オルフェ(1950)のレビュー・感想・評価
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オルフェウス神話を1950年代のパリで
コクトーの描く死の世界が面白かった。
オルフェウスは死の女神に見初められて死の世界に行き、行き詰まりを感じていた詩の創作意欲を掻き立てられる。死神(マリア・カザレス)は美しく、二人は恋に堕ち、オルフェは生の世界に戻っても夢うつつの身になってしまう。身重の妻はそれを嘆き悲しんで交通事故死。美しい死神は死の世界の裁判にかけられて人間と恋におちた罪を問われ、詩人との恋はなかったことにされる。
有名なマレーの写真ー鏡の中の自分に頬擦りしているようで、どんだけ自分好きなのよ!とつっこみたくなるやつーは、オルフェが死の女神様に恋焦がれている場面だったことがわかったのはスッキリな件。
それから、美人の死神のアシスタント兼運転手のおじさんも、オルフェの奥さんに恋していたという話で、なんだかコクトーって可愛い人だな、と思った。
オルフェウス神話を現代に移植した「黄泉がえり」の物語……その割には奥さんの扱いが雑だが(笑)
人生初コクトーである。
本業は詩人といっても、長短合わせて10本も映画を撮っているのだから、もはや立派な職業監督といっていいだろう。そのうちまとめて観ておきたいと思っていたから、今回の特集上映は願ったり叶ったりだ(コクトー3本+ブレッソンの未見作)。
ちょうど、シネマヴェーラで「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」をやっているのもありがたい。時期的にはコクトーの活躍期ときれいに被るからだ。たとえば、今日の午前中にシネマヴェーラで観た『高原の情熱』(ジャン・グレミヨン監督、1948)のプロデューサーは、コクトーが脚本を書いた『悲恋』(現代版トリスタンとイゾルデ)や、今回上映される『美女と野獣』のプロデューサーでもある。
さらに、『オルフェ』の題材が「黄泉がえり」ーー「地獄めぐり」の基本形であることも、僕の興味を強く惹きつける要素のひとつだ。
「地獄めぐり」は、僕が西洋の映画を鑑賞するうえで、常に強く意識しているある種のクリシェである。直截的にはダンテの『神曲』に由来する要素だが、この「地獄で現世の業を追体験することで浄化・再生される」という図式は、『時計じかけのオレンジ』『ジェイコブズ・ラダー』から今年観た『マッドゴッド』や『MEN』に至るまで、さまざまなジャンルの映画で援用されつづけてきた。
オルフェの冥界下りというのは、まさにこれらの本家本元といってもいい。
やはり、注目せずにはいられない。
(考えてみると、「古典」のメルクマールをポイントを抑えて映画化してゆくコクトーのやり方は、パゾリーニとも近い気がする。)
初見の印象としては、画面構成の美しさ、堅固さは、他の職業監督に決して負けていない。
なにより、思い切った特撮の使用が、メリエス的でじつに面白い。
トリック撮影への愛着と衒いのない信頼が、なんだかまぶしいくらいだ。
むしろ、特撮こそが映画の核心である、と考えている節すらある。
特撮の方法も、「先にアイディアありき」のような、「どう撮ったかを画面から推理させる」ような、稚気にあふれたものばかりで、コクトーがわくわくしながらこの「仕掛け」を楽しんでいるのが伝わってくる。
とくに、死後の世界に行ったあとの不思議空間(うまく前に進めない描写)として出てくる、「壁が床になっている」場面。あれはドリフのコントかビックリハウスみたいで、実によかった!
それから、随所で用いられる「逆回し」。死体がゾンビみたいに甦るショットとか、手袋をはめるショット(繰り返しネタの「先に出てくるほう」が明らかな逆回し、というのも気が利いている)とか、鏡が割れるショットとか、死後の世界を進んでいくショットとか。
あと、鏡を通り抜けるショットも、何かの粘性の高い液体に手を突っ込むのを横倒しに撮っていて、おおお、そう撮るのか、と。
そのほか、合成ショットとか、ポジネガ反転とか、とにかく枚挙にいとまがない。
観ている客が、ちゃんとトリック撮影だと「気づく」ように(よく考えればどう撮ったかも推察できるように)撮っている点にも注目したい。ここで彼がやっているのは、良く出来たマジックか推理小説のような、映像ギミックを用いた、観客との知恵比べなのだ。
要するに、コクトーはこれだけ小難しい映画を撮りながらも、その根本の部分では「遊んでいる」。
この「よく考えられた子供の悪戯」のような稚気こそが、コクトーの本質のような気もする。
あと、月並みな印象で恐縮だが、ジャン・マレーが頗るつきに良い男だ(確かにハンサムではあるんだけど、ちょっと声がピーター・フォークみたいなキンキン声なのは予想とちがったかも)。
というか、出てくる登場人物が男女・端役も含めて、みんな美形で驚く。
主人公の言動が(鏡の要素も含めて)妙にナルシスティックで、男性キャラどうし(とくにオルフェと冥界運転手)のやりとりの距離感がやたら「近い」あたり、同性愛者ならではの感性が行き渡っているといえるのかも。
女権なんたら協会の長として出てくる女性も、明らかにオルフェの妻に同性愛的な感情を抱いているようだし。
ただ全体の流れとしては、あまり物語の見通しがよくない(わざとかもしれないが)。
唐突に話が切り替わるところや、盛り上がると思ったらさらっと流してしまうシーンが多く、序破急の組み立てやクライマックスの作り方において、あまりうまい監督とは思えなかった。
(このへん、やはり本質が「詩人」だからなのだろうか? そういえば、かつては寺山修司の映画にも似たような印象をもった記憶がある。)
内容的には、かなりぶっとんでいるといっていい。
とにかく、ころころと映画のジャンル感とリズムが切り替わっていく。
出だしの、若者たちが集うカフェでのネオ・リアリズモっぽい活気。
急転直下発生する暴動での、活劇調のアクション(ウェスタンにおける酒場での殴り合いシーンに近いノリ)と、唐突なひき逃げの発生。
搬送の付き添い強要からの、これまた唐突なお屋敷ホラーじみた展開。
先述した、「死のプリンセス」が轢死した若き詩人をベッドでぴょこたんと蘇らせる「ゾンビ」めいた逆回しショットには、思わず笑ってしまった(なにかのパロディか?)。
屋敷から戻ってくると、今度は身重の夫人との家庭劇に変ずるが、
そこに冥界運転手が絡んできて(ぱっと消えたり出たりするのが奇妙すぎる)、不思議な三角関係のドラマが展開する。このへんはちょっとメロドラマ調だ。
通例、子供ができたときいたら、善良な亭主なら大喜びするところだが、オルフェはいかにもどうでもよさげな振る舞いで、屋敷で出逢った「自らの死」であるプリンセスのことばかり考えている。
さらには、車中に流れて来るラジオに「詩の暗号」が隠されていることに気づいた彼は、奥さんそっちのけで車にこもりはじめ、取り憑かれたように「暗号」をメモるようになる。
しかし、それが死んだ詩人の「盗作」として世間の物議を醸し、彼は怒り狂った連中から狙われるはめに……。
展開があまりに「いびつ」でひっかかるのだが、「なぜそんな変な話になっているのか」には何らかの明快な理由があることが伝わってくるような物語。
その意味では、60年代後半にベルイマンやパゾリーニややっていたことを「先取り」するような映画なのだが、肝心の「何」が作品をゆがませているのかが僕にはわからず、帰りにパンフを買っても、コクトーは「この作品は、詩人と、霊感と、不死と、鏡の四つが基本的主題」みたいな判じ物のような言葉しか与えてくれなかった。
こうやっていざ感想を書こうとして、先達のみなさんのレビューを読んで、「若いラディゲを喪ったり、盗作がらみで世間に叩かれた自らの体験が随所に反映されている」「冥界からのラジオ通信やバイクに乗った死神は戦時中のレジスタンスの暗喩で、彼らが冥界本部からの命令に背いて二人を生の世界に戻すのは、レジスタンスが共産党本部の指令に歯向かったことの現われ」という解釈にふれ、眼から鱗が落ちるような感覚を味わった次第。うーん、なるほどなあ。
たしかに、「自身の詩人としての体験をなぞって主人公に投影させている」点と、「戦争体験のトラウマが、死後の世界になぞらえて表出されている」点を考慮すると、いろいろな「観ていてわけのわからなかった」部分に、はじめてすっきり得心が行ったという感じだ。
とはいえ、一本の映画として共感度が高いかといわれると、あまりにオルフェのキャラが自己中すぎて、イマイチのめりこめなかったのもたしか。ふつうに奥さんが可哀想というのが、どうしても観ていて先に立ってしまう。
身重の奥さんを邪険に扱って浮気心募らせたりしてたら、きょうびの芸能人とかめっちゃ叩かれてるよ(笑)。詩人云々はさておき、人としてアンタどうなの?って思っちゃう。
しかも、この話は「冥界に死んだ奥さんを取り返しに行く」話なのに、常時この男は奥さんに対して気もそぞろな応対ぶりで、だいたい別のこと(死のプリンセスと冥界通信)ばかり考えているし、いざ奥さんを取り返しに行くのも、冥界運転手に強く薦められたから、というふうにしか僕には見えない。
さんざん勝手に家を抜け出して奥さんをボッチにしたあげく、そのせいで一人で出かけようとした奥さん死なせといて、最初は運転手の言葉を信じないわ、マジで死んだとわかったらすぐ泣き崩れるわ、おいおい、なんだこいつ? ずいぶんだな、というのが率直な印象である。
で、冥界に行ったら行ったで、あろうことか、奥さんのことそっちのけで、死のプリンセスと悲恋ものめいたやりとりを展開している!! えええ? あんた奥さん迎えにいったんじゃないんだ???
通例、こういう物語って「強い愛がないと亡き妻を蘇らせることはできない」って構造をとるのがふつうだと思うのだが、徹頭徹尾この主人公は奥さんをないがしろしているし、自らの内的な「死への傾斜」と「詩人としての使命」を優先している。しょうじき、こんなやつに奥さんを取り戻す権利なんかない、と僕の道徳観は告げている。
しかも、実際にどうなるかというと、オルフェそっちのけで「冥界側が」奥さんを取り戻させる算段を勝手につけて、おぜん立てしてくれて、手取り足取りやり方まで教えてくれるのだ。さらには、冥界から戻ってきたオルフェは、禁忌とされた「奥さんをその目で見てはいけない」というルールをいかにも無防備に、さくっと破ってしまう。で、ふたたび冥界送りになった二人を、今度はプリンセスと運転手サイドが多大なる自己犠牲を払ってまで、再びこの世に送り返してあげるのだ。「オルフェの死が、オルフェを愛してしまったから」。
ええええ、なんて虫のいい話。ただのハンサム無双じゃねーか(笑)。
結局、コクトー自身が同性愛者なので、夫婦愛というものにはそもそも無頓着というか、冷淡というか、無関心なのかもしれない。
実際、冥界運転手とオルフェのやけにインティメットな関係性は、バディもの風にじつに繊細に描かれている。
でも、それだったら、あの丸く収まったみたいな終わり方でほんとうにいいのか?という話だ。時間巻き戻しエンドで、夫婦は何事もなかったかのように仲良く過ごしました……って、なんだそのヘイズコードにひっかかって作り直したみたいなハッピーエンド?
このあたりがどうしても腑に落ちないので、星評価にもそのへんが反映されている。
まあ、それも僕の夫婦観の勝手な押し付けに過ぎないんですけどね。
逆にいうと、男性の情動に関しては生々しい「人間」としてリアルに描けても、女性に関しては「どんなロクデナシの旦那でも常に許してくれる包容力のある存在」(妻)、「世の中の理を捻じ曲げてまで愛する男を救ってくれる崇高な存在」(プリンセス)として「神聖視」しているぶん、こういう「片務的」な物語構造になってしまうのかもしれない。
こういう「女性の自己犠牲」に全幅の信頼を寄せる在り方って、ちょっとワーグナーっぽいかも。
でも、やっぱりそれって、甘えだよなあ。
最後に音楽について。ジョルジュ・オーリックはもともとフランス六人組の一人で、オネゲルやミヨー、プーランクたちと活動していただけあって、実に洒脱でモダンな楽曲を書く。今回の曲も、一聴して「なんかミヨーっぽいな」という印象が強かった。
ただ、随所にグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』の旋律が用いられていたのは見逃せない。もしかすると、他の『オルフェ』関連の劇音楽からの引用もあるのかもしれない。
そういえば、来る3月に、フランス人カウンターテナーのフィリップ・ジャルスキーが来日して、「オルフェーオの物語」と銘打つコンサートを開催する。オルフェウス神話を描いた17世紀のイタリア・オペラのうち、モンテヴェルディ、ロッシ、サルトーリオの三作から名場面を披露するという「天才か?」みたいなプログラムだ。あまりバロック・オペラは聴かないので行かないつもりだったが、がぜん興味がわいてきた。
そういえば、ジャルスキーもカミングアウトした同性愛者。もしかすると、今回の企画、コクトーが霊感源やもしれぬ。
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