「劇場で観ていなければ評価が違ってしまうのも無理からぬ….?」続・夕陽のガンマン 地獄の決斗 アンディ・ロビンソンさんの映画レビュー(感想・評価)
劇場で観ていなければ評価が違ってしまうのも無理からぬ….?
まずは今回、同じ「新宿ピカデリー」という名を冠した劇場での、初公開の1967年から60年近く半世紀以上ぶりという記念すべき再公開は感無量である。
しかも、今回は前回と同じユナイト=英語バージョンでありながら、4Kレストアされて限りなくイタリア・オリジナル全長版に準じて復元されたバージョンでの上映がついに叶ったわけである。
スクリーン・サイズから言えば、国内でのこれまでで最大サイズでの上映じゃないだろうか?、という点で感涙物でもあった。(2番スクリーン)
西部劇に、血生臭い決闘、ガンファイトだけでは無い、剥き出しの金銭欲とそれに比しての人の命の安さ、それらとは対照的に思える(ブラック)ユーモアなど、人間の性(さが)をこれでもかとばかりに盛り込んだストーリーを持ち込み、これほどのスケールの長時間大作を作るなどという発想は本家のアメリカ人には決して生まれ出なかった事だろう。
その、ややも屈折した強烈な一方的(ひとりよがり?)アメリカ愛となってしまったこの“ラブコール”に、当時のアメリカ人にはとても理解することが出来ず、応じかねてむしろ拒絶反応を起こしてしまったのであろうといえる顛末(公開当時)。
この映画のストーリーを最も簡単に表現するのであれば、「3人の登場人物が馬鹿し合い騙し合い終いに“黄金”の奪い合いに発展して行く」事に過ぎない。
従って、この映画の見どころはそのようなところ(だけ)には無かろうと。
前二作と比して、南北戦争を背景に壮大なスケールで、テクニスコープの画角を最大限に生かし切っているとも言えるワイドスクリーンに映し出される映像表現、情景は芸術的とも感じられる事。
これだけのスケール感の西部劇というだけでも凄いのに、そのストーリーが歴史的題材や、感動的、人道的ドラマなどといったありがちな題材ではない異色作であるとと言える点など、モリコーネ氏の特異なテーマ曲や哀愁溢れるメロディと共に、個人的には長年こよなく愛すべき作品でもあります。
レオーネ監督の手法でよく(意味ないアップなどと)言われる極端な顔のアップには滲み出るアブラ汗や、たかる虫にも目もくれずの“目は口ほどにモノを言い”の如き登場人物のギラつく両眼が交互に映し出され、人間の欲望、情念を炙り出すが如き手法など、これらの監督の意図するとこをその受け取り手である鑑賞者が適正に理解するには、劇場のスクリーンでなければ相当困難であるという事を痛感させられます。
ただ単純に“オリジナル全長版”での鑑賞が目的であるのなら、その昔入手したイタリア初期発売版DVDで幾度も果たしている。
目的の殆どは「大画面での鑑賞」という事に尽きるだろう。
全く夢のような事である。
かつて昭和の時代の放送形式と受像機で、初放送から何度も放送されてきた作品だが、このフォーマットのスタンダードだとスコープサイズの1/3〜1/2近く左右が切り取られたような印象だった。
更に、我が国劇場公開の短縮米国版から更なる編集カットが加えられたのを、辻褄が合うよう吹き替え版に施されての放送である。
主に‘80年代のビデオ・ソフト化〜レンタル時代も後半に受像機も横長化された事で、この辺りの事情は改善されたものの、他の多くの作品も含めて「オリジナル全長版」での鑑賞は困難を極めた事は変わらずだった
こうした事情限って考えた場合、前述のようなストーリーラインとまつわるアクションとそのオチという部分は押さえて割り切ってしまうのであれば、それはそれで良かったようにも思える。
これにはベテラン声優陣が素晴らしかったという事もあげられる。
逆に、劇場スクリーンでの鑑賞を前提して構成されたこの全長版を、今日の家庭受像機やタブレット、スマホでの鑑賞では観るに耐えず、両者(製作者と鑑賞者)のどちらにとっても不幸な結果を招くに過ぎずと思える。
特に、見せ場である筈の最後の墓の中央の円形の広場での三つ巴決闘シーンなんかも、イタリアのコロッセオか?、古代ギリシャの円形劇場か?と思わせる演出だが、遠景でスクリーン一杯に映し出される三者の様子は、左右ちょん切られた画面では意味分からず、小型画面では小さ過ぎで何だか分からず、どちらにせよ、いたずらにただ長々と繰り広げられる退屈なシーンと受け取られるという結果に成りかねず。
個人的には、機会があるうちに劇場スクリーンで鑑賞される事を、是非お勧めしておきます。
あと、ちょっと気づいた点として、タイトルロールの主演3人の表記が、今バージョンではイーストウッドin で主演、バン・クリーフ助演、後出しで別格のウォラックみたいな順で登場して来ますが、イタリア・オリジナル版では背景画面と連動してその順番通りに3人の名はイーストウッド、ウォラック、バン・クリーフin と続いて登場しています。
題名も、これはけっこう知られていますけど、オリジナルでは、「いい奴、汚ねえ奴、悪い奴」と、英語版と並びは違っており、3つ目の前にandも入らず、並列表記です。
それから、イーストウッドの扮装が終盤にきて「荒野の用心棒」状態となります。
舞台的にも“南北戦争”時代であり、時系列としては今作が1番目との解釈になるという事なんでしょうね。
参考までに。
どうもです。
当方、今作については劇場初体験につき、長年の悲願を果たせた感無量に劇場を後にいたしました。
劇場公開当時から自身にとっての人生最大影響作となった「夕陽のギャングたち」のみが唯一、未だ再公開を果たされないままである事が残念ですね…