続・夕陽のガンマン 地獄の決斗のレビュー・感想・評価
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痺れ、病みつき、脳天を撃ち抜かれる!
主演クリント・イーストウッド、監督セルジオ・レオーネ、音楽エンニオ・モリコーネのトリオによる3大傑作、“ドル3部作”と呼ばれている「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」に続く3作目です。
前2作よりもコメディ色を強めながら、迫力のアクションと圧倒的なスケールでボリュームアップしています。イーストウッドが演じる賞金稼ぎ、イーライ・ウォラックが演じるお尋ね者、「夕陽のガンマン」にも出演したリー・バン・クリーフが演じる捕虜収容所長がクライマックスに対峙し、撃ち合う前の緊張感が張り詰めた名シーンには何度見ても痺れます。
モリコーネの印象的な音楽、哀愁のメロディーが全編を包み込み、レオーネのスタイリッシュな演出の特徴である超クローズアップ、急速なズーム、パンフォーカス、地面からややあおり気味のローアングルなど、鮮烈で斬新なショットやカメラワークは一度見たら病みつきになります。
そして、目深に被ったハット、無精ひげにタバコをくわえ、ポンチョを着こなす孤高のガンマンという映画史上のアイコンとなったイーストウッドが演じるキャラクターの眼光鋭くニヒルな表情とクールな存在感に、脳天を撃ち抜かれることでしょう。
これぞレオーネの人間賛歌。あらゆる映画の頂点に君臨する極私的ベスト・オブ・ベスト!
早稲田松竹で『夕陽のガンマン』と併せて鑑賞。
初めて劇場で観た『続・夕陽のガンマン』。
いやああ、控えめに言って、
最っっ高でしたっっっ!!!!
マカロニ・ウエスタン史上最高というか、
すべてのウエスタン映画史上最高というか、
そもそも全アクション映画史上最高というか、
恐れずいえば、あらゆる映画史上最高というか。
俺の映画人生におけるベスト・ムーヴィーを、
ついに映画館の大画面と大音響で堪能する至福のひととき。
『続・夕陽のガンマン』には、
俺が映画に求める全てがつまっている。
圧倒的なキャラクターのかっこよさ。
所作、ガン捌き、歩き方、佇まい。
すべてが、しびれる。あこがれる。
ロングショットとズームの多用が、
圧倒的な叙事詩性と、物語性を生み出す。
トリッキーなショット。
スタイリッシュなモンタージュ。
そのすべてが、映画としての画格に貢献している。
フィルムを止めれば、「絵画」として美しい。
フィルムを回せば、「映画」として生きている。
アメリカの西部劇を構成する「かっこよさ」のすべてのエッセンスが、イタリア人の美意識によって抽出され、精錬され、完成された様式美のギミックとして呈示される。
華麗な曲撃ち。帽子のつばをあげる仕草。ぐるりと口元で回るシガー。
すべての細部が驚くほどのインパクトをもって迫って来る。
さらにドル三部作は、きれいごとの「善玉」と「悪玉」の区分を超えて、人間どうしの欲望と金への執着を西部劇のテーマとして前面に押し出した点でも、斬新だった。
西部劇のかっこいい主役が、正義を口にすることなく、ただ「金」のために戦う。同じ「金」に群がる「悪」としのぎを削り、「私利私欲のために」それを打ち倒す。
はじめてレオーネの洗礼を受けた俺は、「正義の味方」のファンタジーを反転させて生まれた、金と欲のリアリティの物語に夢中になった。
『続・夕陽のガンマン』では、この方法論がさらに複層化されている。
原題は、『The Good, The Bad and The Ugly』。
良い奴、悪い奴、卑劣漢。
もちろん、作品の中身をそのまま表したタイトルではない。
これは、ネタだ。観客への問いかけだ。
西部劇あるいはアクション映画全般における「善玉」と「悪玉」という区分をネタに、「正義となにか」「悪とはなにか」を考察したメタ的な西部劇。それが『続・夕陽のガンマン』の本質だ。その意味で本作は、『ダークナイト』や『ジョーカー』の古いご先祖さまだともいえる。
そのなかで、「善」でも「悪」でもない中間的な立ち位置で、「卑劣漢」「ずるい奴」として規定された「第三のペルソナ」は、きわめて重要な存在だ。
卑劣漢、トゥッコ。
ああ、トゥッコ。
わが愛しのトゥッコ!!
映画史上、こんなにも汚らわしくて、みっともなくて、
でも、ヒロイックで、かっこよくて、ふてぶてしくて、
愛嬌があって、いとおしく思えるキャラがいただろうか?
(いやいない)
俺はトゥッコのすべてを愛している。
冒頭いきなり、窓から無様に食べ掛けの格好で逃亡していくかに見えて、実は4人の追跡者たちをさくっと片づけている、あの必殺のガン捌きを。
天涯孤独の身の上をブロンディに語った舌の根も乾かぬうちに、僧院の神父の兄貴と両親の話をしている、あの厚顔無恥さを。
マヌケだがやたら嗅覚がきき、コミックリリーフだが心根は冷酷かつ残忍で、道化の仮面の裏ではギラギラとした殺気と欲深さを駄々洩らしている、この男の在り方のすべてを、俺は愛している。
実際、観た人なら100人が100人同意してくださると思うが、本作の主人公はイーストウッド演じるブロンディではない。トゥッコだ。
トゥッコという強烈な「ugly」がいたからこそ、『続・夕陽のガンマン』は、傑作の域を超えて、神作の域へと至ったのだ。
たとえるなら、トゥッコは、『指輪物語』におけるゴクリ。
あるいは北欧神話におけるレギン(ミーメ)のような存在だ。
野卑で、卑屈で、コミカルで、
邪悪で、欲深く、感情の起伏が激しい。
すなわち――、どこまでも「人間くさい」。
トゥッコは、人間の醜さと尊さ、人間の欲望と義侠心、人間の怒りと笑いをないまぜに併せ持つ、ある種、神話的存在である。
善玉としてのペルソナをかぶる、もう一人の卑劣漢ブロンディとも、
正反対の異名をもちながら、悪漢として輝くエンジェル・アイとも異なる、
剥き出しで、ペルソナ要らずの「人間の業」そのもののような存在。
トゥッコこそは、「人」の生々しい本質である。
なぜ、俺はそこまでトゥッコという「人間」にこだわるのか?
それは、突き詰めれば、『続・夕陽のガンマン』が、「人間」の尊厳についての物語だからだ。
『続・夕陽のガンマン』には、『荒野の用心棒』にも『夕陽のガンマン』にも出て来ない、とある要素が付加されている。
それは、「戦争」という舞台背景だ。
男たちが金の争奪戦を繰り広げ、競い合い、騙し合い、ときには共闘し、私欲を剥き出しにマウントを取りあう。そこは三作を通じて変わらない。
だが、『続・夕陽のガンマン』は、そこに「戦争」という要素を対比的に持ちこみ、男たちの私的な闘争を際立たせることに成功した。
戦争は、大量死の世界だ。
国家の大義を前にして、個は意味を喪い、私も意味を喪う。
南北戦争のような内戦においては、同じ国民同士であるにもかかわらず、北部と南部に分かれて不毛な消耗戦を繰り広げる。
個人はそれまでの人生の文脈から切り離され、肩書きとともに軍属としての新たな地位を与えられ、数に還元されて、肉弾戦の資産(アセット)として消費される。
昨日はただの無法者だった人間が、今日の収容所長であったり、今日の収容所捕虜であったりする。橋を守る飲んだくれ軍曹にも、平時の職業があったり家族があったりしただろう。
それでも、過去のすべての属性ははく奪され、「殺し、殺される」単なるコマとして扱われることになる。
そんな南北戦争を背景に、ブロンディと、トゥッコと、エンジェルは、「戦争そっちのけ」で私欲にまみれた金貨強奪戦を、知力と体力と早撃ち能力の全てをかけて繰り広げるのだ。
それって、凄いことじゃないか。なんて、痛快なんだ!!
彼らにとっては、戦争なんて、どうでもいい。
大義なんてぶっちゃけ関係ない。
自分だけが大事。金貨だけが大事。儲けることだけが全て。
欲がいちばん。俺様がいちばん。
彼等は、思い切り戦争に巻き込まれてはいるが、
その実、ちっとも戦争に巻き込まれてなんかいない。
戦争を利用し、戦争を生き抜き、戦争で生まれた「金」を奪い合う。
そこには、「個」のせめぎ合いがある。
「私」の熾烈な戦いがある。
彼等は、「自分」であることをあきらめない。
無意味な大量死を象徴する戦士たちの集団墓地で展開する、1対1対1の究極の決闘シーン。あのシーンこそが、本作の核心である。
これは、無法者たちが全体主義に対してもっともナチュラルな形で示してみせた、究極の「レジスタンス」であり、「人間賛歌」なのだ。
そう、『続・夕陽のガンマン』は、「人間賛歌」である。
だからこそ本作は、凡百の戦争映画や西部劇を超えて、レジェントとなり得た。
二つを「混ぜる」ことで、戦争の愚を際立たせ、西部魂の粋を見せてくれた。
戦争による意味のない大量死と、尊厳ある決闘の死を対比することで、人が人として生きることの壮絶な価値を描き出してみせた。
尊厳をもった戦いのなかで死ぬのなら、男は別段死んでも構わないのだ。
自分の追い求める富と名誉のために前向きに倒れて死ねるのなら、本望なのだ。
その、泥臭く、正邪を超えて、どこまでも人間臭い、「人の生命力と生々しさ」の象徴的なアイコンこそが、トゥッコというキャラクターだ。
だからこそ、俺はトゥッコという男を愛する。
彼が生き抜くことで、世界の未来が開けるから。
言い換えよう。『続・夕陽のガンマン』は、西部劇を材に撮った、セルジオ・レオーネにとっての「ルネサンス」的所産だった。
清も濁も併せ持つ人間性そのものの肯定。ユマニスト的な、人間の活力と生命力への礼賛。個が全体に呑み込まれず、個として振る舞うことへの全幅の共感。
それがあるからこそ、『続・夕陽のガンマン』は胸を打つ。スカッとする。観ていて生きる元気が湧く。自分のために生きていいのだと思わせてくれる。
『続・夕陽のガンマン』は、そんじょそこらの娯楽映画ではない。
俺にとっては、人生の映画。生涯の映画である。
この「戦争の大量死」と「尊厳ある個の死」の対比という話は、ちょうど戦間期の英国における本格ミステリの発達や、日本の戦後すぐに訪れた本格ミステリブームとも呼応するものだ。それは死を玩弄する娯楽ではあったが、同時に個人の死を特別視し、聖化する試みでもあった。レオーネが本作を通じてやろうとしたのも、殺しをゲーム化することで逆説的に「個人の死を特別な何かに引き上げてみせる」実験であった。
さらに、レオーネの「ドル三部作」が多大な影響を与えた、とある作品群がある。
そう、日本の時代劇が誇る、「必殺」シリーズである。
「必殺」には、レオーネの築き上げたマカロニ・ウエスタンの文法が、ほぼそのまま移入されている。やたら金に執着する殺し屋たち。殺し屋もまた悪である。悪が悪を討つなかで、結果的にある種の正義が執行される。曲芸じみた殺し技が生み出す、デコラティヴな死。殺しの前には必ず「仕掛けの準備」の描写があり、殺しの凶器が並べられ、棺桶の錠(沖雅也)は敵の面前で得物の手槍を組み立てる(ダグラス・モーティマーの組み立て銃!)。あざといカメラワーク。引き延ばされた殺し技のけれん味。最後に火を吹き消す殺し屋(イーストウッドもやってました!!)。そして、ほぼ丸パクリといっていい、平尾昌晃による似非・マカロニ・ウエスタン風「殺しのテーマ曲」。
俺が大学時代にマカロニ・ウエスタンにのめり込んでいったのは、「先に」必殺シリーズの洗礼を受け、心も身体も必殺(と特捜最前線)漬けとなった中高生活を送っていたからだ。
必殺愛好家の俺の体に、レオーネのウエスタンは、命の水のようにしみ込んだ。
そして、今でもレオーネと必殺のエッセンスは、俺のガソリンとなって、俺の心を燃やし続けている。
アメリカでジョン・フォードが大成した西部劇。
その技法と精神を、日本の黒澤がチャンバラ時代劇に持ち込み、それに感銘を受けたイタリアのレオーネが、その要素をふたたび西部劇に組み込んだ。で、レオーネの創始した新しい西部劇のエキスが、今度はアメリカのペキンパーや、日本の「必殺」に受け継がれていく……。なんとうつくしいピンポンであることか!
『続・夕陽のガンマン』には、ほかにも語りたいことが山ほどある。
砂漠で復讐に燃えるトゥッコと、アンドレ・カイヤットの名画『眼には眼を』の関係性。
漢の魂を伝え合うツールとしての「シガー(タバコ)」の効用。
敢えて『夕陽のガンマン』の善玉を悪玉役に起用する稚気(エンジェル一味には前作の密告者役が交じる)。
南軍の捕虜が歌わされているメロウなメロディに対して、北軍兵が「もっと感情をこめて!!」と強要するメタで自虐的な仕掛け。
その泣きむせぶような望郷の歌を背景に、ひたすら殴りまくられるトゥッコ(美メロと暴力の取り合わせ)。
暴力シーンややけどの凄惨な描写と伊ホラーの関係性。
主人公が戦争に「呑み込まれてしまう」『夕陽のギャングたち』との比較……。
だが……残念ながら紙幅が尽きてしまったようだ。
とにかく言っておく。
四の五の言わずに、まずは観てほしい。
そして、感じてほしい。
『続・夕陽のガンマン』の娯楽としての面白さを。
その背後にある、監督の理想の高邁さを。
三人の男たちの、生命と魂の昂ぶりを。
終映後、映画館から出てくる男たちの、妙に肩で風を切るような歩き方と、どこかいきった表情が、なんだかほほえましかった。
きっとみんな、脳内ではモリコーネ・ミュージックが高らかに流れていたんだろうなあ(笑)。
何回見ても面白いものは面白い。
自身が最も繰り返し見た作品の1本。物語り(マカロニバディロードムービー)が良い、カメラ(レオーネお得意の熱苦しい漢たちのどアップ)が良い、役者(出演ウエスタンNO1のカッコよさのイーストウッド、悪役が渋すぎるクリーフ、一番の儲け役のウォラック)が良い、音楽が良い。特にイーライ・ウォラックが良すぎる。彼中心にストーリーを回したのも大正解。南北戦争の悲哀をダイナミックに挿入しながら3人のアウトローの闘いをじっくり(3時間)描き尽くすマカロニウエスタン傑作中の傑作。日本語吹替完声版は作品の面白さを更に上げている奇跡の逸品。ウォラックのアフレコに声質まで同じ大塚周夫さんを指名した人に大拍手です。
どんどん尺が
長くなる、砲撃シーンや最後の決闘シーンが長ったらしい。でもドル三部作の中でやっと、俺ジナルなものが濃厚に出てきた。南北戦争の意外な程長い描写、所々で出て来る不具者。“卑劣漢”と出るが意外と人間味があり信心深い。銃のカスタム化とか爆薬設置とか細部のこだわりも凄かった。
二枚目、敵役、三枚目をおちょくった様な演出でラストも爽快! しかしポンチョはどこから?
どうしてこんなに面白いんだろう?!
1968年7月14日、この日「続夕陽のガンマン」と「サムライ」を観なかったら、私は50年以上映画ファンであり続ける事はなかったかも知れない。自分史の中でそういう位置を占めているのだ。
4月10日(水) 新宿ピカデリーで「続夕陽のガンマン 地獄の決斗」(4K)を。
英題は「The good,The bad,and The ugly」
The good(ブロンディ)はクリント・イーストウッド、The bad(エンジェル・アイズ)はリー・バン・クリーフ、The ugly(テュコ)はイーライ・ウォラックである。
まず、この映画を面白くしているのはイーライ・ウォラックの存在である。悪党なのに憎めない、笑わせてくれる愛すべき(?)キャラクターを演じている。
1968年にこの映画を観た時の字幕は高瀬鎮夫氏である。氏は、当時多くの映画字幕を担当していて、コロンビア映画は大田国夫、ヨーロッパ映画は清水俊二、残りのアメリカ映画は高瀬鎮夫というのが当時の私のイメージであった(実際、現在とは公開本数が違うとはいえ、全盛期には公開映画の7割を高瀬氏が担当したと言われている)。
氏の字幕は意訳が多いのだが、本作で氏が付けた字幕がThe ugly=イジけた野郎、である。善玉、悪玉、卑劣漢などのありきたりの訳でないのが良かったね。(今回の字幕は善玉、悪玉、卑劣漢だった)
ちなみにThe good=ちょっとイイ男、The bad=グッと悪い男、であった。
映画の冒頭でテュコを襲った3人組の一人が生き残って、映画の中盤でテュコを発見して入浴中に襲って来るが、圧倒的優位な態勢なのに能書き垂れ過ぎてテュコに射殺される。敵を倒したテュコ曰く「ムダに喋っているヒマがあったら撃て」ゴルゴ13か、お前は。
銃器店で銃を選ぶ時も、複数の銃を分解してバレルとシリンダーの最良の組合わせを選ぶこだわりをみせる(銃はレミントン・ネービーリボルバー)。そして試射、テュコは射撃の腕前も凄い所を見せる。こういった所を丁寧に描いているから上映時間が長くなるのだ。
テュコは橋を爆破に行く前に銃に弾込めをしている。(これがラストの決斗の伏線になっている)
再三、南軍、北軍の負傷した兵士の姿が捉えられる。橋を爆破する事によって橋を巡って戦闘していた両軍を撤退させて死傷者をこれ以上出さないと言う大義のもと(オッペンハイマーみたい)にブロンディとテュコは橋を爆破する。(本当は金貨の隠し場所に近づくためなんだけど)
この橋の爆破シーン、カメラを回す前に爆薬のスイッチを押して爆破してしまい、スペイン軍が急遽橋を架け直してから撮影したと言うのを後で知った。
橋を爆破した後、二人は朝まで塹壕でじっとしている。ブロンディはテュコを蹴り起こす(これもラストの伏線の一つだ)。
川を超えた所で重症の南軍兵士に出会い、ブロンディは葉巻を吸わせてやると兵士は事切れる。ブロンディは自分のコートを掛けてやり、変わりにそこにあるポンチョを持ち帰る。(これがクリントのポンチョスタイルの原点となる)
クリント・イーストウッドは、西部劇の時にいつも同じホルスター(ガンベルト)を使っている。「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」と同じホルスターを「続夕陽のガンマン」でも使っている。(確か「シノーラ」でも使っていた)
だが、本当はこれはおかしいのだ。何故なら前2作では使っている銃が(多分)コルト・ピースメーカーだが、「続夕陽のガンマン」ではレミントン・アーミーリボルバーなので、バレル(銃身)の長さも違うためホルスターは違って当然なのである(早撃ち出来ないよ)。また、銃の種類が違ってもグリップは同じ銀の蛇が蜷局を巻いた物を使っている。閑話休題。
いよいよサッドヒルの墓場に埋められた金貨の行方をめぐるラストの西部劇史上初のトライアングルの地獄の決斗である。
エンニオ・モリコーネの音楽も冴える。
3人の顔のアップ、いや、眼だけのアップ、銃に近づく手の、指のアップ。指は銃に近づく、止まる、戻る、また近づく。
遂に銃は抜かれ、火を吹く…。
ラストにもう一度各自のアップに字幕が重なる。The ugly=イジけた野郎、The bad=バカを見た男、The good=グンとイイ男、であった。(あ、高瀬鎮夫版です。今回は善玉、悪玉、卑劣漢でした。つまんねえ訳だ)
何本もマカロニウエスタンを観たが、この作品の右に出るものはない。タランティーノが気に入る訳だ。
人間には2種類いる。映画を作る奴とそれを観る奴だ。
おまけ
この映画を気に入った方には、ドキュメンタリー映画「サッドヒルを掘り返せ」を観る事をお勧めする。サッドヒルにクリント・イーストウッドが登場するシーンは胸アツである。
映画館で観たが、、筋も共感できず。古い録音を大音量にすると割れて不快
大金をめぐって3人の男が、競う。
結局 金が目的なので、感情移入できない。
筋も無理が有る。
南北戦争時代の米国が舞台で、その雰囲気が少し分かったのはよかった。
TV放映用の編集短縮版の方が好きです!
TVで何回も鑑賞して、大好きな映画ですが、初めて映画館で、178分のオリジナル版を鑑賞しました。個人的には、余り必要のないシーンが多いと感じられました。
勿論、ラストの3人の決闘シーンは、素晴らしい作品です!
脚本ダメ、ダラダラ長すぎ
ドル3部作の3作目でタイトルに“続”と付きますが、2作目『夕陽のガンマン』とは繋がってません。
西部劇と聞いて思い浮かべる、ほぼ全てのモノが詰まってます。
西部劇にフェチズムを持つ人が作った映画のようにも感じます。
拍車の付いたウエスタンブーツ、リボルバー、西部劇な銃さばき、早撃ち、ウエスタン扉、などなど。
最初は、カッコイイ!!と観てたけど、脚本がダメ、面白くない。
途中からダレてきて、ウトウトしながら観ました(笑)
3時間と長すぎだし(笑)
ガッカリ作(笑)
西部劇らしからぬ大作!
ドル3部作の3本目となる今作、見たことないかもと思ってたのですが、ラストでテュコが墓場を走りまわるシーンが記憶に残ってたので、テレビで部分的には見たことあったようです。
前2作と違い、大作に仕上がっておりエキストラも大勢でお金かけてるなあと思いました(笑)
卑劣漢とか悪玉、善玉って画面説明出るのがなんか不思議な感じがしました。
普通そんな説明でないでしょ、見てればわかるはずなので。
というか善玉のはずのイーストウッド演じるブロンディって懸賞金掛けられた男と組んで捕まえては逃がし、捕まえては逃がしで、懸賞金を何度ももらう懸賞金詐欺やってるやん!
ということで3人とも悪人だが、ブロンディだけは無駄な殺しはしないし、何と言ってもイーストウッドが演じてるのでついついブロンディに肩入れして見てしまいます。
「夕陽のガンマン」でモーティマー大佐を渋く演じたリー・バン・クリーフですが、今作は名前はエンジェルだが容赦なく人を撃ち殺す残忍性を持ち合わせた役となり、悪玉になってしまいました。
そして卑劣漢のテュコが今作の中心的人物で状況を見極めてコロコロ態度を変え、金の亡者みたいな役を演じてます。が卑劣ではあるが極悪人という感じでもなくいい味出してます。
今作の特徴としては南北戦争をストーリーに大きく絡ませているところです。
ラストの北軍と南軍の戦い、橋の爆破のシーンなど、いつのまにか西部劇から戦争映画になってる!?て感じです。何を見せられてるんだ?という疑問が一瞬頭をよぎりました。
レオーネ監督はなんのためにそういった戦闘シーンを挿入したのだろうか?
もちろん西部劇テイストの見せ場もあります。砲弾が飛び交う中でのエンジェル一味5人と一時的に手を組んでいるブロンディ、テュコの対決シーンや、ラストのトライアングルでの決闘シーンは見応えたっぷりでした。
でも、その前のテュコが一人で墓場を走って走って探し回るシーンが強烈でした。
人間って欲望を満たすためならエネルギーが無限にあふれ出てくるかのような、テュコの喜びを爆発させて疾走する姿。
あのシーンだけは大昔に見たはずの私の記憶に残ってたくらいですから。
それとは対照的な南軍と北軍の何のために戦っているのかわからないような戦い。
個人の欲望とは無縁の戦いで多くの人が負傷し死んでいく。
どうせ死ぬなら己の欲望のために戦って死んだほうがましではないのか?とでも言いたげなレオーネ監督の演出。
人によって受け取り方は様々かなとは思いますが、先のことを考えて橋を残す両軍に対して、今を生き抜くためにはあの橋を爆破して南軍を撤退させるしかないと考えたブロンディがテュコを連れて橋脚にダイナマイトを仕掛け爆破するシーン。なんだか爽快でした。
そしてラストで死なずに済んでかつ分け前までもらえたのに、感謝などせずブロンディに悪態をわめき散らすテュコの姿に人間の滑稽さ愚かさを感じるとともに、怒りや欲望が人間にエネルギーを与える原動力なのだという人間賛歌のようなものも感じました。
なかなか奥が深いですこの西部劇。
なので☆半分おまけです。
どこが善玉やねん
2024年劇場鑑賞77本目。
卑劣漢、悪玉、善玉と三人が紹介されますが、善玉って出る前に既に金目当てに賞金首でもない3人殺して、詐欺まで働いとんねん!
悪玉と卑劣漢はその名の通りの役割を果たしますが、善玉であるイーストウッドはその後も金目当てにしか動かず、やらなくていい意地悪までしたりして恨みも買っていきます。橋のエピソードだけ善人ぽいけど卑劣漢も同じ行動しているからそれまでの悪行取り戻せず、最後に「どこが善玉だ!」とメタ的なツッコミに「だよね」としか思えませんでした。後なっがい。
劇場で観ていなければ評価が違ってしまうのも無理からぬ….?
まずは今回、同じ「新宿ピカデリー」という名を冠した劇場での、初公開の1967年から60年近く半世紀以上ぶりという記念すべき再公開は感無量である。
しかも、今回は前回と同じユナイト=英語バージョンでありながら、4Kレストアされて限りなくイタリア・オリジナル全長版に準じて復元されたバージョンでの上映がついに叶ったわけである。
スクリーン・サイズから言えば、国内でのこれまでで最大サイズでの上映じゃないだろうか?、という点で感涙物でもあった。(2番スクリーン)
西部劇に、血生臭い決闘、ガンファイトだけでは無い、剥き出しの金銭欲とそれに比しての人の命の安さ、それらとは対照的に思える(ブラック)ユーモアなど、人間の性(さが)をこれでもかとばかりに盛り込んだストーリーを持ち込み、これほどのスケールの長時間大作を作るなどという発想は本家のアメリカ人には決して生まれ出なかった事だろう。
その、ややも屈折した強烈な一方的(ひとりよがり?)アメリカ愛となってしまったこの“ラブコール”に、当時のアメリカ人にはとても理解することが出来ず、応じかねてむしろ拒絶反応を起こしてしまったのであろうといえる顛末(公開当時)。
この映画のストーリーを最も簡単に表現するのであれば、「3人の登場人物が馬鹿し合い騙し合い終いに“黄金”の奪い合いに発展して行く」事に過ぎない。
従って、この映画の見どころはそのようなところ(だけ)には無かろうと。
前二作と比して、南北戦争を背景に壮大なスケールで、テクニスコープの画角を最大限に生かし切っているとも言えるワイドスクリーンに映し出される映像表現、情景は芸術的とも感じられる事。
これだけのスケール感の西部劇というだけでも凄いのに、そのストーリーが歴史的題材や、感動的、人道的ドラマなどといったありがちな題材ではない異色作であるとと言える点など、モリコーネ氏の特異なテーマ曲や哀愁溢れるメロディと共に、個人的には長年こよなく愛すべき作品でもあります。
レオーネ監督の手法でよく(意味ないアップなどと)言われる極端な顔のアップには滲み出るアブラ汗や、たかる虫にも目もくれずの“目は口ほどにモノを言い”の如き登場人物のギラつく両眼が交互に映し出され、人間の欲望、情念を炙り出すが如き手法など、これらの監督の意図するとこをその受け取り手である鑑賞者が適正に理解するには、劇場のスクリーンでなければ相当困難であるという事を痛感させられます。
ただ単純に“オリジナル全長版”での鑑賞が目的であるのなら、その昔入手したイタリア初期発売版DVDで幾度も果たしている。
目的の殆どは「大画面での鑑賞」という事に尽きるだろう。
全く夢のような事である。
かつて昭和の時代の放送形式と受像機で、初放送から何度も放送されてきた作品だが、このフォーマットのスタンダードだとスコープサイズの1/3〜1/2近く左右が切り取られたような印象だった。
更に、我が国劇場公開の短縮米国版から更なる編集カットが加えられたのを、辻褄が合うよう吹き替え版に施されての放送である。
主に‘80年代のビデオ・ソフト化〜レンタル時代も後半に受像機も横長化された事で、この辺りの事情は改善されたものの、他の多くの作品も含めて「オリジナル全長版」での鑑賞は困難を極めた事は変わらずだった
こうした事情限って考えた場合、前述のようなストーリーラインとまつわるアクションとそのオチという部分は押さえて割り切ってしまうのであれば、それはそれで良かったようにも思える。
これにはベテラン声優陣が素晴らしかったという事もあげられる。
逆に、劇場スクリーンでの鑑賞を前提して構成されたこの全長版を、今日の家庭受像機やタブレット、スマホでの鑑賞では観るに耐えず、両者(製作者と鑑賞者)のどちらにとっても不幸な結果を招くに過ぎずと思える。
特に、見せ場である筈の最後の墓の中央の円形の広場での三つ巴決闘シーンなんかも、イタリアのコロッセオか?、古代ギリシャの円形劇場か?と思わせる演出だが、遠景でスクリーン一杯に映し出される三者の様子は、左右ちょん切られた画面では意味分からず、小型画面では小さ過ぎで何だか分からず、どちらにせよ、いたずらにただ長々と繰り広げられる退屈なシーンと受け取られるという結果に成りかねず。
個人的には、機会があるうちに劇場スクリーンで鑑賞される事を、是非お勧めしておきます。
あと、ちょっと気づいた点として、タイトルロールの主演3人の表記が、今バージョンではイーストウッドin で主演、バン・クリーフ助演、後出しで別格のウォラックみたいな順で登場して来ますが、イタリア・オリジナル版では背景画面と連動してその順番通りに3人の名はイーストウッド、ウォラック、バン・クリーフin と続いて登場しています。
題名も、これはけっこう知られていますけど、オリジナルでは、「いい奴、汚ねえ奴、悪い奴」と、英語版と並びは違っており、3つ目の前にandも入らず、並列表記です。
それから、イーストウッドの扮装が終盤にきて「荒野の用心棒」状態となります。
舞台的にも“南北戦争”時代であり、時系列としては今作が1番目との解釈になるという事なんでしょうね。
参考までに。
南北戦争の戦場
で自由に動けるのが不思議だったが面白かった。
汚い奴、悪い奴、いい奴の字幕が面白い。
午後ロードなので短くなっているから、20万ドルがどうして埋まっていたかはよくわからなかった。
最後にいい奴がポンチョを得る理由が分かる。
これは戦争は無益だということをいっているのかな?
ハゲタカは北軍だし。
軍隊には徴兵ではなく志願なのかな?戦場でも一般人がいられるようだし。
しかし、原題はガンマンの文字も夕陽ない。イタリア語だし「二つのぼろ布」?
午後ロード 録画視聴
最後の決闘がアツい
監督のセルジオ・レオーネをはじめ主要メンツが同じと言うだけで、「夕陽のガンマン」とは全く関係ない本作。
南北戦争の時代の話で、金貨を求める3人のガンマンの物語。
これまたOPからすっごい格好良いです。
十分こちらも面白いのですが、改めて見るに明らかに長すぎですね。
もうちょっとコンパクトに収められなかったのかなと思いました。
こんな風にちょっとダレを感じつつも、最後の決闘ではちゃんと締めてくるんですね。
決闘はその音楽も相まって凄いアツいんですよ。
こんな感じで途中少し横道に逸れながらも、最後はしっかりと纏めたウェスタンでした。
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