを寄せる。だからキャラクターにエクスキューズを設ける。弱者。貧乏人。圧政下の臣民。暗い過去を持つ者。戦争被害者。DV被害者。障がい者。迫害された人。虐げられた人。・・・。──エクスキューズを設けると、物語に複雑な奇想をほどこす必要がなく、たやすく同情がかせげる。からだ。
だけどアメリカ映画はすでに1936年に無欲で正直なのに、ばかではないキャラクターをつくっていた。ばかではない──ばかりか、ディーズは、理不尽なことを言ってくる奴をブン殴るほどの強者だった。
金持ちで賢くて強者。ディーズには同情する余地がなかった。エクスキューズを用いていなかった。だけどオペラハットは楽しかった。
わたしは人類にひつようなことは、頭を使って危機を回避することだと思う。だから(たとえば)Aneesh Chagantyの映画に感銘をおぼえる。ChagantyのSearchやRunの登場人物は、頭がいい。頭をフル回転させて危機を克服する。登場人物が賢いなら、とうぜんつくったひとも賢い。つくった人が賢いと感じられる映画は、わたしを感動させる。
したがって(たとえば)日本映画で、紋切り型/類型的キャラクターのちんぴらが出てきてばかなことをやって破滅すると、ばかだなあと感じると同時に、つくった人もたいがいにばかなんだろうなあ──とも思う。
(無軌道や破滅をえがくこと自体に罪はないがそれをやるならマイクリーのネイキッドのようにうまくなきゃいけない。ばかがばかを描いてはすくいがない。)
ましてや現代。現実世界にはばかなことや、ばかなやつがあふれている。あふれかえっている。なんで映画でまでばかを見なきゃならないのですか?
日本の「伝統的勘違い」は、だれもばかを見たくないのにばかばっかり描いていることだと思っている。
いまだに(たとえば)哀川翔的ちんぴらな人物像が母性本能をくすぐる──とか思っている時代錯誤のひとびとが映画をつくっている。(たとえであり、哀川翔に罪はありません。)
けっきょく日本映画界はばかがばかをえがいてばかにみせる興行集団に零落して久しいが、なかにはあなたのようにばかに拮抗しうる鑑賞眼を持ったひとがいるにちがいない。ばかなわたしはそんなことを思った。(ばかばか言ってすいません。)
金持ちで長身で強くてハンサムで賢い。安易にエクスキューズしないヒーロー像をアメリカでは既に80年以上むかしに創っていた。──という話。
現実ではあまり無いことかもしれないが、正直や不器用や素朴や無骨や田舎といったエレメントを持った男が、きらびやかな都会女の女心を溶かす。それは魅力的な景趣であり──時代を超える普遍性があった。
安心推奨監督
クラシックではヒッチとワイルダー君の二人は、どの作品も安心しておすすめできますが、キャプラ君の安定感も抜群です。やや理想論過ぎのきらいはあるものの、正義と良心を嫌味なく楽しく表現する腕は水際立ってます。この作品でいつもニヒルで冷たい印象のクーパー君が良心の好演技です。
2023/12/28再見
前半は軽快に、中盤からはイライラが募り、最後はスカッとする終わり方...
前半は軽快に、中盤からはイライラが募り、最後はスカッとする終わり方。二枚目のゲイリー・クーパーが真っ直ぐな青年を好演し、裏切られた時のやるせない表情がなんとも上手い。ユーモアを交えながらもしっかりとしたメッセージが見えてくる見応えある映画だった。
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