「私が殺したと言えば、神の救いが。 苦しんで罪をあがなうの」罪と罰(1970) マサシさんの映画レビュー(感想・評価)
私が殺したと言えば、神の救いが。 苦しんで罪をあがなうの
『リザヴェータから貰ったの』『君はこの人を知っているのか?』『正直な良い人よ。今は斧で殺されて、天国にいるわ』
ラスコーリニコフは鳥肌が立っただろう。
『立って、あなたが汚した大地にキスしなさい。世界中に頭を下げ、私が殺したと言えば、神の救いが。 苦しんで罪をあがなうの』
敬虔なロシア清教徒の考え。
勝手に解釈
殺されたアリョーナ婆さんは、殺されたのにもかかわらず、哀れみや同情も無く、ラスコーリニコフも最後まで『婆さん』と馬鹿にしている。なんでなんだろう。ふと、思った。金貸しと言えば、ユダヤ人なのだろう。ロシア人は勿論、ドストエフスキーは反ユダヤ主義。でも、妹リザベータは?リザベータは義理の妹。ソーニャに聖書(たぶん)を贈ったから、敬虔なロシア正教徒だと思う。ドストエフスキーは、リザベータも殺してしまった事で、ラスコーリニコフに罰を与えたのではないか。と僕は感じた。
ロシア革命の50年くらい前の話。ロシア革命で、こう言った事もなくなったとボルシェビキは言いたかったのではないかと思う。人民の多くは赤貧の農奴だった時代。ソーニャの妹ポレーチカも現実では、街に立ったのだろうと思う。
映画としては、普通で、何一つ活気的な事もしないが、原作には忠実だったと思う。だから、やっぱり原作にはかなわない。
ドストエフスキーは反ユダヤ主義を持ちながら、ユダヤ人の老人を殺した事で、ロシア人のラスコーリニコフに罰を与えた。つまり、殺人を否定していると思う。PLAN75では、それを法律で国がやると仮定している。どんなに馬鹿な話だと理解して貰いたい。
但し、その後のラスコーリニコフがどうなったかは、映画では説明していない。原作を読めばわかる。